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 輔はとても体の弱い子供だった。  生まれた時も二千グラムなく、保育器に入っていたそうだ。  季節の変わり目には決まって体調を拗らせ、下手をすれば入院。そんな幼少期だったという。 「輔が、ですか……?」 「今じゃ考えられへんやろ? でも、ほんまなんよ」  苦笑する輔の母親は、静かに視線を落として呟いた。あの頃は平和だったと。    輔の父親はドイツ人と日本人のハーフで、元々向こうで生活していた。留学先で輔の母親と出会い、恋をして輔が生まれた。結婚当初はドイツで生活しており、日本へ戻るつもりは更々なかったという。  転機は輔の母親の、兄の事故死。 「私と輔は、ドイツから強制的に日本に戻されてね。……あの人とは、別れ別れになった」 逆らうことはできなかったという。夫に何をするか分からない日紫鬼の家。夫を守るため、まだ三歳になったばかりの輔はを抱えて彼女は一人日本へ戻った。 「私はこの家に振り回されることに慣れていたから、半分諦めもあった。でも、輔はドイツに帰りたがってねぇ……。あの子はほんまに父親が大好きやったから。あの人も必死に私たちを取り戻そうとしてくれた。そこで先々代は、輔がこの家を継ぐまでの繋ぎとして当主になるのなら、一緒に暮らすことを許したんよ」  それが間違いだったと、赤い唇が苦々しく零す。  きつく眉根を寄せ小さく握った拳が、小さく震えていた。当時の苦悩がそこか読み取れるようで、胸が痛む。  輔はあの女と呼んで嫌っているようだったが、彼女からは息子へ対する確かな愛情が見て取れた。それは、どれだけ太一が望んでも手に入らなかったものだ。  彼女は寂しそうに語った。夫と一緒に暮らすようになって、彼が日に日に変わってしまったことを。どうにかこの日紫鬼家に馴染もうとした輔の父親だったが、やはり独特の世界だ。義父との折り合いも悪く、三年が経った頃から体調を崩すようになった。そうすると軟弱だと更に罵られ、益々自信を失っていく。その一方で、日紫鬼の血を色濃く受け継いだのが息子の輔だった。  優しいが気の弱い父親とは正反対の、闊達で物おじせず頭の回転も速い息子。やることなすこと全てが上手くいき、欠点といった欠点が見当たらない。   「いつからか、あの人は輔を避けるようになってね。……それどころか、自分にないものを持つ輔を憎むようなことを言い出した。あの子には、大好きな父親に嫌われる理由が分からんかったから、必死に父親に好かれようとしたんよ。でも、そうすればするほどあの人は輔を遠ざけ……、あんな事件が起きてしまった」  輔が小学四年生になった年の冬。  輔は父親に海に誘われた。物心ついて初めて受けた、父からの誘い。いつも自分を遠ざけている父親からの申し出に、輔は心底嬉しそうについて行った。  そこで待っていた、冬の海よりも冷たい現実。 「え……」 「嘘みたいな話やろ。……でも、事実なんよ。あの人が、輔を殺そうとしたんは」  凍てつくような海の中へ引きずり込まれ、首を絞められた輔。もがく輔に、父親が嬉しそうに笑っていたそうだ。  輔を助けたのは、たまたま散歩をしていた若い夫婦だった。  すぐに警察と救急車が呼ばれどうにか輔は一命をとりとめたが、父親の方は持っていたナイフで自らの胸を貫いて自害した。 「どれだけ一緒に行けば良かったと後悔したか。いいきっかけになると思うて、二人きりにしたんが間違いやった。……ほんまに、なんで気付かへんかったんやろ」  一番近くにいて、その危うさには気付いていたはずなのに。可能性に希望を抱いて、見て見ぬ振りをしてしまった。  そう言って嘆く輔の母親に、太一は何も言えなかった。何か気の利いた言葉でもかけてあげられれば良かっただろうに、何も出てこない。何も。    父親に殺されかけた輔。  父親に殺してももらえなかった太一。    ともに生き残ってしまったからの、地獄。 「それから輔は変わってしまった。……笑わへんようになった。何より、何に対しても興味を抱かなくなった。諦めたような目をして、まるで人に関わることを怖がっているようにも見えた」  視線が、つい、と太一に向けられる。  太一はそれを真っ直ぐに受け止め、小さく息を詰めた。 「せやのに、いきなり輔の人生にアンタが登場してきた。雑巾みたいな子がいたと、そう言って笑った」 「ぞ、雑巾……」  否定ができないところが悲しいが、確かに当時の太一はそんな感じだった。  それにしたって、酷い言いようだ。あとで抗議しておこう。 「笑ったんよ」 「……? え、と……よっぽど、みすぼらしかったんでしょうね」 「キラキラした目ぇして、嬉しそうに。何年かぶりに、あの子が笑ったんよ」  数年ぶりに見た息子の笑顔。  どれだけ嬉しかったかと、彼女は微笑む。 「アンタの笑顔が可愛いと言ってね。何がそんなに気に入ったのかは知らんけど、あの子が笑顔になる要素は確保しとこう思うて。あの子が勝手に動いてるんは知っとったし、好都合や思うてこっちでも人動かしてたんよ」  でなければあれほどとんとん拍子に事は運ばなかったと、彼女は赤い唇を歪ませた。  自分の知らないところで、色んな人が結果的に自分を助けてくれていた事実に困惑する。    母親にも父親にも必要とされなかった太一であったが、輔が欲してくれたことで大きく人生が好転した。輔が見出してくれなかったら、この年まで生きていたかすら怪しい。生きていたとしても、こんな風に大学生活は送れていなかったはずだ。 「太一、ゆうたね。あの子のこと、好きか?」  力のこもった、瞳。母親の、目。  膝の上で握った両拳。太一はそれにもう一度力を込めて、はにかんだ。 「はい、大好きです」  ハッキリと告げる。これだけは嘘をつけない。まさか想いが繋がるなんて思わなかったけれど、惹かれて惹かれてどうしようもなかった相手だ。心から愛おしいと思う。  すると輔の母親は、初めて目にするような朗らかな笑顔で頷いた。 「ありがとう」  輔が何故彼女のことを嫌っているのかは分からない。きっと、彼にも色んな事情があるのだろう。それでも、こんな風に息子のことを気にかけ思っている母親の想いは紛れもなく本物だ。  羨ましい。  羨ましくてたまらない。 (いいなぁ……)  いいなぁ。  自分には得ることができなかったものだけに、輔が羨ましくて仕方がない。  生きていて話ができるのなら、少しでも歩み寄ることはできないか。綺麗事なのかもしれないけれど、太一にしてみればもはや二度と繋ぐことのできない親子の縁だ。関係をの修復を願わずにいられない。  勝手に溢れてきた涙を拭い、鼻を鳴らす。  すみません、と短く謝って顔を上げると、ドタドタと廊下を駈けてくる足音が遠くから聞えてきた。 「姉さん!! ウチの子に何してるのッ? 太一は病人なのよ!」  怒りを隠そうともせず、響子が部屋へ入ってくる。すぐに太一にブランケットをかけ、その体を抱き寄せた。ふわりと香る響子の匂いに、太一はほんのわずかに目を瞠った。胸が熱くなる。抱き締められる優しい感触に、グッと喉が窄んだ。 「相変わらず、うるさいねぇ」 「うるさくもなるわよ! まったく、姉さんはいっつもそう。私に断りもなく」 「太一」 「は、はい?」 「アンタの母さん、ほんまうるさいなぁ」 「姉さんが勝手に連れて行くからでしょうっ? どれだけ心配したと思ってるのっ? さ、太一部屋に戻りましょう。熱が上がっちゃうわ」  響子は太一を立ち上がらせると、部屋の外へ促す。  太一は輔の母親へ丁寧に一礼し、響子とともにその場をあとにした。 (……お母さん)  支えてくれる背中の手は、とても温かかった。  
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