39人が本棚に入れています
本棚に追加
*
「で? 苦手な教科は?」
翌日。あまねは言葉通り、筆記用具とノート、それなりに量のある夏休みの課題を持って、シガジョーの病室を訪れていた。
「数学」
教科書とノートをオーバーテーブルの上に広げ、なぜか誇らしげに答えた彼に、今日も今日とて制服姿のあまねは乾いた苦笑を漏らす。
「理系クラスなのに?」
素直な疑問を口にすると、
「理科は好きだけど数学は苦手なのっ!」
彼は拗ねたように頬を膨らませた。やっぱり女の子っぽい、という感想は呑み込む。
でも、文系教科を指定されなくてよかった。特に国語なんかは、それまでの積み重ねというより、ぶっつけ本番みたいなところがあるので、教え方が分からない。それに引き替え、数学はあまねの得意分野だ。
「えーと、ちょっと教科書貸してね?」
あまねはオーバーテーブルに積み上げられたものの中から、数学の教科書を抜き取り、ぱらぱらとめくりながら尋ねる。
「巻末問題ってやったことある?」
「あー、巻末は手つかずだな。各ページの最後にあるちょっとしたやつを、たまにやってる感じ」
シガジョーの返答を聞くなり、「よし」と巻末の一ページを開いて見せた。
「そんじゃ、とりあえずここからここまで、ノートに写して解いてみて? 片手しか使えないし、どの問題か分かるようにしてくれれば、答えだけでもいいけど」
「はーい」
まずは自力で解いてもらって、彼の弱点を把握しなければ、先に進めない。
すでにテストを終えているあまねはどんな問題が出されるか知っているわけで、小賢しい相手なら教えろとせがんできそうなものだが、彼にその発想はないようだ。
「怪我したの、利き手じゃなくてよかったぁ~」なんて言いながら、のん気にシャープペンを走らせている。
さて私もテーブルの隅を借りて夏休みの課題を片付けようかしら、と思ったとき、昨日の一声が脳裏をよぎった。
「ねぇ」
真面目そうな横顔に声をかけると、彼は「ん?」と顔を上げる。
「昨日の『アマノガワさん』って、なにあれ?」
「あぁ、あれ?」
彼はすぐに思い当たったようで、なんだかはつらつとした反応を示した。
「なんかさ、『ささかわ あまね』っていう響きだけ聞いたとき、天の川みたいだなって思ったんだよね。それから心の中でずっとそう呼んでたから、ついとっさに……」
笹川という苗字と、あまねの「あま」で天の川を連想したのだという。分かるような、分からないような。
「ふうん。別に私、七夕生まれでもなんでもないけどね」
言うと、彼は好奇心旺盛な子供のように「えっ、誕生日いつ?」と尋ねてきた。なんだかやたらと楽しそうだ。
白い手の中でなめらかに動いていたシャープペンは、いつの間にかノート上に転がっている。
「六月十三日。梅雨真っ盛り。志賀くんは?」
答えてから訊き返すと、
「九月二日! 国の日っ!」
とおどけた様子で言い、「そっかぁ、梅雨の時期かぁ。やっぱ雨は関係してるのかな?」なんて興味深げに続けた。
「知らない。訊いたことないし、まともな答えが返ってくるとも思えない」
投げやりに言い放った後で、うちの親バカだから、という身も蓋もない一言は、どうにかため息に変える。
子犬のように小首をかしげる彼を見たら、もう少し情けのある言葉を選ぼうと思った。
「私の両親、学生結婚したの」
「学生、結婚……」
シガジョーは、初めて聞く英単語を覚えるみたいにゆっくりと、ぼんやりと繰り返した。
「父親が十八で、母親が十六。まだ高校生。しかもデキ婚」
最近では「おめでた婚」とか「授かり婚」とか、祝福感ある表現が使われるようになったけれど、本人たちにそれなりの覚悟と計画性がなければ、ただの過ちだと思う。
「何やってんだかって感じでしょ」
せっかく踏みとどまったのにあんまり意味なかったな、と思いつつ横を見ると、シガジョーはただ困ったように薄く笑っていた。
「ただいまー……」
薄暗い玄関先に向かって呟いてみても、返ってくる言葉はない。いつものことだ。
靴を脱いで、二階へと続く階段へ目をやり、思う。
トラック運転手として働く父は、今頃、夜勤に備えて仮眠を取っているのだろうか。父が何時に出勤して、何時に帰ってくるのかも、よく知らないけれど。
両親はあまねが六歳のとき――小学校に上がる前に離婚した。
物心ついたときから淡白で、子供らしさとはまるで無縁だったあまねは、いつかこんな日が来ることも、頭のどこかで理解していた。むしろよく六年も続いたと思う。
親権が父に決まったとき、承諾も拒否もしなかった。別にどちらでもよかったし、もしあまねに選択の余地が与えられていたとしても、きっと父を選んだだろう。
どちらについていきたいかではなく、どちらについていったほうがマシか、という妥協で。
過去に経験があったわけではないけれど、自由を愛する母は、あまねを邪険にして、取っ替え引っ替え見知らぬ男を家へ連れ込む――そういう映像が、なぜかまざまざと頭に浮かんでしまったのだ。
対して父は、放置することはあっても、娘を捨てる根性はないだろうと思った。それもなぜだか、根拠のない確信があった。
事実、小学校からただの一度も授業参観に来たことはないし、弁当なんて作ってくれたためしがないけれど、家庭が破綻しない程度には稼いでいるようだ。女の気配も感じたことがない。
幼少期の読み通り、それなりの平穏を手に入れられたのはいいが、果たしてあの人は生きていて楽しいのだろうか。最後に会話した――いや、顔を合わせたのはいつだっただろう。
こんな金づるみたいな関係なら、高校入学と同時に家を出て、仕送りだけしてもらったほうがよかったかもしれない。
「……今さらだけどね」
薄闇にこぼした自分の呟きに、自分でむなしくなった。
最初のコメントを投稿しよう!