第一幕 《穿越》――小蟻、時を越える

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第一幕 《穿越》――小蟻、時を越える

 夜よりなお深い昏闇(くらやみ)に、緑色の閃光が走った。  ――あれは、文字。  光を放つ、無数の糸。  その糸が複雑に折り重なって(あや)なすのは、奇妙で不ぞろいな形ばかり。  しかし一目みて、小蟻はそのひとつひとつの意味を理解した。『それ』が文字であること、その文字が語らうものを。一度も目にしたことがない、当然読めるはずもない文字を。 《ああ、やっと出会えた……》  しゃらん、と鈴の音が響き、見知らぬ声が聞こえた。  振り返ると、小蟻にむかって手を伸ばす娘の姿があった。頭に鮮やかな紫の珍珠蘭をいくつも飾り、紫赤色の絹織物をまとっている。その腰には、真鍮の鈴がふたつ。  娘の冷たい両手が、小蟻の頬を包んだ。 《あなたがいれば、私は──……》  ──そのとき、強い風が吹き抜けた。  ◇ ◇ ◇    ――風を切る音がした。  小蟻が目を開いたとき、彼女の視界に映り込んだのは、雲ひとつない蒼穹だった。普段よりもずっと太陽が近く、目も開けていられないほどにまぶしい。  まるで宙に浮いているかのような不思議な感覚に、ぱちぱちと目を瞬く。しかし次の瞬間、小蟻の体は勢いよく落下をはじめたのだった。 「えっ、えええっ――!?」  重力に引きずられるがまま、下へ下へと怒涛の勢いで落ちてゆくばかりの体。両手足で宙をかいた拍子に、顔が地上を向く。  海だ。  小蟻の眼下に広がったのは、(さざなみ)の白くきらめく海だった。そして赤色の岩礁がわずかに海面から覗く、複雑に入り組んだ湾を見て、小蟻は「油桐(ヨウトン)湾……」と呟いた。  これが正しく油桐湾であるならば、両腕を広げて滑空する小蟻の真下に広がる(おか)は――糸国首都に属する離れ小島、『九龍(クーロン)』に違いなかった。 「ど、どういうことですかっ!? 誰かっ、誰か助けて――!!」  今はまだどの人家も豆粒大ほどの()()にむかって、小蟻は落ちていく。 「ああ、おしまい……おしまいです、小蟻の人生!!」  吹き荒れる上空の風にもみくちゃにされ、体のコントロールがまったく効かなくなった。恐怖から硬く目をつむり、小蟻は心の中で叫んだ。 (いくら小蟻が健康で頑丈でも、この高さから落ちようものなら、そこが海でも(おか)でもぺしゃんこになって潰れちゃいますよう! こうなったら潔く……潔く……) 「死ねるわけないじゃないですか――っ! 小蟻、まだまだ人生を謳歌したいんですから―――っ!」  墜落死なんて冗談じゃない。地上の人間に気付いてもらえるまでとにかく叫べば、誰かが助けてくれるかもしれない。意を決して目を開いた小蟻は、次の瞬間、自身の視界に広がった光景を前に、声を失った。  空のいたずらな風は陸まで少女の体を運び――ある巨大な建造物のもとへと、彼女を連れて来ようとしていた。  ひとつの輪のかたちに複数の階層を積み重ねた、奇妙な建物だった。うず高く(レンガ)を積んだ外壁を見れば背の高い塔のように、しかしその内側は円形の空洞をなしている。 (こんな建物、九龍島にはなかったはず……!?)  砦か城か。そう思わせるほどに背の高い建物の内側へと、小蟻はなすすべもなく飛び込んでいった。  幸か不幸か、彼女の体は建物の空洞部分へと落ちた。建物の屋根か壁かに衝突したら一貫の終わりだったと思えば、落下距離が伸びた分、一時的な延命である。  瞬く間に過ぎてゆく景色に、じっくりと〝塔〟の内部を観察する暇もない。むしろ着実に迫りくる生命の危機に、小蟻はがむしゃらになって叫んだ。 「わ―――っ! わ――っ! だーれーかーー!」  視界に映り込む地面――その寸前に、色鮮やかな布地が映り込んだ。(わら)をも掴む思いで、小蟻は手を伸ばした。 「っ……」  かろうじて掴んだ布地。視界がぐるりと反転するが、干されていた服ごと洗濯用の竿を掴んだおかげで、小蟻は何とか空中で持ち堪えることができた。 (で、でも、ここからどうすれば……っ!)  興奮醒めやらぬまま、周囲を見回す。小蟻のぶら下がる何も無い中空を中心に、ひとつの階層がドーナツ状に彼女を取り巻いている。  階層はアリの巣のように複数の小部屋に分かれていた。一番外側には各部屋を行き来するための廊下が設けられており、その廊下部分から張り出した欄干に、小蟻のぶら下がる長い竿が架けられている。  飛び降りるには命知らずの距離、ともすれば竿を伝い、廊下まで向かうしかない、と小蟻は判断し―― 「待って、いまそっちに向かうから!」  そのとき、小蟻の後方から聞き慣れない少女の声が響いた。  次いで、慌ただしい足音が響く。  ああよかった、どうやら自分は助かるらしい――安堵したのも束の間、小蟻が握りしめた竿が、ピシリと不穏な音を立てる。 「えっ、そ、そんな……! ――キャーーーーッ!」  小蟻の体重を支え切れなかった竿が、呆気なくふたつに割れる。再度宙へと身を投げ出され、小蟻は悲鳴をほとばしらせた。 《――大丈夫よ、飛び降りて!》  そのとき頭を()ぎったのは、見知らぬ娘の声。  しかし()から聞こえたわけではなかった。  見る間に近づく地上。そのいかにも硬そうな石畳に激突する未来は、もう間もなく―― (おかあさん、小蟻はもうだめみたいです。先立つ不幸をどうかお許しください……!)  そう祈った矢先。小蟻の視界を、何かがよぎった。  力強く握った拳を、しかし待てどもこない衝撃に、ゆるゆると解く。誰かが小蟻の体を受け止めたのだ。 「あ………」  ――美しい青年だった。  日に透けて琥珀色に煌めく髪に、白皙の肌。  そして、孔雀石(マラカイト)を閉じ込めたかのような緑の瞳。  それを目にした瞬間、小蟻は気を失った。
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