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「あっ、ねぇねぇ、笹川さん。笹川さんもこれ、書いてね」
そんな一言で、笹川あまねの机に色紙が置かれたのは、夏休みを目前に控えたある日の昼休みだった。
「……なにこれ」
窓の外を見るともなく眺めていたあまねは、視線を落とすなり、気味悪がるように呟いた。
実際、少し奇妙だったのだ。白い台紙を、色も形もまちまちな文字たちが、びっしりと埋め尽くしている。軽く酔いそうなくらいに。
「お見舞い。シガジョーの」
――なんだ、その、某芸能人のパクリみたいな呼び名は。
色紙を差し出してきた女子の返答に顔をしかめ、
――そういえば。
しかしすぐに思い出してまた窓のほうを見る。でも、今度の視点はもっと手前だ。
思えば、新学期をきっかけに出席番号順に並べ替えられてからずっと、あまねの右隣は空席だった。そのせいで忘れかけていた。
高校は二年のときに文系か理系かに分かれるから、最後の年はクラス替えもないというのに。
志賀丈。
そんな、フルネームで呼んでもあだ名のように聞こえる、変な名前の男子がいた気がする。まあ、私の「あまね」だって負けず劣らず変だとは思うけれど。
「あと笹川さんだけなんだ」
続けられた言葉に耳を疑う。
……だけ? 今、だけって言った?
少なくとも三十名以上はいるはずだが、もれなく全員分のメッセージを集めたというのか。こんな友情アピールみたいなこと、あからさまに面倒くさがる生徒もいるのではないのか。
色紙に意識を戻し、ざっと目を通す。状況が状況なので、ひとつひとつ数えるなんて嫌味たらしいことはできないが、敷き詰められたカラフルな文字は、やはりかなりの分量である。
肝心の内容は? 意外にも二、三行にわたる長文が多い。もちろん、あまねの踏んだ通り、淡白な社交辞令で終わっているものもいくつかあった。しかし、それだって常識の範囲内だ。この手のことをすれば、必ずひとつやふたつは出てくるだろうおふざけが、一切見当たらない。
どうなっているんだ、これは。こんなことがありえるのか?
「あの、そもそもなんでお見舞い――」
動揺しながら言いかけると、
「ジョーのやつ、春休み中に自転車で転んで腕の骨折ったんだってさ」
「ダッセーよな」
「何やってんだか」
教室の隅にたむろしていた男子たちが、口々に言う。
重なる笑い声。だが不思議と不快な印象は受けない。気の置けない友人を、冗談半分にからかうような、揶揄の中にも気遣いが垣間見える口調。
――あぁ、そっか。
たったそれだけで、またひとつ、思い出してしまった。
――人気者だったもんな、あの人。
軽薄そうな男子集団を振り返る。そうだった。もう顔もよく覚えていないけれど、シガジョーは、彼らの一員だったのだ。去年の今頃は、あんなふうに教室の隅で戯れて、小突き合って、笑い合っていた。
もしかしたら、色紙に寄せ書きをしようなどと言い出したのも、彼らなのではないだろうか。ふと、そんなことを思う。
実物を見て分かるように、これは、全員が積極的に書いたものではない。人望が厚く、目立つ存在からの提案、また対象となる人物もそのうちのひとりだったがために、きっと乗り気でない少数派の意思は、黙殺されてしまったのだ。
担任が指示した、形ばかりのものだったならば、半数の参加率も望めなかっただろう。見えない圧力というのは、どこにだって潜んでいる。
おおよその事情を悟ったあまねは、
「分かった。ちょっと待ってね」
前に向き直り、机の引き出しからペンケースを取り出して開けると、細身のマジックを手にした。そして、
『お大事に 笹川』
辛うじて残された余白に、淡白社交辞令組の中でも随一だろう一言を、味気ない黒文字で書き記し、「はい」と向かいの女子へ突き返した。
見えない圧力があれば、立てなくていい波風もある。長いものには巻かれろ、とはよく言ったものだ。
「ありがと。これで全員だね。……じゃあ菊池たち、言い出しっぺなんだし、あとはよろしく」
受け取りながら女子が発した言葉に、やっぱり、と含み笑いを漏らしたとき、
「えー、俺らかよぉ」
「めんどくせぇ~」
後方からブーイングが飛んできた。
「だって、頻繁にお見舞い行くのなんてあんたらくらいでしょ?」
女子のもっともな理屈に、男子たちはなおも抗議する。
「いやいや、だからだよ。なぁ?」
「今さらそんな水くさいことできるかっつーの」
「そーそー。書くのと渡すのは話が別」
そろいもそろって照れているのか。見かけに寄らずかわいいところもあるではないか。
なんて微笑んでいられたのも、ここまでだった。
「っていうかさ、笹川でよくね?」
男子の思わぬ一言に、教室にいる生徒の視線が一斉に向けられたのが分かった。昼休み中だからそう多くはないはずなのに、言いようのない威圧感を覚え、ぴくりと肩がはねる。
「え、わっ、私!?」
何がどうして突然そうなるのだ。
「そーだよ。席隣だし」
「書いたの最後だし」
「学級委員だし」
捲し立てようとした数々の反論は、最後の一撃でうぐぅと喉の奥に押し込まれた。
そう。争いをしてまで、ヒエラルキーの頂点には立ちたくない。けれど、最下位で空気のような扱いを受けるのも許せない。
あまねはそんなへそ曲がりポリシーのもと、暑苦しい生徒会選挙を避け、大した努力をせずとも自身を顕示できる「学級委員」という立場を、三年間貫き通している。誰もやりたがらない地味な役職ゆえに、教師陣からの受けもいい。
「うーん、そうだねぇ。クラス全員でやったことだし、代表と考えればおかしくはないか」
色紙を抱えた女子までもが同調し始める。
「ちょっ……!」
普段はありがたがるどころか煙たがってすらいるくせに、こういうときばっかりいいように使いやがって。学級委員という名の雑用係か私は。
内心で毒突くあまねに、黒髪ボブが印象的なその女子は、すっと色紙を返してきた。
「ってことで、お願いしても……いいかな? 笹川さん」
にっこり営業スマイル。
「明後日から夏休みだし、時間のあるときでいいから」
選択肢など初めからあってないようなものだろうに、あくまでこちらから承諾を引き出そうとする。小癪なやつらめ。
立てなくていい波風。立ててもろくなことにならない波風。
白旗を上げる代わりに、ひとつため息をついた。
「……別に、いいけど」
低い声で答えれば、女子はわざとらしく笑みを深める。
「よかった。後でラッピングして渡すね」
へー、ご丁寧にラッピングまでするんですね。っていうかそこまでするんだったらそのままあなたが届ければいいんじゃないでしょうか?
そんなことを考えつつ仏頂面でうなずいて、顔だけで後方を一瞥すると、菊池と思しき生徒が満足そうににやついていた。
覚えておけよ、軽薄男子集団。
*
「じゃあ、また後で」
「うん」
兄の言葉に、丈は小さくうなずいた。
立ち上がって病室の出入り口まで歩を進め、ドアに手をかけようとした兄は、
「――無理があると思うけどなぁ。それ」
ふと振り返り、苦笑しながらそんなことを言う。
視線の先には、不格好な左腕。
丈も同じ個所に目をやり、「あぁ……」と曖昧に笑った。
「まぁ……悪あがき、かな」
そう返して、もう一度含み笑いを漏らした兄を見送る。
ドアが閉められたちょうどそのとき、床頭台に置いたスマホがメッセージの着信を知らせた。
手早く確認すれば、いつもつるんでいる親友からだ。
『アマノガワさん誘導成功! 夏休み中に君に見舞い色紙を届けに来るそーです! もちろんひとりで! うまくやれよ?』
「えぇっー!?」
読んだ直後、病院の中だというのに思いきり叫んでしまった。
アマノガワさん――もとい、笹川あまね。
去年、初めて同じクラスになったときの第一印象は、けっしていいものではなかった。
学級委員なんて面倒な役回りを率先してやっているし、気が強くて、とっつきにくそうで。
でもいつの間にか、人目を気にせず自分の仕事を淡々とこなす彼女の姿を、自然と目で追うようになっていて。
そのうち、悪友たちに「気になっちゃう感じ?」「お前、ああいうのがタイプなん?」と囃し立てられ、とっさに否定しようとして、気がついてしまった。
こんな少女漫画みたいな展開、信じたくないけれど、つまりはそういうことなのかもしれない、と。
だって人は、何かしらの事情でもない限り、興味のない相手には、きっと見向きもしないのだ。彼女がそうであるように。
彼女は、自分にはない強さを持っていた。手に入らないものほど、どうしてか魅力的に映る。
想いを自覚してからは、「俺たちが取り持ってやるよ」などと散々冷やかされていたが、まさか本当にやってくれるとは。
笹川さんが来る。この病室に。ひとりで。
「どうしよう……」
自分の困惑に満ちた呟きが、ぽつりと病室に落ちた。
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