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血の復讐
――ちりん、と鈴が鳴った。
硬く扉を閉じた、地下階段への出入り口。
板張りの床には、長い影がふたつ伸びている。
小蟻は深くうなだれ、切り揃えた前髪でその表情を覆い隠していた。つい先ほど受け取ったふたつの鈴を、所在なく握りしめて。
真鍮の鈴は小ぶりで、滑らかな手ざわりの紐にそれぞれ結ばれていた。軽いはずの鈴は実体以上の質量でもって、小蟻の汗ばんだ掌にのしかかる。
「小蟻」
張り詰めた女の声に、恐る恐る、小蟻はおとがいを起こした。
大きくてつぶらな黒色の眼睛に、見慣れた母の顔が映り込んだ。母はきつく唇を噛みしめていた。
旧王朝崩壊から、新政府成立に至るまでの熱狂と混乱の時代を生き抜いた、女の貌。日焼けした皮膚には、長年の労苦が刻んだ幾重もの皺。
母の眼差しはいつにもまして厳しく、娘を映す瞳はかすかに揺れていた。肩に食い込む指は灼けるように熱く、小刻みに震える。
「――その鈴は、わたしの家系に古より伝わるもの」
母の声には熱がこもり、かすれて切れ切れに響いた。
「大事に使いなさい、小蟻。幼い頃から女工として働かせ、学も与えられず、お前には苦労ばかりかけていた。……せめてもの手向けに、この鈴を贈ると決めた。本当は、成人の祝いに取っておくつもりだった……」
お母さん、と小蟻はちいさな声で母を呼んだ。
逃げよう、という懇願をこめて。
しかし母は首を振った。
「鈴には特別な力が宿っている。その力は、二度、使うことができる。
一度目は今。二度目は――よく考えて使いなさい、小蟻。お前にとって、より善い道を選び取る確信を持てたときだけに。軽はずみに使ってはいけない。その鈴は、莫大な巫力を秘めているのだから」
そのとき、雨の激しい反響音が小蟻の鼓膜を打ち鳴らした。けたたましい喧騒音は、何者かがこの家の戸を開き、その内側にまで連れてきたものだった。
母のたたずむ扉のむこう側から、複数人の足音が響く。住人を探す怒号。乱暴に家具を倒され、硝子や玻璃が割れる。家中が荒らし回される気配に、小蟻はぎゅっと身を硬くした。
そんな彼女の耳もとで、母は懸命に囁きかける。
「夜来衆がやってきた、もう逃げられない……。小蟻、さあ、鈴を握って……大きく音を鳴らして! そして願って、自分の生き残る道を!」
小蟻は訳も分からず、瞠目した。不安ばかりがかき立てられ、胃が熱くなった。鈴をぎゅっと握りしめようとしても、震える指先では力が入らない。
母の真意は分からなかったが、いつだって正しい彼女が、意味もなくたわごとを口にする性格でないことも理解していた。その裏に、「自分を犠牲にしてでも、小蟻を助ける」という確固たる意志が宿っていることも。
胸の奥がキリキリと痛み、息苦しさを感じる。
(どうして、こんなことになってしまったのでしょう。小蟻や小蟻のおかあさんは、なにも悪いことをしていないのに……ただ懸命に生きているだけなのに……!)
小蟻の暮らす大糸国は、多数派とされる青絹族、そして覚えきれないほどの種類の少数民族で構成される多民族国家だ。
そして小蟻の家は、今この瞬間、少数民族のひとつである夜来衆によって侵入されつつあった。
そう断言できるのは、「彼ら」の行動に明確な目的があることを小蟻自身がよく知っているからだった。
――血の復讐だ。
小蟻と小蟻の母の暮らす九龍島では、この一年間のうちに、闇に身を窶し、地下に身を潜める夜来衆による突発的、断続的な襲撃行為が続いていた。先の事件で実行犯が捕縛された際、彼は一連の行為について、夜来衆による『血の復讐』であると宣言したのだった。
足音が迫る。どこからか煙の匂いが漂ってくる。
母は動かない。小蟻は決めきれずにいる。
「小蟻」
「いや……、いやです……、おかあさん、一緒に、一緒に逃げましょう……! 小蟻は、自分だけ生き残るなんて、絶対に嫌です……!」
「甘えることはやめなさい、小蟻!」
乾いた音が鳴り、母の平手が小蟻の頬を打った。
「お前はこれから、たったひとりで生きていかなくてはいけない! 母のために、そしてお前自身のために、生き抜くと覚悟を決めなさい。この先、もう誰もお前を守りはしない。孤独の楚にどれほど胸をかきむしられようとも、血のにじむ苦難が降りかかろうとも、お前はお前ひとりの力で闘わないといけない。
だから……」
じんじんと痛む頬を押さえて、小蟻は引き絞るように目を細めた。
「だから――最後には幸せになりなさい、小蟻」
母が囁きかけた、その瞬間、ふたりの背後にたたずむ扉が破られた。
雨音が鳴り響き、火の粉と噴煙が地下室にまでなだれ込む。
闇のなか、赤い炎によって複数の男たちが克明に照らし上げられた。雨に濡れた装束と、その上に飛び散る泥と血。
彼らの手には黒光りする銃が煌めき――天を貫く稲妻は、次いで耳をつんざくような轟音をもたらした。
「……おかあさん!」
小蟻が叫ぶのと、発砲音が響いたのは同時だった。
凶弾が母の胸を貫く寸前に、小蟻は肩を押された。そのことを理解する間もなく、階段の下へとその身を投げ出すことになる。
小蟻の頬を、生暖かい血飛沫が打った。
「おかあさん、おかあさん……! いや、嫌です、おかあさん――!」
必死になって手を伸ばす。重力に従って落下するばかりの小蟻の視界から、階段上でうずくまり、事切れた母の姿はあっと言う間に遠のいていく。
稲妻が閃く。けたたましく雷鳴がとどろく。一瞬の閃光のうちに、小蟻の目に、ある男の姿が映り込んだ。
小蟻の目の前で、彼女の母を撃ち殺した男の姿だった。
奇妙な男だった。
小蟻にむけて銃を携えた右腕をかかげた男の上半身で、ひらりと紺色の布が揺れた。あるべきものがそこになかった。
左腕があるはずの部分には頼りなく長袍の袖が垂れさがるだけで、外から吹き込む風にひらひらとなびいていた。
小蟻は地上に落ちる寸前、力強く鈴を握りしめた。
そして、懸命に男の顔を目に焼きつけようとした。
糸国人らしからぬ、孔雀石の色をした眸。冷たい双眸を闇夜に閃かせた、美しい壮年の男。
彼はとまどう素振りも見せず、小蟻にむけて、ゆっくりと二発目の引鉄を弾く。
(――ああ、小蟻は、ここで死んでしまうんですね……)
その男の姿が、小蟻にとって、短い人生の最期の記憶になるはずだった――
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