2

7/10
2916人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ
 腰から下の感覚が、鈍い。  最後は意識を手放したようで記憶がない。  とにかく、凄かった。その一言に尽きる。既に日は高く、詳しい時間は分からないが朝ではなさそうだ。一体どれほどの時間、眠っていたのか。  体は丁寧に拭かれていて、肌はサラサラしている。脱いだ服や荷物はなかったが、代わりに浴衣が一着帯とともに枕元へ置いてあった。  重い体を起こして息をつき、少し熱っぽい体にクラリと眩暈を起こす。  どこへ行ったのか輔の姿はない。それに半分だけホッとして、もう半分は寂しさを感じつつ浴衣に袖を通そうと腕を伸ばした。  その何気ない動作すら億劫になるほど体が重く、恨み言の一つでも呟きながら時間をかけて着替え始めた。途中輔が戻ってくるかと思ったが、物音一つせず太一はふらつく体で部屋を出る。帯は適当で滅茶苦茶だったが、気にしなかった。  例のパネルの部屋は相変わらず太一一色だったが、あえて見ないようにして離れの玄関を出る。  朱い橋を渡って本宅の方へ戻り、輔を探した。とりあえず家に帰りたかった。荷物と着替えを返してもらうため探し回っていると、廊下の向こうを横切る人影を見つけた。  こんな格好ではあったが、輔がどこにいるのかを訊いてみようと追いかける。走ることはできなかったので、なるべく早歩きで後を追った。 (……いない)  困った。見失ってしまった。  これだけ屋敷が広いのだし、住まう人数も多いのだろうから行き交う人ともっと出会ってよさそうなのに、誰には会わない。それを不思議に思いながらも、勘を頼りに進んでゆく。  体力を根こそぎ削られている状態で歩き回るのは予想以上に辛く、歩くたびに人には言いづらい箇所の痛みが強くなった。怠く、熱っぽい。それでいて額に滲む汗は冷たい。  やはり少し無理をした。いや、された。熱い息を吐き捨てて戻ろうかと来た方向を向いた時、視界が歪んだ。立っていられないほどの歪みに廊下に両手をつく。 (あー……、熱出してる……これ)  この寒気はそのせいか。どうやら本格的にマズイようだ。  仕方がないので離れに一旦戻ることする。一人眩暈がおさまるのを待っていると、背後からすり足にも似た足音が近づいてきた。  顔を上げれば、そこには着物姿の女性が立っていた。ここの住人なのかは知らないが、ひどく驚いた表情で太一を見ている。  まぁ、確かに廊下の真ん中で浴衣姿の男が四つん這いになっていたなら、さぞ驚くことだろう。 「あの、……僕は」  声は思った以上に掠れていて、みすぼらしい。咳払いをしてどうにかしようとするが、喉に強い痛みが走る。痛みに眉根を寄せていると、女性は自ら膝を折って太一に顔を覗き込んできた。 「大丈夫?」  年齢は四十前後だろう。薄紫色の美しい小袖姿で、まとめ髪の美しい小柄な女性だった。色白で線が細く、口元のほくろがなんとも色っぽい。  彼女は太一が自分のことを説明するよりも先に体調を案じてくれて、汗の滲む額に手を宛がってくれた。 「熱があるじゃない。どうして起きてきたの? ここからだと離れは少し遠いわね……。いいわ、こっちよ」  そう言って太一に手を貸して立ち上がらせ、近くの障子戸を開いた。  六畳ほどの和室に太一を招き入れ、いきなりそこの押し入れから布団を取り出し、敷き始める。 「え、あの、え?」 「ほら、横になって」 「でも……」 「でもじゃない。いい子だから、横になりなさい」  まるで幼い子供に言い聞かせる母親のような口調で言われ、太一は大いに戸惑いながらも疲弊した体を休ませるために素直に応じた。  正直、限界に近かった。寒気が強く、気を抜くと歯がガチガチと鳴りだしそうなほどだ。目の前の柔らかそうな布団の誘惑に負けて横になると、安堵に小さく息が零れた。 「まだ寒い?」 「……少し」 「熱が上がってるのね。ちょっと待ってて」  彼女は名乗らぬまま部屋を出て行ってしまい、太一は今からでも離れに戻った方がいいのではと不安になる。しかし、悪寒は激しさを増すばかりで動けそうにない。自覚すると一気に症状が重くなった気がした。  何もかも昨晩の行為のせいだろうが、ここまで体が悲鳴を上げるとは思わなかった。体力がある方でないのは分かっていたが、いくらなんでも高熱を出すとは軟弱過ぎるだろう。  文字通り抱き潰されたわけだが、肝心の犯人が未だに見つからない。一体どこへ行ったのか。こんな右も左も分からない屋敷に一人ぼっちは避けたいものだ。 (……あの人、誰なんだろう?)  はんなりとした、藤の絵柄の大変美しい小袖。それをキリリと着こなして、彼女は颯爽と出て行った。おそらく戻ってくるだろうが、一体何者なのか。  高い天井をぼんやり眺めることにも疲れて目を閉じていると、しばらくして人の言い争う声が聞こえてきた。さっきの女性と、おそらくもう一方は羽黒だ。挨拶を交わした程度だが、若いくせにやたらと威厳のあるあの声は忘れられない。  何かあったのだろうか。  ほとんど人ごとのように目を閉じたまま耳を澄ましていると、いきなり自分の名前が二人の会話の中に出てきた。何事だと目を開き、そちらに一層の意識を向ける。 「だからって放っておけないでしょう? いいから、そこをどいてちょうだい」 「駄目です。貴女と彼の接触は若が認めていらっしゃいません」 「だけど、もうあの子は成人したのよ? 私にだって……あの子に会う権利はあるわ」 「それをお決めになるのは貴女ではない。太一さんへの接触は私も許されておりません」 「熱があるのよっ? それを放っておけというのっ?」 「そうです」  淡々とただ事実のみを伝える羽黒に、女性が苛立ちを募らせた様子で声を荒げた。 「寝かせておいて水分さえ補給していれば、人間はそう簡単に死にません。じき若もお戻りになります。お引き取りください」 「……、っ。……嫌よ。私には拒む権利がある。借金を返せというのなら今すぐに返せる算段はできているわ」  重い沈黙。それを破ったのは、羽黒の隠そうともしない不快げなため息だ。 「……貴女のことは、若も危惧していらっしゃいました。若には秘密にして、手紙を送ってましたね? 若は太一さんが喜んでいるからと捨て置きましたが、私からすれば貴女は彼が成人した今存在意義がない」 「なんですって……?」 「近日中に、弁護士が参ります。詳しくはそこで。話は以上です。お引き取りください」  冷たい羽黒の声が女性の訴えを阻み、少しずつ足音が遠ざかっていく。    太一はふらつく体をどうにか起こして、布団から這い出た。  クラクラするし悪寒も増したが動けぬほどではない。このくらいなんともない、そう言い聞かせて部屋を出る。立っただけで息切れしそうだったが、二人が遠ざかる前に動かねばと、必死に障子を開けて廊下に出た。  障子に手を突き、壁伝いに二人を追いかける。物音にすぐさま気付いた羽黒がこちらを振り返り、女性とも目が合った。  面倒臭そうな羽黒の冷たい視線が、太一に突き刺さる。  女性は引っ張っていた羽黒の腕を払い駆け戻ってくると、息を詰めて咳き込んでいる太一の背中を心配そうにさすってくれた。その手には小さな薬箱。これを彼女は取りに行ってくれていたのか。  それにしても、たった一晩同性に抱かれただけでここまで体調を崩すのは、いささかおかしい。空調のきいた室内で長時間全裸で好き勝手やられたものだから、どうやら風邪を引いてしまったようだ。  どうりで声が掠れて痛いというより、扁桃腺のあたりが痛いはずだ。簡単に風邪を引いてしまった我が身を情けく思いつつも、女性へ視線を向ける。 「あの……、こ……小雀、……響子さん、ですか?」  自分から尋ねておいて、心臓が急に早鐘を打ち始めた。  ずっと、ずっと、会いたかった人物かもしれない。その事実に、どうしようもなく胸が躍る。  小雀の姓を名乗るようになってから、弁護士を通じてお礼の手紙を渡したのが全てのきっかけだった。手渡されているスマートフォンで連絡を取ればいいだけだったが、あちらは用件のみでいつも淡々としていた。少しでも謝意を深く伝えたくて、太一は手紙という手段を選んだ。  もちろん、メールでも連絡を取り合っていた。太一が風邪を引いた途端、必ず元気かと訊いてきて、体調を崩していると返信すると果物や食料が食べやすい状態で配達されてくる。元気かと訊いてくる時は決まって体調を崩していたので申し訳なかったが、毎度こちらの体調不良を知っていたかのようなタイミングなのが不思議だった。  それなのに、手紙で先日の果物や食料の件に礼を述べると手紙では一度もそのことに触れてこない。何かしら一言あってもよさそうなのに、完全にスルーされた。  まるで、手紙とメールでは別の人物を相手にしている気分だった。その違和感が、ようやく解けた。 「太一さん。貴方は若のものです。すぐに離れに戻っていただきたい」 「……嫌です」    羽黒の目が怖い。威圧感に悪寒とは少し違う恐怖からくる寒気が襲う。  それでも、ここは譲るわけにはいかなかった。  会いたかったのだ。手紙を受け取るたび、本当に嬉しかった。返事が届くまで、とても待ち遠しかった。メールでは事務的な内容だけだったのに、手紙では庭に咲いた花の話や飼っている猫の話、作った料理、嬉しかったことや失敗談。それに加えて太一の今の生活に不満や心配事はないかと、毎回必ず尋ねてくれた。  誰かに気にかけてもらう経験がほとんどない太一は、この幸福感をどう言葉にしていいか分からないほどだった。  毎年誕生日贈られてきた手作りのケーキや、服なども輔ではなく彼女からだったのだろう。一人で食べるケーキは少し寂しかったけれど、手紙でお礼を伝えると嬉しそうな文面の返事が届いた。それがまた太一には嬉しかった。  「いい加減になさってください。面倒事は起こさないでもらいたい」  やけに苛立った様子で太一へ手を伸ばし、腕を掴む。今度は太一を無理矢理離れへ引きずって行こうとする羽黒へ、ふらつく体で必死に抵抗した。 「い、嫌だ……。話、を」 「必要ありません」 「っ、痛……ぅ」  骨が軋むほどの、容赦ない握力に情けないが足がついていかずその場に膝をついてしまう。それへ忌々しげに舌を打たれ、昔こんな仕打ちを受けていたなと心が冷たく震えた。  よく、養い親に腕を掴まれて外の物置へ連れて行かれた。どんなに拒んでも、殴られて蹴られて、最後には閉じ込められた。  ……カタリ、と。別の震えが太一を襲う。 「放しなさい、羽黒。その子に触れることを許されていないのでしょう?」  怒気をはらむ、辛辣な声が羽黒の足を止めた。すぐ上で息を呑む気配。痛いほどの力がすぐさま離れ、今そのことに気付いたような表情をして羽黒が太一から離れた。 「さっき、お前自身が言ったのよ。接触を許されていないと」  羽黒は答えない。強面の巨体が、宙を睨んで微動だにしない。  ただ腕を掴んだだけで何をそんなに慌てて……、否、怯えているのか。大の男が目に見えて青ざめ、明らかに恐怖心を抱いている。  小雀響子と思われる女性は太一に手を貸して立たせると、寝かせていた部屋に戻ろうと促した。 「待ちなさい。彼は離れへ」 「貴方が腕を掴んで連行しようとした時、太一は怯えたわ。例の養い親に外の物置へ閉じ込められる記憶を、呼び起こしたのでしょう」 「……っ」 「お前、それをどう説明する気? あの子が最も忌み嫌うのは、この子が過去を思い出し恐怖することよ。それを、腹心のお前が無下にするというの? お前は、知っているはず。それがどう意味であるのか。あれの異常なまでの執着心と独占欲に触れた(・・・)、人間の末路を」  羽黒の表情が更に強張る。そんな彼へ、凛とした声が静かに告げた。 「――日紫鬼の鬼は地獄を知らぬ。鬼の前に屍ナシ」  大きく。それこそどうしたのかと疑問に思うくらいに大きく、羽黒の肩が揺れた。足が引く。羽黒がここにいない男へどれほど恐怖心を抱いているのが、その動きに凝縮されているような気がした。    すらりと聞けば、なんとなく鬼は優しそうなイメージだ。地獄にいるはずの鬼であるのに、地獄を知らない上に死体すらないのだから。悪いことではないのではないか。  しかし羽黒の蒼白した顔といい、おそらく太一の考えるような受け取り方ではないのだろう。 「戻りましょう。きっと熱が上がったわ。早くお布団に入らないと」    多少羽黒のことは気になったが、悪寒に続いて頭痛までしてきたので素直に部屋へ戻った。敷いてもらっていた布団へ入り、ホッと息をつく。目を開けているのも億劫ですぐに視界を閉じた。  寒いと言った太一のために、薄手の夏用の布団の上にもう一枚布団がかけられる。薬箱の開く音。ひやりとした冷たい感触が額に触れて、冷却ジェルシートが貼り付けられたのだと分かる。手足はとても冷たいのに頭だけが火照っていて、その冷気がとても気持ち良かった。  眠気が迫る。  うっつら、うっつら、体が休息を求めて入眠しようとする。  それを阻む者はなく。それを拒む理由もなく。太一は、安らかな寝顔を晒して意識を完全に手放した。
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!