70人が本棚に入れています
本棚に追加
「むぅ」
俺が「島」に来てから一週間が過ぎた。うだるような暑さは次第に収まり、風が心地よい季節に変わってきた。
「どうした? 食べないのか? 」
港から東に向かって道なりに、分かれ道を右に、砂浜が見えたら坂を登って、その上にある大きなシュロの木の横。
赤い屋根、白い壁、茶色の扉。それが父さんの診療所。そして今は、俺たちの家。
「ん〜……」
「折角イワクラさんがくれたんだ。食ってみろって。美味いぞ」
俺の前に座る少女はノア。元はハンドウイルカ。この「島」の光を浴びて、ヒトの姿を得た。銀色の髪に白いシャツ、灰色のベストと黒いズボン。首から下げたボトルメールは、ノアの宝物だ。
そんな彼女は朝食の真っ最中。今日のメニューは種パンのベジタブルサンド。
診療所の脇に生えている種パンと、近所のイワクラさんが分けてくれた夏野菜で俺が作った。
水気たっぷりのトマトやキュウリ、レタスを挟んだだけの、シンプルなメニュー。そのまま齧っても溶けるように甘い野菜が、ふかふかの生地と混ざりあり、なんとも言えない味を生み出す。
……はずなのだが。
「この草、食べなきゃだめ? 」
草じゃない。野菜。
「野菜も食べなきゃ、栄養取れないぞ」
「でも苦いじゃん」
あぁそうか。イワクラさんが野菜をくれた後、俺が真っ先に作ったのがピーマンサラダだった。ノアはいつものように「なにこれ! 」と言い、一皿丸ごとがっついた。
そしてあまりの苦さに悶絶し、診療所中を転げ回った。それがトラウマになったのか、野菜に対して異様なほど警戒するようになったのだ。
「これは苦くない。むしろ甘いぞ」
「苦いものは毒だって、母さん言ってたよ」
そりゃ自然界じゃな。そもそも苦味という感覚は、毒物を避ける為の生き物の知恵らしい。
「大丈夫だって。俺が食っても平気なんだから」
「苦手なものは苦手なんだもん」
そう言われると言い返せない。俺も肉が苦手だから。
「イルカは魚だけでいいかもしれねぇけど、ヒトはそうはいかないんだ。まぁ食ってみろって」
でも今は、自分のことは置いておこう。これはノアのためだ。
「やだ」
「食べろ」
「やだ」
「病気になるぞ」
「毒を食べるよりいいもん」
「大丈夫だって! 」
「むぅ」
そのむぅを言った瞬間、ノアは勢いよく横に跳んだ。開けておいた窓からテラスに出て、そのまま走り去る。逃走だ。
「おいこら、待て! 」
好き嫌いで鬼ごっこが始まるとは。なんだか馬鹿馬鹿しいが、ほっとくわけにもいかない。追いかけるか。
最初のコメントを投稿しよう!