あめとやくそく

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あめとやくそく

「ねえ、約束してよ」 「ねえ、一緒にここを歩こうよ」 「ねえ、ここで待っていてよ」 「ねえ、ねえ」  ☔︎☔︎☔︎☔︎☔︎☔︎☔︎ 「梅雨だ!」 「梅雨だねえ」 「やったー!」  はしゃぐ私と頷く彼。ベランダから空へ、手を伸ばすと、簡単に雨粒を採取できた。  それを両手に包み込んで、零さないように彼に見せる。「汚いかもよ?」と彼。相変わらず心配性だ。でもいい。私は雨が好き。 「梅雨が来たらすることまず一つ!」  ベランダの屋根から顔を出す私。「濡れちゃうよ?」と彼。「じゃあ君もおいでよー」と私。 「そうだなあ…じゃあ休日は、川を見たいなあ」 「それで?」 「お買い物でも行ってー」 「うんうん」 「お家でごろごろ!」 「いいねえ」  彼は相槌を打ちながら、黒い髪を滑らかに濡らした端正な横顔を私に見せた。私の髪も少し濡れてきたな。そういえば、雨に濡れたのは初めてかも。いつもは雨粒なんて、傘越しに見ていたっけ。傘の骨の先から垂れる雨粒がうっとうしくってしょうがなかったっけなぁ。でも、今は、逆に有り難く感じる。  だから梅雨は好きだ。 「…ちょうど二年だねえ、って言いたいの?」  そんなに私の顔は分かりやすかったのか、  それとも、  彼がちゃんと覚えてくれていたのか。 「…覚えてくれていたんだね」  ふふ、私達はシンクロして笑った。 「だって、約束したよ。絶対あの日のことを忘れないって。…あれー、約束守るのが君のモットーじゃなかったっけ」  彼は珍しくいたずらを言う。覚えてるよお、と、肩を強めに叩いてみる。 「ほら、もうびしょ濡れだよ。部屋に入って梅雨の休日のプラン練りでもしようよ」  彼は私の手首を引いて部屋に戻り、バスタオルを頭からぼすっとかぶさせた。一瞬で前が見えなくなったので、私はわあわあ騒ぎながら彼の胸に飛び込んだ。濡れた髪を、わしゃわしゃと乾かしてくれる。あんまり意味ない気がしても、それでいい。  それがいい。  ⚡︎⚡︎⚡︎⚡︎  休日になった。  今日が本当の、「出会って二年」の日。あの日がなければ、私は雨も梅雨も大嫌いなままだった。  梅雨入りしたという予報を見ていたというのに、傘を忘れてしまった惨めな私は、ビルの日陰でまだらに曇った暗い空を恨めしく見つめていた。ああもう、この分じゃずっと土砂降りじゃないの–––––ビルの自動ドアから、涼しい風が吹き抜けて来ては、傘を持った人々が出てきて街の景色に消えてゆく。  あーあ。だれも傘なんて貸してくれないんだろうな。こんな惨めで仏頂面な女になんてさ。  これだから雨は嫌になっちゃうよ。洗濯物は干せないし、靴の中に水は入るし、ざあざあうるさいしで。  すー、はあ。  息を溜めて、そのまま思い切り口から吐いてみる。いつでもお気楽な私の気性、こうすれば大体の悩みはどこかへ行ってしまう。だけど、雨の日は効果がなかった。  –––そうしていたら、後ろから声がかかった。  いらいらしていて、できるだけ返事がしたくなかった私だったんだ。  けれど、その声は何もかもが違うと、––––思わず返事をした。  そのいでたち、雨音(あまね)と名乗った優しい声、差し出した傘を持っての温かさも全部。  冷たかった私の心に太陽を差し出してくれた。  同じ傘の下を共にして、恋人でもなんでもないのに、息が切れそうになる程、心はうるさい。それに、まだ残っていた青い心は騒ぎ始める。居ても立っても居られない、とはこういうことなんだなあと思った。  結局連絡先を交換するまでに至ってくれ、今の私はあの頃の私の行動力に感謝している。  支度をしていたら、思わずにやついていたのか、隣で窓の外を眺めていた雨音が、どうしたのと顔を覗き込んできた。わざわざ言わなくても分かるでしょ、という表情をつくると、彼は笑って床に手をついた。すぐそばに、私の指があって、彼はそのまま指を絡ませてぎゅっと掌を握って。私はそれを握り返して、改めて空を仰いだ。 「思ったより弱い雨だ」  彼は安心したように頷く。なので、私ははしゃいで彼の正面に回り、鼻と鼻がくっつくほど近付いてから、唇に口付けた。それから、じゃあ川を見に行こう、危なくない程度にさ、二人で相合傘してみてさ、あの時みたいに! と、彼に推した。 「じゃあそうしようか。…あっ、虹香(にじか)、見て」  彼が指差したその先には、明るい空が。  どうやら一時的にだけ、晴れがやってきたようだ。 「お恵みだねえ。さあ行こう」  私は彼の手を握って立ち上がる。  何よりも、彼の手のぬくもりが愛しかった。  ⚡︎⚡︎⚡︎⚡︎ 「あっ、ねえ! 見てよ!」  私は遠慮なくはしゃいで、彼の腕を掴んで公園の木の下から引っ張り出した。この大きな公園には、桜の木が生えていて、草むらでできた小さな堤防が見下ろせる。  ––私達がまだ出会って数ヶ月の頃に始めてデートした場所がここだ。でも、あの日と違うのは、天気。あの日は晴れていて、汗ばむ程暑かった。でも今日は長袖を着ないと寒い位、風は吹き、空は白く雲に覆われている。でも、今は少し太陽が覗いているので暖かい。  雨音は「きれいだね」と微笑んだ。三十メートル位の幅の川面に、太陽の光が反射して白くキラキラと輝いていた。ゆるゆると水は流れ、揺れて、光は気まぐれに瞬く。もっとそれを近くで見るべく私達は堤防を少し降りていって座り込んだ。草むらの地面は少し湿っていて、生命の香りを強く感じた。私と彼は古着気味なジーンズを履いてきていたので、汚れはさほど気にならずに済んだ。 「はー…きれいだな」 「うん、きれい」  互いの言葉を反芻しあう。繰り返してゆくうちに、私達の肩は触れ合い、私は雨音のほうに寄り掛かっていた。  周りに人は誰もいなくて、ただ公園に二人きりというだけなのに、この世界の中で、いや、宇宙の中で、たった二人きりで佇んでいるような寂しさと、嬉しさが交わって私の中でひしめく。  ずっとこのままでいたいけど、無理なんだろうな。いつまでこう幸せでいられるんだろう? いつか別れる日が来てしまうのだろうか? 嫌だな。でも…、雨音がどう思っているのか私には分からない。  こうして二人きりでいると不安が押し寄せてくる。  そのたびに、彼は私に寄り添い、優しくしてくれるから、彼は、雨音は、本当に優しいひと。心配性で、寝顔が可愛くって、酔うと笑い上戸になる雨音なんだ。  しばらく…といっても十分くらい、眺めていると、眠気がやってきた私は彼に寄り掛かったままうたた寝、そしてそのまま寝落ちしてしまった。雨音は彼女の乱れた髪を直しながら空を見上げる。白かった空がだんだんと灰色帯びてきた。つかの間の晴れはおしまいの様で、遠雷が聞こえてくる。  でも彼は、彼女を起こしたくなかった。  幸せそうな顔で、寝息を立てる彼女を見ている事が、それがどんなに些細に見えても美しい幸福の時間だったから。  ぎりぎりになったら肩を叩いて起こそう。そこのショッピングモールに避難しようって、声をかけて、寝惚け眼な彼女の手を引いて相合傘をしてあげよう–––。それで。  アレを渡そう。  二週間前から用意していた、指輪を。  雨宿りしながらなんてロマンチックじゃないかな。本当はここで渡したかったけど…。寝てしまったならしょうがない。  ぽつり、ぽつり。  ほんの二滴、彼女の耳とこめかみに雨粒が当たると、そのままざあっと激しい雨が降り出した。彼女は起きない。川面に音を立てて、滝の様な雨が降り注いだ。雨音は指輪が入った紙袋を一旦置いて、彼女の肩を優しく叩いた。  その間、十二秒。 「虹香、起きて」  十九秒。 「おーい、虹香、雨だよ」 「んー…」  二十五秒。 「あ…雨が口の中に……」 「ほら、行こう」  雨音は傘を差して、彼女の肩を抱いて入れた。  ……三十五秒、六秒、七秒。  …四十秒。  ざああああああああ…! 「うわあ、早く行かなくちゃ」  目を擦る虹香の冷たい手を握って走り出そうとすると、突然虹香は立ち止まった。 「どうしたの?」  雨音は焦りながら、虹香の瞳を伺う。しかし、目は見えず、虹香は引き返していた。堤防に離れていたのに、彼女は堤防を降り始めて––––。 「…虹、香–…–っ」  ☔︎☔︎☔︎
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