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Nのノートより
僕は僕のことが何も分からないと言うと、川野さんが「これまでのことや思っていることを書いてみたらどうかな」とノートをくれました。文章はいつも読むばかりで書くということは学校の作文以外になかったので、果たしてちゃんとした文章が書けるかは分かりません。ですが、書いてみようと思います。他にしたいこともないのです。
どこまで振り返ったらいいでしょうか。これまでの二十年足らずを思い返すと、何だか何歳のときの記憶もぼんやりしていて特筆すべきことが見当たりません。その中で咲田さん(仮名・事件当時二十九歳)のことだけがひどく鮮明で、それ以外はまるで半分寝ながら見た映画のように、ぼんやりしているのです。
そうなるとやっぱり咲田さんのことを書くのが一番な気がします。では咲田さんのことをどこから語ろうかと思うと、僕と彼の出会いは図書館ですから、僕が図書館に通い詰めるようになった経緯から書き記すのがいいでしょう。それはつまり、僕の生涯のほぼ全てです。
僕はおおよそ愛というものを知らずに生きてきた気がします。なぜなら僕はほとんどひとりで育ったからです。暗く、狭く、湿っぽく、汚い部屋で、僕はいつもひとりでした。母親という人が時折やってきては食べるものを置いていきました。きっとそのとき彼女はお金も置いていったのでしょうが、僕はその頃まだ、お金で食べ物が手に入るということを知りませんでした。それほどに幼かったのです。
いつしか僕は市の中央図書館によく足を運ぶようになっていました。多分はじめは見知らぬ子どもについていったのだと思います。図書館は誰でも入ってよく、夏は涼しく、冬は暖かく、そして自分以外の人がいました。僕は図書館の読み聞かせで言葉を覚えました。ひらがなが読めるようになると、図書館の開いている時間はほとんど絵本や図鑑を読んで過ごしました。
自分の名前が本原 奈央人(仮名)であるということを初めて知ったのは、小学校の入学式でした。入学式には珍しく小奇麗な格好をした母親も出席していたように思います。いえ、その日以外は学校に母親がやって来た記憶がない、と言ったほうが正しいでしょう。
僕は学校というものに迎合するのにとても難儀しました。幼稚園にも保育園にも通っておらず本とだけ向かい合っていた僕は、学校のシステムが分からなかったのです。四十五分間座っていなければならないということが分からなかった。先生というものの言うことを聞かなければならないということが分からなかった。休み時間、ドッヂボールをしようと誘われましたが、ドッヂボールのしかたが分からなかった。みんなが当然のように歌っている童謡が分からなかった。奈央人くんは何色が好き、と聞かれたときは困りました。僕は基本の原色十二色はおろか、例えば青ならば群青と藍色と紺色の違いも理解していました。だけれど、自分の好きな色、というものが全く思い浮かばなかったのです。このときはじめて、周囲の子どもと自分との間に何かひどく大きな乖離があることを悟りました。
すぐに教室は僕の居場所ではなくなりました。僕の居場所は学校の図書室でした。休み時間だろうが放課後だろうが授業中だろうが息苦しさを覚えると図書室へ行って、司書の先生や担任の先生を困らせました。と言っても彼らが「困ったなあ」と言うので「困っているのだなあ」と思うだけで、何がそんなに彼らを困らせていたのかは分かりませんでした。二年生になって辞書が引けるようになると読書の幅は一気に広がり、四年生になる頃には、学校の図書室で読めない本はなくなりました。
僕は本からたくさんのことを学びました。自分の住んでいる千葉県のこと。日本の歴史。外国の知らない言葉や食べ物。神様やサンタさんの存在。何よりも僕の興味を引いたのは科学の本です。科学は良い。とてもさっぱりとしています。原因があり、結果がある。等式で結ばれた美しい秩序があり、異論を差し挟む余地のない定理がある。僕は小学校を卒業する頃には、物質の状態変化について、化学変化について、それから人体が有するおおよその臓器についてなどの知識を得ていました。
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