プロローグ

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プロローグ

01. 最初のドゲザ  一体、なにが悲しくて、羊へ土下座(どげざ)しないといけないのだろう。  それも身長三十センチもない、ミニサイズのぬいぐるみみたいなヤツに。  (たたみ)に食い込むデコが、妙な熱を帯びてきた。  もうすく夏休み、熱中症の注意がプリントで配られるほどだけど、暑いのは気温のせいじゃない。  クーラーを効かしていても、羊の圧力(・・)で体が強張(こわば)る。  ゆっくりと視線を上げ、向かい合う生き物の様子を改めてうかがった。  微妙に波打つ黒い毛がチョー不気味――に見えなくもないけど、たしか隣の席の波崎(なみさき)の飼ってるのも真っ黒な犬だと聞いたことがある。  誰に教えてもらったんだったかな。  犬だと思えば、頭を下げるのは馬鹿らしい……? 「手島(てじま)修一(しゅういち)くん、で合ってるよね」 「はいっ、合ってます! 右手、左手の手に、海にある島――」 「漢字の説明はいらない。ここはキミの部屋?」 「そうだよ……いや、そうです。オレ……ボクの……オレの、やっぱりボクの」 「どっちでもいいから、統一しなよ。話が進まないじゃん」  六年生になって、自分のことをオレ(・・)と呼ぶようになった。クラスのみんなもそうしてるし、自然と合わせただけだ。  でも、この羊には、丁寧に話した方がいいんじゃないだろうか。  顔を上げ、羊と目が合った瞬間、(あわ)てて視線をそらす。  真っ赤に染まった二つの(ひとみ)。  鈍く輝くその眼で見られると、心臓を(にぎ)られたような息苦しさを感じた。  一度学校のグラウンドに、アオダイショウが出たことがある。  女子の悲鳴で体育の授業は中断し、後半は蛇退治で時間がつぶれた。  赴任したばかりの島瀬(しませ)先生は、爬虫(はちゅう)類が苦手らしく、蛇を捕まえたりはできない。  結局、担任の山奈木(やまなぎ)先生を呼び、クラスの男子と協力して(あさ)袋に追い詰め、やっと騒ぎは終了する。  この時、先生の右腕として蛇の進路を誘導したのが、何を隠そうこのボク……じゃなかった、このオレだ。  グラウンドの中央へ逃げようとする蛇の鼻先に、ダンッと足を踏み込めば、アオダイショウは向きを変えて先生に向かう。  ダンッとやればニョロ。  ダンダンッでニョロニョロ。  思い通りに動いてくれる蛇は、かわいいと感じたくらいだった。目も黒かったしな。  光る赤目なんて、どう見てもモンスター――  ダンッ! と、羊のヒヅメが畳を叩く。 「ちょっと、聞いてるの?」 「ご、ごめん。聞いてる、全力で聞いてます!」  羊の名前は、ラルサと言うらしい。  床に置かれた小さな手鏡は、母さんの鏡台の引き出しからこそっと借りてきた物だ。  こいつがラルサを呼び寄せてしまった。  もっと言えば、波崎にそそのかされたのが元凶か。  まじない好きな女子の言うことを、ちょっとでも信じた自分が(うら)めしい。  鏡に祈れば“ミューズ”が出て来るって、そんなことあるわけないだろ。  ましてミューズ――創作の女神が、黒い羊の姿をしてるとか。 「そういうわけで、ちゃんと食事を用意してね。毎日来るから」 「文字を食べるんだっけ……」 「違うよ、物語を食べるの。キミの話」  この羊、食べ物にはかなりうるさい注文をつけてきた。  主食は物語、つまり言葉だ。  本や教科書でもいいのかと(たず)ねると、それは他人の言葉だからダメだと言う。  あくまで契約者(けいやくしゃ)、この場合はオレの作った話じゃないと食べないらしい。  毎夜八時、鏡から現れるから、何か書いておけということだ。  なんでそんな面倒なことを、と言い返したところ、赤い眼でにらまれて黙らされる。  胸がバクバクと音を立て、座っているのがツラくなり、自然と頭が床に落ちた。  これが土下座の理由。  血が全身を高速で駆けめぐり、頭も痛くなるし、図工で怪我をした右手の人差し指もうずく。  長距離走のあとでも、こんなにフラついたりしない。  体育はそれなりに得意なんだ。国語はからきしだけど。 「毎日って、いつまで? 一生世話しないといけないの?」 「契約が完遂(かんすい)するまでだね」 「カンスイ?」 「ノルマをこなすまで、って言えばわかる? 満腹するまで食べさせてくれたら、次の契約者のとこに行くよ」  この答えに、ちょっと希望が()く。  いきなり一人だけ、国語の宿題を増やされるようなものか。理不尽とは言え、できない作業じゃない。  夏休みの課題――定番の読書感想文は、もう読むべき本のリストをもらっている。  なんなら、あれを羊用の(えさ)にすれば、羊も宿題もクリアできて一石二鳥だ。  理科や社会の研究と選択する、自由作文ってのもあった。これを食わせるって手も考えられる。  今までなら八月の三十一日か、九月一日に書いていた感想文を、今年は真っ先に片付けよう。  そうすりゃ厄介事の消えたバラ色の夏休み―― 「ノルマは百万字ね」 「百万字かあ。読書感想文だけじゃ足りないかな。自由作文もやることにして……ひゃくまんじぃっ!?」 「字が百万個だよ」 「百万ってなんだよ。数えたことねえよ、そんな数!」 「一日一万字で、百日かかるね。あとはまあ、面倒臭(めんどくさ)いから自分で計算して」  今日の分の食事は明日でいいからと告げ、ラルサは手鏡の上に乗る。  頭をぶるっと震わせた羊は、歯を(こす)るような音を立てながら、右前脚を掲げてみせた。  バイバイのつもりだろうか。  どう考えても鏡の方が羊より小さかったが、そんなことはお構い無しに、黒い小動物の下半身がスルスルと鏡面に沈み消えて行った。  左前脚も上げて万歳(ばんざい)のポーズとなり、肩より上だけになったラルサ。  呆然(ぼうぜん)と見守っていると、顔をこちらに向けて念を押す。 「逃げても無駄だからね。ちゃんと用意しないと、酷い(・・)よ」 「あっ……え? ヒドいって、どうなるの?」 「そりゃあ、お腹が減るからねえ。食べちゃうかも」 「食べ……ちゃう?」 「キミをね」  暑かった部屋が、一気に製氷室(フリーザー)並みに冷え込んだ。  ギュルギュルと気味の悪い鳴き声が、鏡に吸い込まれ、やがて消える。  ヨロヨロと立ち上がり、学習机に向かうと、母に買って来てもらった原稿用紙を手に取った。  ビニールを開けて一枚抜き出し、升目(ますめ)を数えてみる。  一、二、三、四――  ――十九、二十。  縦に二十、それが二十行。四百字ってことだ。  知ってた。  だって、袋にデカデカと“四百字詰め原稿用紙”って書いてあるもの。  椅子に座り、百万を四百で割る。  電卓は学校でも家でも禁止されたので、筆算でやるしかない。  百万は0が六個、それだけでやる気が()えそうになりつつも、これを分子にして、分母を四百にする。  算数は体育と同じくらいに得意で、分数計算には全く詰まったりしなかった。  悪友の山田は分数が大の苦手らしく、小テストの(たび)雄叫(おたけ)びを上げている。  あんなヤツにも、国語だと負けるのが腹立たしい。  わざわざ国語のテストだけ、点数を見せびらかしに来る山田、その小憎らしい顔を思い浮かべながら約分を進める。  百万字書くために必要な原稿用紙の数は、全部で二千五百枚。  狂ってる。 「書けるわけねえだろっ!」  バタバタ階段を駆け上がる足音を聞き付け、急いで床の鏡を引き出しに隠した。  六年生になって与えられた一人部屋に、ノックの音が響く。 「修一、何を騒いでるの!」  返事も待たずに、母さんが中に入ってくる。 「まったく、宿題もしないでいつもゲームばっかり……」  しかめっつらが、机に向かう息子を見て怪訝(けげん)な表情に変わる。  手に握るのは鉛筆、計算跡もあれば、原稿用紙も広げてあった。 「……勉強?」 「うん、国語。夏休みの宿題、手を付けとこうと思って」 「ウソッ! 死ぬほど作文が嫌いなくせに……。あっ、そういうことか」 「どういうこと?」 「苦手な作文しようとして、行き詰まったんでしょ。叫んだって、書けないわよ」 「わかってるって。気合い入れたんだよ!」 「はいはい。少しずつやればいいんだから、無理しちゃダメよ。早く寝なさい」  手島涼子(りょうこ)――最近口うるさくなったオレの母さんは、嫌な笑みを顔に貼り付けて部屋を出ていく。  何でもお見通しと言わんばかりのウインクが、黒羊レベルに気色悪かった。  けど、二千五百枚って……。  いや待てよ、ラルサは何て言ってたっけ。一日一万字、それを百日間、だったか。  百日ってのはウンザリする長さだけど、一万字単位ならずいぶん少なく感じる。  原稿用紙で二十五枚、なんと百分の一! 「……読書感想文の五倍じゃん。そんなの一日で書く量じゃないよ」  時間はもう九時を過ぎており、算数の宿題がまだ手付かずだ。  明日は国語の小テストもあるけど、今さら予習する気にはならない。  ランドセルからプリントを出し、速さの問題に取り組む。 “たかしくんは、三キロ先の駅へ羊に乗って行きました”  ええっ! ……ああ、車か。  羊には乗らないよな。毛が暑苦しい。  プリントがかすれて見にくいんだよ。  “――羊の速さは時速六十キロでした”  羊、速いな。自動車と勝負できる。  薄い漢字が、どうにも羊に読み取れるのは、それだけ先の出会いが頭にこびりついているからだろう。  数字さえ読めれば計算はできるので、順調に四問目まで解く。  五問目。  “羊の忘れ物を届けるために、兄羊が全力で羊ったら、着いたのは羊。羊で答えなさい”  答えられません。  羊だらけで、 文字と認識するのも怪しくなる。  いまいましい羊の漢字を見つめると、毛虫の落書きに思えてきた。  こういう現象、なんとかって言うんだったな。本好きの波崎が教えてくれた。  ゲルマン……ゲシュニン……ゲリラ豪雨……。  最初の“ゲ”しか、合ってない気がする。また明日、聞こう。  ラストの第六問は、本気で真っ白に薄れていたので、これも学校で誰かに写させてもらうことにした。  頭もモヤがかかったみたいだし、やる気も出ない。  今日は十時で寝ようと電気を消して、明日の準備もそこそこに、ベッドへ潜り込んだ。
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