第一五話 参考文献をいただいちゃってもイイですか?

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第一五話 参考文献をいただいちゃってもイイですか?

 南雲教授は、下吹越エリカが何気なく出した二つの研究キーワード、「スモールワールド」と「オークション」を組み合わせて、エリカの卒業論文のテーマを考え始めていた。  下吹越エリカは応接テーブルの斜向いに座り、考え事をしている南雲教授を、新鮮な気持ちで眺めていた。大学の教授が、自分の卒業研究のテーマを新しく一つ、カスタムメイドしようとしている。それは、エリカの人生において、そう何度も見る光景では無いだろう。 「研究テーマって、テーマ一つにつき、一つの分野とか、一つのトピックを選ばないといけないわけじゃないんですか?」  ふと、下吹越エリカは素朴な疑問を口にする。いくつかのキーワードを挙げたものの、エリカはどこかで、自分はその内の一つを選ばないといけないのだと思っていた。その質問に、南雲仙太郎は顔を上げると「良い質問だね」と応じた。 「んー。まぁ、正直、色々なんだけどね。そのトピック自体が先端的なテーマだったりすると、そのトピック一つに絞って、それを深掘りすることが多いけど、それはそれで難しいんだ。そのアプローチって、これまでの研究に関して十分に広くて、精緻な知識が無いと内容を詰め切れないことも多くて、実際には逆に難しくなるんだよなぁ」 「へー」 「ネットワーク科学は十年以上前に一度、結構、大きなブームがあって、正直なところストレートな研究はやり尽くされた感じがあるんだよね。そういう意味で手垢がついちゃっているっていうか……」  そう言うと、南雲教授は両手を机の上について立ち上がった。立ち上がると、応接テーブルの横を通り、下吹越エリカの背後に並ぶ本棚の前にスクッと立った。南雲は、右手の人差し指を立てて本棚に並ぶ書籍の背表紙をなぞるように横に動かし、良さそうな本を物色する。 「たとえばね……。これこれ、これが面白いよ」  そういって南雲教授が取り出したのは空色の装丁に雲のような模様が描かれた本だった。タイトルは「新ネットワーク思考 ~世界のしくみを読み解く~」、著者はアルバート・ラズロ・バラバシ。  とりあえずラノベでは無かった。下吹越エリカも本気で疑ってはいなかったが、ここでエロラノベが出てきたら、一体全体どうしようかと、心の奥底ではちょっとばかり不安だった。  南雲教授は「新ネットワーク思考」をテーブルの上に、下吹越エリカの左前辺りに置くと、教授のデスクにもたれ掛かり両手を後につき、軽く机の端に座るようにした。 「まずはそれを読んでみるといいよ。まぁ、入門的には講談社ブルーバックスから出てる増田先生の本もいいけど、バラバシから入るのが定番だと思う」 「ありがとうございます」  下吹越エリカはお礼を言うと、言われるがままに、その空色の本を両手で持ち上げた。ハードカバーのその本はかなり読み込まれたようで、また、ページの間にはいくつもの付箋が貼られていた。先生の付箋だろうが、きっと、先輩の中にも何人かこの本を読んだ人がいるのだろう。そっとページをめくる。 「あぁ、そうそうテーマ作りの話が途中だったよね。……えっと、そういうわけで一つのトピックを掘り下げるっていうのは、手垢の付いた分野、つまり、僕が講義で話せているような、ある程度シッカリしたトピックの多くだと、難しいわけだ。……そこで、やるのが『掛け算』なんだ」 「……掛け算?」 「そう、掛け算。例えば、今回の例だと、ネットワーク科学とオークション理論、……えっと、オークション理論だと狭すぎるから、メカニズムデザインとでもしておこうか、それらを掛け算するんだ。その両方のエッセンスを持つような現象を見つけて、その両方の視点から議論するっていうのかな? そうすると、なんとも新しい感じになることが多い」  下吹越エリカは書籍から目を上げ、左横に立つ南雲教授に視線を移す。教授の背後の大きな窓からは西日が差し込んでいる。 「……掛け算って難しくないですか?」 「んー。まぁ、簡単ではないけど、卒業研究でも何か新しいコトをやりたいって思っているなら効果的なアプローチだと思うよ。あと、実際には勉強することが増えるから、卒業研究を通して出来るだけ知識を得ることが出来るっていう意味でもお勧めかな。やっぱり、卒業論文は論文とはいえ、学部の教育の集大成だから。そこで『どれだけ学べるか?』が重要だしね」  そういうと、更に本棚を物色し二冊の本を取り出した。一冊は白い薄めの本で「オークション理論の基礎―ゲーム理論と情報科学の先端領域」と言う本で著者は横尾真、もう一冊は「コミュニティのグループ・ダイナミックス」という本で著者は杉万俊夫だった。 「こっちがオークション理論で、多分、日本語で一番読み易いんじゃないかな? こっちは、最後に君が言っていたコミュニティの話。でも、随分と毛色が違うから、今回の卒論に関係するかどうかは未知数だな」  それぞれの本を机の上に並べて、それぞれを指差しながら南雲教授は添える。  その横顔を下吹越エリカは眺める。背後から西日で少しシルエットっぽくなってはいるが、並べた書籍に関して語る南雲教授の顔は真剣で、それでいて、その瞳は、学問に対する無邪気な喜びを称える純粋な光を宿していた。 「まずは、この辺りから読んでみたらどうかな? 具体的な研究対象を何にするかは、それからちょっとずつ議論して、決めていけばいいよ。……まぁ、あと、一ヶ月くらいで決められたらなんとかなるんじゃないかな?」  下吹越エリカはコクリと頷いた。合わせるように、南雲教授もコクリと頷いた。 「……そうそう。下吹越さん、数学とかプログラミングって得意だったっけ?」 「え? あの……。あんまり……」 「んー、そっか。ネットワーク科学もオークション理論も両方とも数学とか計算の要素があるからねぇ。卒論がそういう方向性になる可能性もあるから、一応確認まで。まぁ、そういう方向に行かない組み立て方もあるから、どうしても難しそうなら、また教えて頂戴。もっと詳細な議論は追々だね」  そういうと、南雲教授は下吹越エリカの斜向かいの椅子へと戻り、再び腰を下ろした。 (凄いなぁ……)  と、単純に下吹越エリカは思ってしまう。  卒業論文のテーマの候補に対して、いろいろ背景知識や、腹案を持っているというだけじゃない。そのテーマ設定が学生にもたらす教育効果についてもちゃんと考えて、しかも、学生の興味にあわせて研究テーマをカスタムメイドするのだ。教授なのだから当たり前なのかもしれないが、やっぱり凄いなぁと思う。  これは下吹越エリカの身内贔屓(みうちびいき)かもしれないが、教授だから当たり前なのではなく、やはりこれは南雲教授だからこそなのだとも思う。気鋭のイケメン社会システム研究者の南雲仙太郎教授は、大学の対外的なアピールに貢献するから大学にとって魅力的な先生であるだけではなく、学部の中の学生達にとっても魅力的な先生なのだ。  たった十五分にも満たない会話の中でも、南雲教授の聡明さ、人柄の良さが分かる。そして、だからこそ、下吹越エリカの心の奥にこの十五分ほどの間、潜ませていた疑問が、再び頭を擡げてくるのだ。 (本当に、大人で、教授としてもバッチリな先生なのに、……どうして、……どうして) 「……どうして、先生はエロラノベなんて書いてるんですか?」  考えていたことが思わず、唇の間からこぼれ落ちた。下吹越エリカ自身も「あっ」と口を開き、しまったとばかりに左手の平で、おっちょこちょいの自分の口許を押さえる。 「……え?」  斜向かいの席で南雲教授が顔を上げる。下吹越エリカと視線がぶつかった。  南雲教授の目は鳩が豆鉄砲を食ったように、点になっていた。そう、みんなが使う「え?」という驚いたり、呆れたりした時に使う顔文字が持っている目のような、そんな形の点の目だ。   「あー……、ええとぉ」  自分から言い出してしまったものの、下吹越エリカは、少し気まずくなって、部屋の奥の窓の方へと視線を逸らした。日は傾き、昼の太陽は、夕日へと姿を変えている。窓ガラスからは西日が差し込み、陽の光は総合C棟2階の南雲仙太郎教授室を紅く染め上げた。  まるで、これからの惨劇を予感させるかのように……。 【参考文献】 ◯アルバート・ラズロ・バラバシ,(青木薫 訳), 新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く, NHK出版, 2002. ◯増田直紀, 今野紀雄, 「複雑ネットワーク」とは何か 複雑な関係を読み解く新しいアプローチ, 講談社, 2006. ◯横尾真, オークション理論の基礎―ゲーム理論と情報科学の先端領域, 東京電機大学出版局, 2006. ◯杉万俊夫, コミュニティのグループ・ダイナミックス, 京都大学学術出版会, 2006
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