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*
――ヤバい。ヤバい。バレたかもしれない。
丈は学校に復帰してからここ一週間、ずっとビクビクしていた。
最後のあの日、彼女は妙に気にしていた気がする。兄の言う通り、骨折なんて、あまりにもベタすぎただろうか。
考えるたび、心臓が縮こまるような感覚がする。長期間続く緊張状態が祟ってか、今日のコンディションは久々に思わしくなかった。
体はだるいし、視界は時折、スプーンでかき混ぜた紅茶の水面みたいに歪む。たぶん、少しだけど熱もある。
「宇宙は私が思っていたよりもずっと――」
のんびりとした口調で評論を朗読する国語教師の声は、弱った体にゆっくりと眠気を注ぎ込んでいく。
できれば早退はしたくない。この後の数学を乗り越えれば昼休みだ。その間に保健室で仮眠すれば、多少なりとも回復するだろう。
回らない頭であれこれ考えていると、教室内が急に騒がしくなった。
はっとして、意識と視界が明瞭になると同時に、
「いっ……」
机におでこをぶつけ、自分が舟を漕いでいたのだと気づく。
どうやら、授業の合間の五分休憩に入ったらしい。
「……ってぇ~!」
摩擦のような痛みが残る額を片手でさすっていると、左隣の彼女が、ふふっとおかしそうに笑った。担任にその気がないのか、それとも忘れているのか、新学期を迎えても席替えが行われる気配はなかった。
たしか去年も、一学期の初めに変えられたきりだったか。今の並び順を見るに、今年はそれすらなかったらしい。どんだけズボラなんだ、担任。
なんて考えながら、
「腕、治ったんだね」
彼女の口から続けられた言葉が、何気ないものだったことに心の隅でほっとしつつ「うん。まあどうにか」と答えた後で、ふと思う。
ずっと隣の席にいるのに、学校でまともに話したのはこれが初めてかもしれない。まあ、いつも菊池――章たちとつるんでいるから、無理もないか。
「あ、そういえばさ」
突然投げかけられた質問口調に、肩が跳ねそうになる。どうにか抑え、
「――なに?」
震えそうになる声も必死に抑えながら、訊き返す。
「どうだったの? テスト」
……なんだ、びっくりさせないでよ。
「あぁ……おかげさまで赤点ナシ」
拍子抜けした雰囲気は声色に滲んでしまったかもしれない。
「それは何より。赤点の心配なんて最初からしてなかったけどね」
そう言ってはにかむ彼女を認めた瞬間、ふわりと甘く気持ちが浮つく。うっかり気まで飛びそうになって、あわてて引き締めた。
時間というのは、待っていればいるほど、長く感じるものだ。
数学なんて苦手だから、たいていはこっそり寝てしまうのに、今日は一睡もできなかった。
「おーい、ジョー!」
「ごめん。ちょっとトイレ」
いつものごとく、五分休憩のときとは比べものにならないほど騒がしくなった教室の隅にたむろして自分を呼び止める菊池たちに、ほぼ反射的に断りを入れる。
嘘をついているわけではない。ちゃんとトイレにも行きたい。ただ、その後に寄るところがあるだけだ。
誰に聞かせるでもない言い訳を心の中で並べ、あまねが隣の席を立ったのを確認してから、さっと机の引き出しを探る。右手のひらに当たる、角ばったかたい感触。
――あった。
丈はさっとそれを掴んでワイシャツの胸ポケットに押し込み、足早に教室を後にした。
いまだむっとした夏の湿気を漂わせている殺風景な廊下を渡って、一階へおりると、まずは男子トイレへ。
個室で用を足してから、立ち上がって、胸ポケットに忍ばせておいた半透明のケースを取り出した。中から、錠剤を手にし、口内に放り込む。
そしてトイレを流すと、上に取り付けられた手洗い場の蛇口の水と一緒に服用した。あまり清潔でないかもしれないが、この際、なりふり構っていられない。
錠剤ケースを再びしまって男子トイレから出ると、少し気が緩んだのか、
「……っ」
また目がくらむ。そろそろ限界かもしれない。熱も上がってきているような……
早く、早く保健室へ行かなくては。
焦る気持ちとは裏腹に、引きずる足は枷をつけられたのかと思うほど重く、うまく動かない。頭は脳みそを押さえつけられたように鈍く痛むし、一歩進むたびに息が切れる。
苦しい。
意識も、次第に、遠のいていって――
「……っと」
倒れる寸前、とっさにその場にしゃがみ込んだ。
大丈夫だ。ちょっと休めばすぐにおさまる。
そう自分に言い聞かせながら、うずくまって呼吸を整えていると、
「あー、もう。見てらんないわ」
ふいに、馴染みのある声と、ゆったりとした足音が背後から徐々に近づいてくる。
足音がやむと同時に、そっと顔を上げれば、
「あまね……」
案の定、よく知った彼女が、呆れたような表情でこちらを見おろしていた。
「なんで――」
ここに? と尋ねる前に、ぐいと手を引かれて立たされる。そこではっとし、適当な理由をつけて逃げようとしたが、
「保健室、行くんでしょ?」
そんな暇もなく、こちらの魂胆などお見通しだとでもいうように、がっしりと手首を掴まれてしまった。
「え、ちょっ、ちが……」
いや、本当は違わないけれど。
「いいから早く」
あまねは苛立ったように言って、そのまま歩きだす。
握られた手首が、じんわりと痛い。意地でも離さない、と訴えかけてくる。
抵抗したいのは山々だったが、情けないことに、もはやそんな体力も気力も残されていなかった。
*
ねぇ待って、あまね。待ってってば。これはその、違うんだって。
さっきから、抗議にならない抗議を力ない声で続ける丈を、あまねは苛立ちながら半ば引きずるようにして保健室へ連行していた。
必死な彼の言葉は、もはやBGMと化している。
――なにが違うのよ。なら私の手なんて振り払えばいいじゃない。そんな元気もないくせに。
あー、だから、そう。教室の階のトイレが混んでたから、しょうがなくこっちまでおりてきただけで、別に保健室とか……
丈が下手すぎる嘘を思いついたタイミングで、目的地にたどり着く。
私の勝ち。
内心でふっと不敵な笑みを浮かべてドアを開けると、養護教諭の姿はなかった。――幸いと思うべきか。
「ほら、病人はおとなしく寝てなさい」
諦めたように何も言わなくなった丈を、ベッドまで誘導して寝かせ、足もとに置かれた布団をかけてやる。
さっきまで掴んでいた色白の手は、かすかにあたたかかった。額にはうっすらと汗が浮いているし、きっと熱もあるのだろう。
一刻も早く休ませてやったほうがいいことは目に見えて確かだが、今ここで手放せば、完全に逃げられる。あいにく、そうと分かっていながら見過ごせるほど、お人好しじゃない。
「あのさ、丈」
我ながら酷だなと思いつつ、ベッドの端に腰かける。起き上がろうとして、おそらく頭痛に顔を歪めた彼を手振りで制したのは、罪の意識が生み出した身勝手な優しさからだった。
「なんか隠してない?」
上半身だけを丈のほうへ向け、あえて単刀直入に尋ねると、彼の瞳が動揺に揺らいだ。それでも、唇をかたく一文字に結んで、自分から何かを話し出そうとはしない。
どうやら、切り札に頼るしかなさそうだ。本当はこんなこと、したくないけれど。
「この前、掃除の時間にね」
言いながら、スカートのポケットを探る。
「拾ったの。丈の席の近くで」
ゆっくりと手を開いて、取り出したものを横たわる丈の前に差し出す。すると、彼は射貫かれたように目を見開いた。――しわくちゃになった、アルミ箔。
傍から見れば単なるゴミとしか思えないかけらに、こんなにも狼狽してしまっては、もう黒と白状しているようなものだ。
「そもそも、おかしいと思ってたんだよね」
確信が持てたところで、さらに容赦なく畳みかける。
「もちろん怪我の程度にもよるけど、骨折なんて、だいたい三、四ヶ月で治るもんでしょ? 春休みに折ったなら、夏休みには完治しててもいいはず」
それに加えて丈の腕は、三角巾が取れ、ギプスが取れ……という、治癒過程がまったく見られなかった。まあそのあたりは退院後だとしても、毎日のように一緒にいたにもかかわらず、ずっと三角巾で吊ったままリハビリをしている気配もなかったから、不自然に思っていたのだ。たまの見舞客なら、気にも留めなかったかもしれないが。
そして夏休み明け、あろうことか彼は、手術痕すらも見当たらない、きれいな白い腕をさらして学校へ来た。
あの骨折が、さっきの嘘のように、下手すぎるフェイクだったのだとしたら。人間が病院に長期間世話になる理由なんて、たぶんひとつだけだろう。
「丈……」
なんだか縋るような気持ちでぽつりと名前を呼べば、彼は「やっぱりな……」と降参したように呟いてため息をつき、言った。
「俺、もうすぐ死ぬんだ」
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