1 七月十九日

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04. 初めての食事  帰宅したオレは、夕食まで原稿用紙に向かう。  三行絞り出したところで母さんの呼び声、タイムアップだ。  二人で食べる晩飯は、オムライスとサラダだった。  手早く食べてしまい、さっさと二階に上がろうとすると、もらい物のカステラがあるから待てと言われる。  ただ座っているのも落ち着かないので、皿に切り分ける母さんの背中へ話しかけた。 「父さんは今日も遅いの?」 「いつも通りよ。話でもあるの?」 「本を借りたいんだ。読書感想文用のやつ。短くて、簡単なのがいい」 「そんなのあったかしら。聞いといてあげるわ、ふふ」  含み笑いは、勉強の話題だからだろう。  自分のことながら、積極的に国語に取り組もうなんてどうかしてる。  母の“応援してるわ”顔も相変わらず不気味だけど、ここはカフェオレのために我慢した。  皿とコップを両手に持って上がり、自分の机に改めて向き合う。  しかし、いきなり升目だけの白紙を相手にするのは、難易度が高すぎた。  練習がてら、教科書で読んだ話の感想を書こうとしたものの、「面白かったです。ぼくもカレーライスが食べたくなりました」で終わってしまう。  本当は面白いと感じなかったから、余計に次の文が出てこない。  これが宿題なら、本文をこれでもかと書き写し始めるところだ。  ……そうだ、写せばいいんだ!  別に先生に怒られるわけじゃない、文字さえ書けば羊の晩飯になるだろう。どうやって食べるのかは、知らないけどさ。  紙ごとムシャムシャやるのかな。ヤギも羊も、似たようなものだし。  方針が決まって、俄然(がぜん)やる気が出てくる。  時間は七時十分前、ラルサが来るまでには一時間以上もあった。  カフェオレをぐいっと一口飲み、次の一行を書き加える。  “では、どんな話かを説明しよう”  オレは国語の教科書を広げ、その内容を手書きでコピーしていった。  人間、その気になれば、結構な量が書けるんだなあと思う。  写した話は全部で二本とちょい、原稿用紙十三枚を費やした大作の完成だ。  自分は書くことが苦手なんじゃなくて、その内容を考えるのがツラいのだと理解した。  書いて写せという課題なら、クラスでも相当早い方なのでは。  もっとも、画数が多くて面倒な漢字は、全て平仮名に直している。  見栄えは悪いけど、字数は余計に(かせ)げるからよりお得だ。  後五分で八時という頃合いで、話を締める。  “続きはまた明日。気が向いたら”  完璧じゃないか。  四百字が十三枚で、えーっと、五千二百字。  これが一時間の成果だから、二時間で一万字、それを百日続ける計算になる。  うーん、二時間を百日は、ちょっと厳しいなあ。  書き取りの練習にはなるし、国語の成績も上がりそうとは言え、十月くらいまで夜のゲーム時間が削られてしまう。  もっと効率良く、字数を増やす方法がないもんかな……。手書きをやめ、コンビニで教科書をコピーして貼付けるとか。  ノートの端に、思いついた作戦を個条書きしていく。  コピーの切り貼り。  印刷がダメなら、蓮に協力を要請して人力コピー。一人より二人なら、効率も倍だ。  なんなら山田も動員すれば、三倍スピードになる。  自筆しか受け付けないとか言われたら、筆跡を真似させるしかないな。  山田には頑張ってもらおう。明日から特訓だ。できるできる!  山田の訓練方法を思案していた時、机の天板をヒヅメがコンコンと叩く。  音の発生源は内側。早く開けろと、ラルサの声が急かした。  オレの真正面、一番幅が広い引き出しを、そうろと手前に引く。  頭の上が空いたのを受けて、黒羊が勢いよく手鏡から出現した。 「まさか、閉じ込めようとした?」 「――なワケない、です。忘れてただけ」  引き出しからピョンと跳ねたラルサは、畳の上に着地して、そこに鏡を置くように命じる。  昨夜と同じ形に手鏡をセットしつつ、ひょっとして羊は鏡を隠せば出て来れないのではと考えた。  案外簡単に解決方法が見つかったという喜びは、オレの顔に出てしまっていたらしい。 「別にこの鏡じゃなくても、出入り口にできるから」 「……そうなの?」 「面倒臭いんだよ、違うルートだと。机をつぶされたくなかったら、刻限には(ゲート)を作っとくように」 「ゲート……ああ、鏡のことか」  セリフ自体にさほど(とげ)は感じなくても、小さな体から放たれるプレッシャーが半端じゃない。  やはりラルサは、怒ってるんだろう。  窓は閉め切り、エアコン以外には無風にもかかわらず、黒い毛がゆらゆらとそよぐ。  毛が波打つ度に、部屋の気温も上下するように感じた。  夏の熱気が部屋の中に入り込んで、汗が額に噴き出したと思うと、すぐに冷やされて身震いする。  何回見ても愛玩動物のようなこの羊、間近に対面すれば分かる。  決して可愛らしい存在などではなく、どう考えても邪悪な気を垂れ流していた。  ちょこんと床に尻を落とし、人間みたいに座った黒羊は、前脚で軽く畳を叩く。  言われずとも、これが食事の催促なのは理解できた。  逆らうなんて無謀なことはせず、出来立ての手書き原稿をラルサの前に差し出す。 「とりあえず、書いてみたんだけど……」 「ちゃんと用意したんだね。えらいえらい」  重なった用紙の上に、ラルサは両前脚を投げ出して、腹ばいになった。  腹から(あご)辺りが、原稿にべったり乗っかった姿勢だ。  顔はこちらへ向いたらまま、羊は細かく震動を始める。  頭の揺れが最も激しく、閉じた口元から歯がきしむ音が響いた。  よく見れば、下顎が左右に動いており、何かを噛みつぶしているみたいだ。  ギリギリと黒板をアクリル定規で擦ったような音に、思わず顔をしかめて、耳を押さえてしまう。  文句の一つも言いたくなる、この不快な時間は、三十秒ほどで終了した。  元のお座り姿勢に戻り、羊が目を大きく開くと、赤い眼光が周囲に漏れ出した。  窓にかかったカーテンや、ベッドの上に丸まった布団が、ほんのりとピンクに染まる。 「やめて、眼はやめて。恐いから。あと、ちょっと痛い」 「六十四字かな」 「な、何が?」 「今日の文字数。全然足りないね」  それはおかしい。たとえ空白(ます)はカウントしないにしても、数千字は余裕であるはずだ。  ちゃんと数えたのか。紙をめくりもしないとか、横着するな。  教科書に載るレベルの話なんだから、品質(クオリティ)には問題ないはずじゃないか――。  こう猛然と抗議するオレに、羊は冷たく言い放った。 「どっちが横着なんだか。これ、写したよね? 一字一句、同じだよ」 「え、うん……でも……」 「他人の文章を書いたって、言霊は宿らないよ。マズくて食べられない。まったく、みんな似たようなことを考えるんだから」 「そんな贅沢(ぜいたく)な」  右の前脚をふりふり、食事には細心の注意を払うようにラルサが説いてみせた。  一つ、言葉は自分の心が生んだものであること。  一つ、機械的に文字を羅列(られつ)しないこと。  一つ、ちゃんと筋道が立った文章にすること。 「筋道が立った文章って、物語のこと?」 「むちゃくちゃな文じゃなければ、何でもいいよ。たまにいるんだよ、支離滅裂なのを書く契約者が」 「そういうデタラメなやつは、文字数に入れないんだ」 「いいや、数えはする」 「じゃあ! 思いつくまま、単語を並べまくっても――」 「そんなことしたら、ボクの機嫌が悪くなるよ」  羊の目が、また(あや)しくきらめいた。
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