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朝日を感じて薄目を開けたのと、スマホがメッセージの着信を知らせたのは、ほぼ同時だった。
まだ眠気に支配されている思考と体で枕もとのスマホを手に取り、確認する。
『今日は来られる?』
「『今日は』じゃなくて『今日も』でしょうよ……」
ベッドから起き上がって、頭の後ろを片手で掻きむしりながら口にした一言は、太陽を受けて輝く埃に紛れた。
毎日とは言わないと宣言したのはどこのどいつだ。そう言いたくなるほど、シガジョーのお呼び立ては頻繁なものだった。
八月に入り、夏休みも後半に差しかかる頃には、もう日課も同然のようになっていて。
やっぱりもっともな断り文句を知らないあまねは、おとなしく従うしかなかった。たとえ最終日だろうと、お構いなしらしい。
連絡先教えなきゃよかったかな……なんて思いつつ、あまねは今日も重い腰を上げた。
身支度を整えて一階へおり、そのままなんの気なしにダイニングを覗いて、
「あ……」
一瞬、固まってしまった。――父が、いたから。
何も言えずその場に突っ立っていると、新聞越しに「おう」と低い声が聞こえた。その付近からほのかに漂う、ビターな大人の香り。
コーヒー片手に新聞を読む姿がこんなにも似合わない父親、他にいるだろうか。
「お、おはよう……」
戸惑いながら挨拶を返し、奥へ向かおうと歩を進めて、テーブルの上に食パンと味噌汁が置かれていることに気づいた。そのそばには、マーガリンやイチゴジャム、ブルーベリージャム、ピーナッツクリームなどが不格好に積み上げられている。
――これは、私に食えと……?
今ひとつ確証が持てないが、父が食べないのなら、他に誰もいないだろう。
わざわざ訊くのもナンセンスな気がして、顔と手を洗ってから、椅子に腰をおろす。
「いただきます……」
小声で言ってみると、やっぱり返ってきた言葉は「おう」だった。新聞の上から覗く黒髪に、そういえば離婚したばかりの頃は金髪だったな、なんてどうでもいい記憶がよみがえる。
真っ白なお皿にのせられた食パンは、よく見ると、ところどころ黒く焦げついていた。パンすらうまく焼けないとは、なんたる不器用さ。
もちろん野菜なんてものはなく、たぶん、味噌汁もインスタントだ。というかそもそも、甘いジャムに味噌汁はミスマッチなのでは……?
いろいろ思うところはあるけれど、わざわざ焼き直すのも面倒だし、父もパンも少し不憫な気がしたので、このままいただくとしよう。
「めずらしいのね、今日も夜勤?」
すっかり冷めきった食パンにマーガリンとイチゴジャムを塗り広げながら、尋ねる。取り合わせ的にはマーガリンだけでいきたいが、この焦げようは、甘さでごまかさないと無理そうだ。
「いや、休みだけど。日曜だし」
「だったら、なおさら寝てればよかったのに」
意外な答えにそう返しながら、ひとくちかじる。両方たっぷり塗ったけれど、案の定、苦い。おまけに硬い。思わず顔をしかめる。
「目が覚めちまったんだよ」
父はちょっと拗ねたように言って新聞を畳み、コーヒーをすすった。あごから短く垂れた無精ひげが格好悪い。
「今日も出かけるのか?」
ふいに訊かれて驚いた。知っていたのか。
「まあね」と平然を装いながら、今度は大口でかじる。とっとと片付けてしまいたい。
呼び出し食らっちゃったし、と言い添えようと思ったが、あらぬ疑いをかけられても困るので、やめておく。
「あのさ……」
――骨折ってどのくらいで治る?
代わりにそう尋ねようとして――父の間抜け面を見てこれもやめた。医者でもないこの人が知るはずもない。
「……やっぱいいや。なんでもない」
「なんだよ」
追求しようとする父から逃げるように、パンの残りをインスタント味噌汁で流し込み、「ごちそうさま」とダイニングを離れた。
*
「いらっしゃい、あまね」
病室に入ると、件の彼はオーバーテーブルから視線を上げ、シャープペンを持ったままの右手を軽くかかげた。
「いらっしゃい、じゃないから。呼び出しといて」
ため息交じりに返しながら、ベッドの傍らにある丸椅子に腰かける。
気づけばお互い、下の名前で呼び合う仲になってしまった。
今日も病室内は当然のようにふたりきりだ。親しげなふうだった男子集団とも顔を合わせたことがない。
「あのさ、菊池くん……だったっけ? たちって最近来てないの? 夏休み前はちょくちょく行ってるみたいな感じだったけど」
気になって丈に尋ねると、
「あー……高校最後の夏だし、みんな、青春の消化活動に忙しいんじゃない?」
と冗談めかして笑う。
年頃の男子の友情なんて、しょせんそんなものなのだろうか。
丈はさして気にするふうもなく、オーバーテーブル上のノートに視線を戻す。
彼の家庭教師は手がかからないし、気も楽だった。近頃はあまねが来る前からこうして自主的に取り組んでいることも多いし、分からない部分も、一度教えればすぐに呑み込む。授業に出ていないぶん遅れていたというだけで、おそらく地頭はいいのだろう。
家庭教師なんて必要ないくらいだ。毎日のように呼び出されるこちらの身にもなってほしい。
あまねはそんなことを考えながら、名ばかりの生徒の傍らで文庫本を開いた。仮にも最終日だ。夏休みの課題はとうの昔に終えている。
羅列された問題なら、あらかじめプログラムされているかのごとくすらすらと答えが浮かぶのに、読書となるとちっとも集中できない。
横目でちらりと盗み見る。
丈の左腕を覆う、白い三角巾。美少年の調和を乱す、ただのくたびれた三角巾。
なんの変哲もないその布に、とある違和感を覚え始めたのは、いつからだろう。しかもそれは、日ごとに大きく、色濃くなってきている。
「ねぇ、あまね。ここってさ……」
ふと、悩むように自分を呼んだテノールに、思考が途切れた。
文庫本を片手に、彼のノートを覗き込む。しばらく眺めて、
「あぁ、これはxが――」
簡単に説明すると、彼はすぐに理解したらしく、「そういうことか、ありがと」と言って再びペンを走らせる。
こんなの、苦手の範疇に入らないんじゃないかと思う。
ふたりの間に流れる、静かな空気。ペンの音。
あまねはどうにも耐えられなくなって、読書を放棄するように文庫本から顔を上げた。
「ところで」
意を決して、口を開く。
「明日から学校だけど、腕、大丈夫なの?」
すると、彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐに口もとを緩め、
「うん。まあ、なんとかね。明日退院だから夏休み明け初日は無理だけど、明後日からは行けると思う」
なんの淀みもなく、すらすらと答えた。
「そう……」
短く返すと、「なーに読んでるの?」とじゃれるように問いかけてくる。
ひょっとして今、話をそらそうとした……?
疑心暗鬼って、こういうことをいうのだろうか。
性格上、一度生まれた疑惑から目を背けることも、忘れることもできない。
でも、この違和感の正体を知ることは、触れてはいけない何かに、触れてしまうことを意味する気がした。
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