プロローグ 列車内 1

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プロローグ 列車内 1

『門』といえば夏目漱石を思うのが普通だが、その学生が読んでいたのは違った。 「耽美報」という文学雑誌に載っていたほうだった。ただし学生はただ旅の慰みにこれを買ったに過ぎない。そんなカストリ誌などつゆ知らずだったしましてや、相田謙介なるマイナー作家など知るはずもなかった。  学生は何らかの事情で列車に乗ることになった。それは長い旅になる。その間ずっと車窓の景色を眺めているでも構わないと思った。だから東京駅近くの本屋に寄ったのは気まぐれだった。  学生は趨勢を憎む性質だ。彼が文春や新潮の並ぶ棚を無視しカストリ棚を目指すのは自然だった。ついでに言えばその中でも目立たない、一番端の一番下に、世間から捨てられたようにあったもの悲しい背表紙を手にとったのも自然だった。  決定的だったのは巻頭の婦人画だった。やたら美しい。それでいてひどく恐ろしかった。  灰色の雪原。稜線が漆黒の空と交わり、曖昧な境界線を描いている。絵の手前のほうには夥しい数の曼珠沙華が咲いていた。雪に垂れて広がった血滴のようでもある。花の上のほうには黒い蝶が舞っている。蝶らは死装束のような白い着物を召した婦人の周りを飛んでいる。婦人は鳥居だろうか。真っ赤な門の向こう側に立っている。  そういう絵だった。  車窓から流れこんだぬるい海風に吹かれて学生は我に返った。何気なく通路のほうを見た。コンパーチメントの向かいに男が座っていた。  学生はそれまで小説を読んでいたから彼がいつそこに座ったのか知る由はないのだけど、奇妙だな、といぶかしんだ。いくら本に夢中だったとはいえ、人の気配くらいはわかるはずだ。だが分厚い雲がかかり黒くなった海を眺めている紳士がどこの駅から乗ってきたのか、皆目見当がつかないのだ。  学生は紳士に興味が沸いた。なので雑誌と紳士と交互に見ては観察をした。  山高帽にトンビコート、という出で立ちだ。今時珍しいと学生は思った。  景色を見ているので(黒い海なんて見て何が楽しいのだろうと学生は思った)、顔はうかがえないが、白髪がかなり多かった。五〇代後半くらいだろうか。  しかし学生の注意をひいたのは男そのものではなかった。  車窓に立てかけられた、長方形の木板。これが気になった。  学生は遺影だと思った。もしもこれが遺影ならば、白髪の男は故人を想って風景を見せてやっているのだと納得できる。だがそれにしては大きかった。大人が抱えるのがちょうど良いくらいなのだ。  ならば絵だろうか。と学生が思ったときだ。それまで木板に注視していたので気がつかなかったが、男がこちらを伺っていた。奇妙な感じで肩から下は窓の外を向いているのだが、首だけ正面を向いていた。  学生の身体が跳ねた。ただ驚いただけには大げさすぎる。事実そのとおりで学生は男と目が合ったとき、瞬間的に恐怖したのだ。だからはじめ、学生は恐怖していると感じなかった。しかしすぐに、脚のほうから多脚の虫どもが這いあがってくるように、耐え難い恐怖がわいてきた。白髪に青白い顔に、ぎょろっとした目玉。男は幽鬼そのものだったのだ。  例えば夜歩きをしているとする。ふと見上げた先の民家の二階窓に、白い顔が浮かんでいてしかもこちらをまじまじと伺っていたら嫌だろう。この時学生はまさにそんな心持だったのだ。
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