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僕と兎とホットケーキ
午後3時といえば、おやつの時間としてあまりにも有名だ。
何故、3時におやつを食べるのか。僕が聞いた話をしよう。時は江戸時代。十二時点法の八ツ時(今でいう午後2時〜3時頃)に、あぁ、小腹が減ってきたな。何か食べるか。と考えるのは現代を生きる我々も江戸時代を生きる人々も同じだったようだ。そんな間食が慣習化し、何時ぞやから『御八つ』と呼ばれるようになり今に至る。……らしい。
十二時点法がイマイチ理解できていない僕がとやかく言うのは可笑しいのだけれど。つまりはそんな感じで、今の時刻は午後3時だ。
「水じゃないよ。牛乳だよ」
そんな息子の悲鳴にも近い声に、僕は蛇口のレバーを元の位置に戻す。
「水でもたいして変わらないんじゃないかな」
「ダメだよ。ママはいつも牛乳を使ってるもん」
僕は計量カップに並々と入ってしまった水を暫し見つめる。たった200ccだ。一気にシンクの上から流してしまえばいい。その後は野となれ山となれだ。
「ちょっと待ってて。カポックにあげてくるから」
やっぱり、たった200ccといえど、母なる大地の恵みである水を無駄にすることなど許されない。僕は足早にテレビボードに向かい、陽の光を浴びて気持ち良さそうなカポックの鉢に水を注ぐ。計量カップの尖った部分が実に有効に活用出来た。
「お待たせ。次はなんだっけ? あ、牛乳だ」
踏み台に乗っているせいでいつもより目線の高い息子が、ボールの中の卵を器用に混ぜているのを眺めながら、計量カップに牛乳を注ぐ。
「後は、ホットケーキミックスを入れるだけだね」
卵と牛乳が混ざり合ったところに、ホットケーキミックスを投入。後は粉っぽさがなくなるまで混ぜて焼くだけ。楽勝だ。
「牛さんのやつ入れてないよ? 」
「ん? 牛さん? 牛乳ならさっき入れたじゃない」
「違うよ。歯磨き粉みたいな牛さんっ」
歯磨き粉みたいな牛さん? 何だそれは。息子が使っている歯磨き粉のパッケージは、確か世界で1番有名なねずみだったはずだ。そもそも、本当に歯磨き粉を入れる訳がない。じゃあ牛乳石鹸とか? いやいや。もはや、口に入れてはいけない物になってるじゃないか。
「歯磨き粉みたいな牛さんは、今日は入れなくてもいいんじゃないかな」
「えー? 歯磨き粉みたいな牛さんは甘くて美味しいんだよ? だから入れたい」
甘くて美味しい? もしかして。と思った僕は冷蔵庫の扉を開け練乳のチューブを取り出す。
「もしかして、これ? 」
「そうっ。歯磨き粉みたいな牛さんっ」
確かに形は歯磨き粉に似ていて、パッケージにはデフォルメされた牛が描かれている。間違っていない。何も間違っていないけれど。
「これは、練乳って言うんだよ? はい、言ってみて」
「れんにゅう」
「そうだよ。1つ賢くなったね」
「賢くなったー。ぐるぐるー」
どれくらいの量を入れたら良いのか分からないので取り敢えず適当に投入。よし。後は焼くだけ。
「ねぇ、バターは? 」
「え、バター? バターは食べる時につけたらいいんじゃない? 」
「ママはいつも先に入れてるよ? レンジでチンするの」
なるほど。レンジでチン。練乳に引き続き、適量がわからないので適当に小皿に乗せて加熱。ラップをしなかったせいで少々レンジ内に弾け飛んでしまった。さっと拭き掃除をしてから、気を取り直してバターを投入。
「わぁ、美味しそう」
「美味しそうだね。じゃあ、焼こうか」
「うんっ」
フライパンを加熱して生地を流し込む。表面にふつふつと穴が空いてきたらひっくり返して暫し待つ。美味しそうな焼き色がついたら完成。やっぱり、楽勝だ。
「どうしてうさぎさんじゃないの? 」
お皿に乗ったホットケーキは芸術的な焼き色だ。バターとハチミツも良い感じに溶けて、実に美味しそうだ。写真にでも撮っておく? そんなレベルだ。それなのに息子はしょぼくれている。その理由がうさぎさん、ということなのだろう。
「うさぎさんじゃなくても、きっと美味しいよ? ほら、あたたかいうちに食べてみなよ」
「やだっ。うさぎさんが良い‼︎ だって僕、うさぎ組さんだもん‼︎ 」
そうだね。確かに君はうさぎ組さんだ。でも、ちょっと考えてみてほしい。うさぎ組さんだからといって、うさぎさんの形のホットケーキしか食べちゃいけない訳じゃない。どんな形だっていいんだ。仮にね。うさぎ組さんがうさぎの形のホットケーキしか食べちゃいけなかったとして、じゃあ、ペンギン組さんはペンギンの形のホットケーキで、ライラック組さんはライラックの形のホットケーキなのかな? ハードル高すぎでしょっ。
「今日は丸で我慢してよ」
「やだ。この丸いのはパパにあげるから、うさぎさん焼いて」
自分はうさぎさんがいい。これは要らない。そんな理由で「パパにあげる」と言われたのに、どうしてかな、ちょっと嬉しい。
「分かった。うさぎさん焼くから待っててね」
フライパンを加熱。生地を流し込む。ここに耳をつければいいだけだ。すっとやれば、いい感じの耳が……あれ? なんか違うな。こうかな? あ、生地が多過ぎた。もう一回。生地を流し込む前に耳を……うーん。ちょっと違うな。もう一回……。
「……もう、これでいい」
息子はちっとも嬉しそうではない。満足もしていない。それが痛い程に分かってしまうからツライ。ツラすぎる。なんなら、焼く前の生地を見ていた時が、1番嬉しそうだった。今じゃあ、美味しそうの「お」すら言ってくれない。
ホットケーキって初心者向けじゃないんだ。シンプルが故にアレンジが効くから奥が深いんだ。楽勝だと思っていた数十分前の自分に教えてあげたい。
ホットケーキはやめておけ。
皿の上にはうさぎさんらしき形のホットケーキが山積みになっている。どうするの、これ。
向かいに座っている息子は黙々とホットケーキを咀嚼している。なんて可愛い口元なんだ。ちょっと食べかすが付いているじゃないか。その可愛らしい口で「パパ、美味しいよ」そう言って貰えると思っていた。
僕は、息子に笑ってほしかっただけなんだ。喜んでほしかっただけなんだ。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか……。
「……ごめんね」
思わずそんな言葉が口からこぼれ落ちた。僕はホットケーキすら上手く焼けない駄目な父親だ。きっと、嫌われた。絶対に嫌われてしまった……。
「え? パパ、なんで泣いてるの? 」
「ホットケーキが上手に焼けなかったから……」
僕の言葉に目を瞬かせた息子が、次の瞬間、満面の笑みを浮かべる。
「上手に焼けてるよ? ママのホットケーキとは違うけど……僕、パパのホットケーキ好きだよ‼︎ 」
「無理しなくていいよ」
「無理なんてしてないよ。本当だよ?だから泣かないで」
器用に椅子から滑り降りた息子が、僕の頭を撫でてくれる。その手の優しさといったら天使の様だ。うちの息子は天使だ。間違いなく天使だ。
「ありがとう」
僕は息子を強く抱きしめた。
「ママがまた美容室に行く時、3時のおやつ一緒に作ろうね」
息子の言葉に、僕の涙腺が崩壊したのは言うまでもない。
その後。出来損ないのうさぎさんたちは、一段と綺麗になった妻が「美味しい」と言いながら食べてくれた。そして「ありがとう。よく頑張ったね」そんな嬉しい言葉をくれた。
僕は不器用だ。ホットケーキのうさぎさんが上手に焼けないくらい。でも、幸せだ。息子と妻が笑ってくれたから。誰がなんと言おうと幸せなんだ。
追伸
次は白玉を作ります。息子のリクエストです。
完
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