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 せっかく下がりかけていた熱をまた上げてしまって、響子から散々お小言をいただいた太一は大人しく布団の中に納まっていた。  夕食を作って運んでくれた響子に礼を言って輔は戻ったかと尋ねたが、まだだと言う。スマートフォンを手にとってみたが、連絡先を知らなかった。ジッと待ち続けて、既に午前零時半。流石に帰宅が遅い。何故ここのところ屋敷に戻らないのか。何かあったのではないかと心配でならない。  こほ、と小さく咳をして寝返りをうつと自然にため息が零れる。  輔が自分のことで動いているのは、知っていた。響子は心配しなくていいと言ってくれたが、果たしてそうだろうか。  輔は一体何をする気だろう。今更過去をどうこうして欲しいなんて太一は考えていない。ただ平穏な未来があればいい。多くは望まないから、せめてできうる限りの時間を輔を過ごしたい。  それでは、駄目なのか。  太一は別に誰かを不幸にしたいとは思ってない。例えそれが、暮林家の人間であってもだ。  今思えばとんでもない虐待を受けていたと分かる。当時はそれが当たり前過ぎて、疑問にすら思わなかった。人殺しの息子なのだから仕方がないのだと、いい聞かせられた通りに信じていた。  暮林家から離れて少しずつそうではないことが分かり、太一は世間というものを知った。普通の家庭とは縁遠かったが、高校三年間で友人らの家庭環境を知る頃になると、彼への羨望が強くなった。と同時に、人殺しの息子のレッテルは自分の予想以上に深く太一の中に刻まれていることを痛感した。  人とは違う。時折、ふとした拍子にそれを感じ取る。人の顔色ばかりを伺って、必死に普通であろうとしている滑稽な自分。違うことを、誰にも知られたくない。その一心。知られれば、皆きっと自分から離れてしまう。  幼少期に味わった孤独はとても深く、冷たく、太一の胸に突き刺さっていた。  怖いのだ。  暮林家の人間が。彼らが。  憎しみや復讐心より、そちらが勝つ。    太一の中にある、別に不幸になって欲しい訳ではないという感情は、単純な恐怖心からきているだけ。  怖い。できればもう二度と逢いたくない。  同じ大学に息子の順太郎が通っている事実が、途方もなく恐ろしい。  あの時は輔が助けてくれたが、この先はそうもいかないだろう。大学内で築き上げた友人簡潔は、おそらく崩壊する。もしかすると高校の友人らも、自分から距離を置くかもしれない。  不安が胸を締め付ける。  呼吸が浅い。息苦しい。 「独りは……、嫌だ」  嗚咽の滲む、か細い声。    こんな自分でも人の役に立ちたくて、臨床工学の勉強を始めた。認めてもらいたかった。ここにいていいのだと、安心感が欲しかった。  太一はそれを、人の役に立つことで得ようとした。それしか方法が分からなかったのだ。どうやったら他人に認めてもらえるのか、否定ばかりされ続けてきた太一にはとても難しい問題だった。  ある時、高校の友人が部活の練習中に大怪我をした。たまたま近くにいた太一が本で読んだ知識を生かして腕を止血し、どうにか大事にならずに済んだ。運が良かった。  それを知った彼の両親は、大粒の涙を流しながら太一に礼を繰り返した。何度も。何度も。ありがとう、ありがとう、と。  太一は、友人の両親を静かに見つめながら一つ学んだ。  世の中には、生きているだけで喜んでもらえる人間がいる。だったら、その人間を助ければ自分も存在していいのではないか。彼らを救える自分は、役に立つのだから。  歪な期待と興奮を持って、太一はその日以来思いを新たに強め勉強に励んだ。  だけど、本当は自分でも分かっていた。  心から望んでいるのは、そんなことではないことくらい。 (……言って、欲しかったんだ。誰かに)  役に立たなくていい。  ただ生きて、傍にいてくれるだけでいいと。 (そう誰かに、言ってた欲しかった……)  瞑った瞼から流れる、涙。  熱のせいか、不安定になっているようだ。 「……たす、く……」  どうして帰って来ない?  どうして、何も言ってくれない? 話さない?    枕を濡らす涙が、大きな染みを作る。  再び襲ってきた睡魔に、不安な心が食い破られる心地がした。  暮林家の人間が、輔に何かしたらどうしようと。そんな恐怖心が、太一を苦しめる。輔なら大丈夫だと思うのに、彼の存在が大切過ぎて不安が拭えない。  自分なら耐えられる。  今までだって耐えてきた。  だから何もしないでいい。  怖い。  怖い。  怖い。  暮林家のあの三人が、怖い。  輔に何かあったなら、きっと自分は父親と同じように罪を犯すだろう。  輔がしようとしていることへの不安と、帰って来ない恐怖に苛まれながら、太一はまたあの夢に引きずり込まれる。  死ね、と。ただそれだけを繰り返される悪夢へ。  ◆ ◆ ◆ 「……ち、太一」  呼ぶ声がして、ハッと意識を浮上させた。  真っ暗な空間。未だ鳴れない高い天井。 「太一、大丈夫?」 「……」 「太一?」  忙しなく息を繰り返しながら、ぼんやり見上げた先。ずっと待っていた人物がそこにいて、力が抜ける。帰って来てくれた。無事だった。 「うなされてたね。怖い夢を見たの?」 「……た、すく」  熱に汗ばむ太一であったが、それ以上に様子がおかしいことに気付いたのか輔が顔色を変える。すぐに太一の体を起こして腕に抱き、どうしたのかと尋ねてきた。けれど今の太一に答える気力はない。代わりに深い安堵を零し、体の力を抜くだけだ。  輔はそんな太一を横たえると自らも隣に横になり、布団の中の太一に優しく微笑んだ。その笑顔に、胸が締め付けられる。どうしても失いたくない。彼だけは譲れない。 「お願いだ輔……、あの人たちには何もしないで……」 「なんのこと?」 「知ってる。何かしようとしてるよね? だけどあの人たちは、本当に何をするか分からない。……もし、もし輔に何かあったら」  輔のシャツを掴み、震える手に力を込める。    吐き気のするような毎日。それが当たり前で、マヒしていた異常な日常。  苦しいことが苦しいと分からずに。  痛いことが痛いのだと知らずに。    何もかもを仕方がないことだと諦めて、ただ息をしていた。 「僕なんかの為に、何かする必要なんてないから」 「……」 「だから輔、お願いだよ。あの人たちに、二度と関わらないで」  必死だった。どうにかして彼を暮林家の人間から引き離したかった。  記憶の中にある三人の顔。今でも鮮明に覚えている。怒鳴り声も。頬を張られた時の痛みも。腹を蹴られた際の息苦しさも。  泣けばまた叱られるから、泣くことなど到底できない。当然、口答えなども許されない。血だらけの口を一生懸命に閉じて、彼らの怒りがおさまるまで目を瞑るだけ。  熱からとは違う、冷たい脂汗が滲む。歯を食いしばって過去に耐える太一の白い体は、小さく震えていた。  経験してきた悲惨な過去が、そう簡単に拭えるわけがない。何度も痛感してきた。太一の心は、未だに暮林家の支配下にあるのだと。 「……僕なんかの為、か」  ポツリ、呟かれた台詞。それを上手く聞き取ることができずに、顔を上げる。 「輔……?」  綺麗な笑顔だ。とても綺麗な、だけど冷たい笑顔。それに違和感を覚えて目を凝らすと、まるで顔を隠すかのようにして輔が太一を抱き寄せた。 「大丈夫。大丈夫だよ。……もう(・・)、何もしないから」  低く震える輔の喉奥。顔を上げたくとも腕の中。まるであやすように背を撫でられて、太一はひとまず輔が何もしないと言ってくれたことを信じることにした。  輔から何かしら仕掛けなければ、暮林家の三人な彼を害する理由がない。 「愛してる、太一。本当に……明日が、楽しみだ」  
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