さんじ。

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さんじ。

 とりあえず仮名を――ナカノ不動産販売の阿賀野(あがの)さん、とでもしておくことにしようか。適当に思いついた名前だが、本当の名前を言う訳にもいかないし、ここはその仮名でご容赦願いたい。  その阿賀野さんから唐突にメールが入ってくるのは、ポスティングスタッフの僕にとっていつものことと言っていい。  そんでもって、“急で悪いんだけど明日からそっちも配って!急いで!”なんて無茶ぶりを受けるのも、悲しいかな珍しいことではなかったりする。 「ええ……阿賀野さんやめてよ、今から配布計画立て直すのかよお……」  僕はげんなりして、しぶしぶファイルの中から地図を取り出した。此処は僕の自宅で自室。大学生の僕は、去年の春から講義の合間に、ポスティングのアルバイトをしている。マンションを中心に、不動産売却をお願いするチラシを配って回る仕事だ。戸建のチラシの方が一枚の価格が高いのだが、いかんせん戸建は当たり前だがひとつの家に一枚ずつしか配れない。マンションは、ひとつ行けば何十枚と一気に撒くことができる。散々歩いても、一枚単価が低いはずのマンションよりも稼げないと気づいてから、僕はマンションのポスティングだけを請け負うようになっていた。まあ、これは僕が方向音痴であるという悲しい現実あってのことだろうが。  僕の担当である阿賀野さんは、こっちが心配になるほどおっちょこちょいなお兄さんである。配布禁止宅が増えた!という連絡がギリギリになったり。はたまた今回のように、明日急に配ってほしいマンションが増えた、と言い出してくるのもしょっちゅうだ。ついでに言うなら、●●日までに次のチラシを送ります、と言っておきながらその日付までにチラシが来ないなんてこともちらほらある。こっちとしては、わずかばかりの収入源であるのだし(せいぜい、この仕事では収入はあっても月に二万くらいなのだ)、そういうことは是非ともナシにしてほしいのだけど。 ――えっと、入江駅の……南口方面?ええ、こっちの方配れるマンション少ないのに……。  指定エリア範囲内と言っても、どんなマンションにでもチラシを配っていいというわけではない。どのマンションに配るのか、というのは販売会社の方からマンション名で指定が入り、マンションの位置を記した地図と一緒に送られてくることになるのだ。  とはいえ、今回は急なことである。地図は手元にあるが、その地図に今回指定されたマンションの位置は記されていない。僕の方で、マップアプリで調べて、マンションの位置を確認する必要がある。  というのもポスティングを行う場合、一度の配布作業で何枚を効率的に配れるのか、が大事になってくるのである。当然、マンションが複数密集しているエリアほど配りやすいということになる。僕が渋面を作ったのは、今回絶対配ってほしいと指定されたのが、入江駅の南口――指定マンションの数が非常に少ないエリアであったからである。北口の方ならば多くのマンションがある。次はそちらを配るつもりで計画を立てていたというのに、本当にがっかりだ。  なるべく無駄な移動距離を制限し、マンションを効率的に回り、持っていった枚数を配り終えることができるよう計画を十分に立てる。そして僕はいつも配布作業に向かう、こういう流れである。仮に五百枚を持って行くのなら、平均百枚配れるマンションを五ヶ所以上回る必要がある、ということだ。 ――南口だし、近くに他のマンションないし……百三十枚配れるってのはありがたいけどさあ。行きづらいところだなあ。  僕はマップアプリで確認し、地図に印をつける。明日はたくさん歩く羽目になってしまいそうだ。日頃の運動不足を解消する目的もあって始めたアルバイト(まあ実際は委託業務だが、僕の認識としてはアルバイトだ)なので、そういう意味では願ったり叶ったりなのかもしれないけれど。  一回で配りたいと思っている最低枚数は、八百枚。僕は南口のマンションと、それから駅を抜けて北口方面にも行きどうにか八百枚を配り終える計画を立てる。明日は大学の講義はない。いつも通り、五時から配布作業を始めるかな、と思ってメールを見直せば。 『ちなみに、あのマンションは管理人が三時に帰るようです。三時を過ぎれば配布できますので、よろしくお願いします』  そんな一文が、目に飛び込んできた。  ん?と僕は首を傾げて、思わず声に出して呟く。 「何で、三時?」
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