第一章 伏川町

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002. レーン・クレイデル  フィドローン王国国境近くの村ハクビルに住む少女、レーンは、帝国と取り引きのある商人から、魔法陣の出現を知らされた。  場所はアレグザ平原、村からでも昼夜歩けば一日で着く場所だ。  陣出現から既に四日は過ぎており、悠長に構えていては出遅れる。革のチュニックの上に、妹から借りたローブを羽織り、レーンは翌日の日の出前に村を発った。  母親が起きたときには、もう彼女の姿は無く、ただ書き置きだけがテーブルに置かれている。  走り書きのメモには、一言、「アレグザに行く」とだけあった。  彼女の背嚢(はいのう)には干し肉と乾燥果実が詰められ、大型のナイフと魔弓が腰に装着されている。長期遠征に出る狩人の姿として正しく、無骨な矢弾帯を左肩からタスキ掛けしていた。この革のベルトには、矢にしては小さな金属弾が並んでいる。  レーンは目的地に向かってほぼ最短距離を、黙々と進む。  アレグザ平原に至るフィドローンと帝国の国境には、大した警備兵もおらず、帝国領内に入るのは容易(たやす)かった。  アレグザは西武劇の舞台のような荒野で、ところどころ地球の松に似た針葉樹の林がある。  特産物も無く、定住者もいない痩せた土地ということであれば、彼女が道行で他の人に出会うことは無い。  たまに交易キャラバンが砂煙をあげるくらいで、その上、魔法陣が出現したとあっては、無人の荒野になるのも必然である。  主街道を避けて半日ほど歩くと、昼にもかかわらず雷鳴が耳に届いた。  さらに進み、地平線に目を凝らすと、わらわらと蟻のように動く人影が見えてくる。こんな場所にいる大集団と言えば、魔法陣を包囲する帝国軍に間違いないだろう。  レーンは様子を覗える場所を探して、用心深く歩み続けた。魔法陣のほど近くに、適当な木陰があり、ここをしばしの休憩場所とする。 「静謐(せいひつ)なる水を、ここへ」  両手の平で極小の魔石を挟んで砕き、術式を発動させると、彼女の手の内に水が溢れた。簡単な術式は、一通り使えるように鍛練している。  持って来た水と食糧は、残り五日分ほど。動き易さを考え、ギリギリの量に控えた。行きの荷物は、出来るだけ少ない方が良い。  フィドローン人は、視力に優れた種族だ。望遠の術式などに頼らなくとも、帝国軍の様子はある程度見てとれた。  大きな布の天幕が簡易詰め所――これが既にいくつも建てられ、その周りを常に歩哨が警戒している。数人用の小さなテントは、さらに多数設置されていた。  先遣された兵は、地方の分隊であってもゾーン対策を訓練された者たちだ。土木工作と魔戦力に優れていて、単なる治安維持の軍とは構成が違う。  後に来る本隊に至っては、国軍と同等以上の戦力と、地方の対策部隊以上の建設能力を誇っていた。  本隊が来てしまっては、ゾーン内に入るのは難しい。今ならまだ、警備に穴もあるだろう。  対策部隊による防衛陣地は、魔法陣の外に第一の外周を作り出す。杭や柵が円周に沿って並べられ、穴だらけと言えども、ゾーンへの出入りを禁じる帝国の意志を表していた。  先端を尖らした杭が、内側へ向けて斜めに並べられていることから、軍が何をより警戒しているかが分かる。  彼らが恐れているのは侵入者よりも、ゾーンそのものだった。 「さて、どこが手薄かしら……」  栗色の髪が、乾燥した平原の風に揺れる。  アレグザの魔法陣の大きさでは、いくら専門の部隊でも、全域を哨戒することは不可能だ。必ず、警備が薄くなる場所と時間があるはず。  干し肉をガシガシと噛みながら、レーンは飽くことなく観察を続けた。  レーンとは場所を離れて、ゾーンの出現を待つ者は他にもいる。  これが単なる野次馬なら、兵によって排除されるだろう。しかし、ここを通る交易経路は一時閉鎖されているため、残っているのは野盗や冒険者の類いが多い。  全員が兵士の索敵外に隠れているが、どれほどの人数が集まっているかは、レーンにもあと数日で分かることである。  そのほとんどは、兵によって捕らえられてしまうだろう。それでも何かを期待して、皆はジリジリと魔法陣を見守り続ける。  レーンが様子を観察し始めて二日後、魔法陣が光を増し、時が近いことを告げる。  やや薄暗くなったアレグザの夕の空が、昼のような明るさに照らされた。雷の数も、見るからに増えている。  いよいよだ。  彼女は、突入ポイントと検討をつけていた場所に、急いで移動する。  そう言えば、今朝から虫達がうるさかったと、彼女は思い返す。魔法陣に空中から出たり入ったりする“蜂”や“蛾”に、兵士たちは辟易していた。  ――私も飛べれば楽なんだけど。  ある種、少女らしいつぶやきが出てしまい、レーンの顔に苦笑いが浮かぶ。  自分には似合わない空想だと頭を振った瞬間、重力が捻じ曲がった。平地を滑り落ちそうになる感覚に、彼女は地面に這いつくばって抵抗する。  閃光と地響きが、刻限を告げた。  砂嵐のように立ち上がる竜巻の中、青い光が膨れ上がり、やがて大きな塊を作る。  土埃(つちぼこり)の合間から魔法陣の内側へ視線を向ければ、巨大な影がいくつも出現していた。影は電撃をその身に走らせ、アレグザ一帯の空気が震える。  直径三キロを超すエネルギーの塊――彼女の頬にも、その震動は伝わってきた。 「これがゾーン……」  荘厳ではあるが、人の力を超える天災でもある。  安易に立ち入ってはいけない存在であると、初めて肉眼で見た彼女にも、充分に感じられた。今まで以上に、気持ちを引き締めなければ危険だと、本能が教えてくれる。  青い塊は、やがて黒く光を失い、夜の闇に段々と馴染んでいった。  突入手順は何度も頭の中で繰り返したが、結局は行き当たりばったりでしかない。不安を決意で塗り替えて、目の前の闇を見つめる。  彼女の心に、一つの顔が過ぎる。ゾーンに行くことを彼女に決断させた、妹の白い顔。  ――待っててね、マリダ。  必ず戻ってくると、強くその弱々しい顔に誓った。 ◇  レーンが突入場所と決めたのは、アレグザ東北の窪地だ。二つの兵舎の中間地点にあり、双方から巡回する歩哨は、ここで折り返す。  ほとんどが平地で遮閉物も少ないため、幾分でも姿を隠せる地形はありがたい。  問題は、やや右手奥に防御陣地を建設する兵士のためのテントが設けられていることだ。夜間は無人かと思いきや、そうでもないらしい。  工兵だけなら苦労はしないが、前夜の監視中、戦闘員の姿が確認できた。今回の突入で、あまり相手をしたくない魔導兵だ。術式を組み込んだ魔石を持ち、物理戦もこなす戦闘のプロで、帝国では貴重な上級兵として運用されている。  ――一人二人の魔導兵なら、強行突破するしかないわね……  他の地点では、援軍の危険が増す。短時間で防衛ラインを越えるつもりなら、相手にできるのは敵兵総数十人以下。  この窪地が、やはり突入ポイントとして最善だった。  先刻、南側の歩哨が折り返して帰っていった。もうしばらくすると、北側からの歩哨が、窪地に到着するはず。  レーンは赤黒いローブを頭から深く被ると、点在する松から松へと不規則に駆けて、目的の窪地へ近づいていった。  膝下まで隠すローブを(まと)ったレーンは、大きな布の塊のようにも見える。  “揺らぎのローブ”と呼ばれるこの装備を身につけると、気配が極端に薄くなり、直接対面しても輪郭がぼやける。そんな強力な効果が練り込まれた術式装備は、レーンの祖国フィドローン王国でも珍しい一品だ。  貴重な神木サナスの樹皮を繊維状に加工して編み込み、隠密性能、魔法抵抗を高めた一級の戦闘服――この家宝とも言えるローブを、レーンは黙って家から持ち出してきていた。  ローブは本来、父の持ち物だったが、今その父はいない。三年前、帝国によって殺されたのだから。  ――そう、帝国兵は父の仇。  人族相手の戦闘は初めてだが、彼女に躊躇いはなかった。
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