こうもり傘と宝石の種

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こうもり傘と宝石の種

 予定調和を無視しているような人がいると視線がいく。  悪気があるわけではなく純粋な好奇心である。いや、好奇心では生ぬるい。羨望といってもよいかもしれない。僕はいつだって、平凡で臆病な自分を呪っている。  僕の担当教授のコウモリ先生は、そういう「つい見てしまう人」だった。  窓の向こう側でも遠くにいてもコウモリ先生を見つけることは簡単だ。おかげで興味のないドイツ哲学の研究室に所属することになり、学問に加えて言語という壁にぶつかっている。ドイツ語を読めなくても問題ないと思っていたのが甘かった。  なお、コウモリ先生というのは渾名ではない。正しくは香森(こうもり)先生である。それでも僕は敬意をこめて、コウモリ先生と表記する。なぜならば、いつも黒い傘を持ち歩き、人と出会うときまって「これがほんとうのコウモリ傘だよ」と云いつづけているからだ。  晴れた日は日傘として、雨の日にはもちろん雨傘として、曇りの日にはステッキに。洒落を愛するコウモリ先生は豊かな銀髪の老紳士である。      ◇ 「若人(わこうど)くん、コウモリ先生見なかった?」  大学構内のベンチでライプニッツの入門書を睨んでいると声をかけられた。  断っておくが、僕の名前はたしかに若人と書くけれど読み方はワカトである。それをわざわざワコウドと呼ぶのはコウモリ先生の洒落であり、すっかり周囲にも若人(わこうど)という名前で定着してしまった。  顔をあげ、「知りません」と云ったあとで視線の先の黒い傘に気づく。 「いや、あそこにいますね」 「お、いた。…なにしてるんだろう」 「…なんでしょうね」  数十メートル先にある六号館の植込みの前を黒い傘が行ったり来たり、下をのぞきこんだりしている。  梅雨の晴れ間の日差しの中、瑞々しい若葉を背景にして先生の黒い傘はよく目立った。 「落し物かなぁ」 「ときどき構内をあんな感じでうろついてますよね」 「立派な不審者だ」 「違いありません」  「コウモリ先生!」という大声に、先生は振り返らないまま傘を少しあげて応えた。  補聴器も老眼鏡も必要ない、というのは先生の自慢である。      ◇  ほんとうは、コウモリ先生がしていることを僕は知っている。  去年の冬のこと、大学近くの停車場で先生を見かけた。学外で先生を見つけるのははじめてだった。  その日は雪が降っていたから人々は傘をさしていたのだけれど、行き交う傘の中で先生を先生だとわかったのは大学構内にいるときと同じように駅前の植込みをじろじろと眺めていたからだ。 「コウモリ先生、こんばんは」  僕が声をかけると、先生は手に持っていたなにかをさっとコートのポケットへ突っ込んだ。 「なんだ、若人(わこうど)くんか。よい夜だね」 「なにをされてたんですか?」  これまでに同じ質問を何度したことか。そう聞いたって答えてくれないのは知っていた。 「なんでもないさ」  ただ、その日がいつもと違っていたのは先生にはやるべきことがあったからだ。立ち去らない僕に思案している様子だった。 「いま、ポケットに」 「うん?」 「なにか隠しましたよね」 「さて、どうしたものかな」  教えてくれそうな気配がしたので、僕は「だれにもしゃべりません」と誓いをたてた。 「そうだなぁ、今日がなんの日か知っていたら教えてあげるよ」 「今日?」 「制限時間は一分。こんなところにいつまでもいるのは寒いからね」 「…先生の、誕生日ですか?」 「違うなぁ」 「なにかの記念日?」 「どうかな」  スマートフォンを出して、日付を検索する。 「……冬至?」 「うん正解。でも、ズルはよくない」 「検索してはだめとおっしゃらなかったじゃないですか」 「聞かれなかったから云わなかったんだ」 「…教える気がないんですね」  僕がそう云うと先生は「ははは」と笑った。気持ちのよい笑い方だった。 「そんなことはない。ほら、内緒だよ」  コウモリ先生がポケットから取り出したのはコルクで蓋をした試験管だった。中には胡椒のような黒い粒が入っている。 「…種、ですか?」 「手を出してごらん」  先生は傘を肩にあずけて器用に蓋を開け、僕の手のひらにぱらりと三粒を落とした。 「これは宝石の種だ」 「ホウセキ?」 「ラピスラズリの亜種だと思うんだ」 「…はあ」 「信じていないね?まあいい。いまからここに蒔くから覚えておいて、初夏になったらわかるさ」 「先生はいつも種を蒔いているんですか?」 「いつもじゃない。種を蒔くのは寒い夜に限っている。あとは発芽の様子を確認しているんだ」  先生のなぞの行動にもきちんと理由があったのだ。 「それはあげるよ。好きな場所に蒔くといい」  しばらくの間、駅前を通るたびに気にしていたが、やがて植込みに目を向けることはなくなった。  先生からもらった種はまだ僕の机の上に転がっている。好きな場所を見つける前に季節が変わってしまったのだ。  春になると就職活動と卒業論文が僕の頭を占拠した。悠々自適に道楽で種を蒔く先生とは違って、僕には将来のためにやらなければならない課題が山のようにある。      ◇  見ひらいているページに影が落ちた。 「若人(わこうど)くんのしかめ面は哲学者めいている」  顔をあげなくてもコウモリ先生だとわかる。 「褒められているのでしょうか」 「もちろん。ところできみは電車通学だったかな」 「そうですが」 「それはよかった。明日はまた雨だよ」  コウモリ先生の云ったとおり、翌日は雨だった。梅雨はまだしばらくつづくらしい。  先生が「よかった」と云ったのを思い出し、「ちっともよくないんだけど」とひとりごちてしまう。  傘をさし足元の水たまりに注意しながら歩みをすすめていると、うつむいた視界の端に濡れそぼった植込みが映る。かすかな予感がする。ほんのわずか目を向けると植込みのなかに小さな、けれどとても鮮やかな青色があった。  「あ」と思ったが停車場からの人の流れの中にいるため、立ち止まることができない。一瞬で視界から消えてしまったが、さっきの青色はコウモリ先生の蒔いた宝石なのではないか。そう思うとどきどきした。  引き返すか迷いつつそのまま歩いているうちに大学の正門が見えてくる。そこでようやく僕は意を決した。そんなに大げさなことではないと思われるかもしれないが、僕にとっては勇気のいることだった。  傘をぶつけながら人波に逆らってすすむ。水たまりだって気にせずにふみこむ。 「す、み、ません。失礼しまぁす」  植込みまでたどり着き、うずくまる。それは通りすがりでよく気づけたなと感心するほどの小さな青い花だった。コウモリ先生が宝石の種と云ったのはこの花のことなのだろうか。 「…露草、だっけ」  雨に濡れた青色は、たしかに宝石のような輝きがあった。      ◇  露草は、いたるところに咲いていた。  大学構内はもちろん、学外の街路樹の根元でも見かけた。とくに朝、雑草の茂ったなかに、青色の小さな花を見つけることができた。 「露草が咲いていました」  その週のゼミの日、研究室でコウモリ先生に話しかける。 「きれいだろう」 「いろんな場所に咲いてるんですが、すべて先生が蒔いたんですか」 「内緒だよ」 「内緒もなにも、露草に気づいている人はいないようです」 「若人(わこうど)くんは気がついた」 「ズルをして、教えていただいたので」 「ははは」 「…なにか意味があるのでしょうか」 「意味、意味か……そうだ、そのうち来年用の種を採集するから一緒にどうだい」  僕は道楽に付き合うほど暇ではない。就職活動はあるし研究テーマだってしぼりきれていないのだ。でも、だからこそ、答えはもちろん決まっている。 了
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