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第八話 カフェでお茶してイイですか?
夏休みも終わり、その日は後期の授業が始まる初日だった。
上叡大学の正門から坂を下りたところにある大通り沿いのカフェ。二人組の女子大学生がテーブルを挟み、夏休み明けの久しぶりのお喋りに興じていた。そのカフェは全面ガラス張りで、内側にはテーブルと椅子が並んでいる。
上叡大学・東山キャンパスは小高い丘の上にある。キャンパスの周りはこの街でも比較的古い町並みで、少し歩いた先の大通り沿いには、新しい店も、古い店もあった。大学の正門からそのカフェまでは、徒歩で坂を下って十分ほどの距離である。
「それで、エリカ、卒論のテーマ決まったの〜?」
美しい黒髪を背中辺りまで伸ばした女性が、下吹越エリカに話しかけている。
黒いVネックのニットからは首元から胸のあたりまでの肌が露出している。首回りに掛けられた金のネックレスもアクセントになり、きっと男性ならば、ついつい、その胸元に目をやってしまうだろう。
柊ケイコは下吹越エリカと同じ学部の同級生だ。女性の下吹越エリカが言うのもなんだが、色っぽい同級生だ。一年生の時から、いくつかの小集団科目で同じグループになり、二人は仲良くなった。柊ケイコも、下吹越エリカと同じ大学四年生だが、どことなく下吹越エリカには無い「大人の色香」のようなものがあった。
ケイコ自身もそういう事に対して自覚的なのだと下吹越エリカは思っている。そういう色香を見事に利用する柊ケイコの狡猾さは、ある意味で立派だなといつも思ってもいた。
「んー、まだかなぁ」
下吹越エリカは赤いストローで、よく冷えたアイスコーヒーを吸い込む。
「そうなの〜? でも、なんか、夏休みの終わり辺りで、南雲先生に相談に行くとか言ってなかった?」
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!」
むせた。
「大丈夫?」
心配そうに見る柊ケイコに、下吹越エリカは「大丈夫、大丈夫」と、右手を上げる。
どうも、あの日以来、南雲教授のことを考えると、心が落ち着かなくなる。自分自身にはやましいことは何もなく、先生にやましいことがあるだけなのに。まるで自分自身がやましい変な秘密を抱えてしまったような感覚だ。何だか理不尽だ。
「大丈夫、大丈夫! 気にしないで」
「……もしかして、エリカ、ちゃんと相談に行けなかったの?」
「ん? ……んー。そんなことないよ? ちゃんと、相談には行けたよ」
そう。ちゃんと、相談には行った。アポイントメントもとって、教授室にまではちゃんと行ったのだ。相談には行ったのに、目的は果たせなかったのだが。
「そう? だったらいいんだけど」
柊ケイコは小首を傾げる。何とも言えず、下吹越エリカはアイスコーヒーをもう一口啜った。
「でも、いいよねー、南雲ゼミ〜。先生格好良くってさー。イケメン教授だよねー。羨ましい」
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!」
また、むせた。
「大丈夫? エリカ? 体調悪いの?」
柊ケイコは真面目に心配そうな顔で、表情を覗き込んでくれた。
「——大丈夫、大丈夫っ! ほんと! 全然大丈夫だからっ! ……ちょっと、何か喉に引っかかっちゃって。うん! そう、引っかかって!」
「ホント? ならいいけど……。何か調子が悪かったりしたら言ってよね」
柊ケイコは、ちょっと納得いかなそうな、それでいて、心配そうな顔をして、自分のマグカップを胸元へと引き寄せた。柊ケイコはホットのアプリコットティーを自らの形の良い唇へと運ぶ。
(格好良いっ? あの先生が、格好良いっ!? 『やぁめぇれぇ〜』なのよっ! 『そうなのかにゃ?』なのよっ! ……みんな、騙されてるっ!)
確かに三週間前までは、自分も、南雲仙太郎教授のことは若くてイケメンな教授だと思っていた気がする。しかし、それはもはや、遠い過去の記憶だ。まるで、前世の記憶のような、遙か昔の話だった。
あの日見た原稿は、異世界への扉だったのか。今、下吹越エリカが住んでいる世界は、南雲仙太郎に関して言えば、三週間前とはまるで別世界だった。ここでは南雲仙太郎が格好良いなんてあり得ない。イケメンだなんて、もしあったとしても、それは、外見がそうというだけのまやかしなのだ。
イケメンなんて称号は先生には全く当てはまらず、敢えて与えるならば、きっとキモオタという称号こそが相応しい。うん、きっとそう。
「イケメンかなぁ−? 南雲教授って……」
「えー、イケメンじゃーん。いっつも、クールな感じだしさ。結構、声も良くって、背も高いし、他の教授よりずっと若いし」
「……そっか。そうだよねー」
「南雲ゼミ、女子多いでしょ? 絶対、南雲先生狙いあるって〜」
「ん〜。そうかな〜?」
「そうだよ、そうだよ−! だって、そうでもなかったら、あのテーマで、あそこまで人気出なよ〜。『社会システム』だよ『社会システム』! 卒論で数学やらなきゃいけないとか、人によったらなんかプログラミングもするとか言ってるし。理工学部じゃないのにさー。微分も積分も、『何それ美味しいの?』だよっ、マジで〜」
いかにもド文系らしい、数学アレルギーを吐露する、柊ケイコであった。
「はぁ〜。私なんて藤村ゼミだよー。テンション上がんないわ〜」
気怠そうな溜息が、瑞々しい色合いの口紅が塗られた柊ケイコの唇の間から漏れる。
藤村学教授は文化人類学をテーマとするゼミの先生だ。卒論を書くこと自体は簡単だと言われているが、あんまり人気がない。テーマの意味で、ゼミの人気が無いのも確かだが、単純に学問的な意味だけで人気が無いわけではなかった。藤村先生自身が、軽く中年太りで、中肉中背、頭の天辺は見事に禿げ散らかしていて、また、話し方もしばしば嫌みったらしく、女性から見ると少し敬遠したいタイプの教授だ、というのが人気の無い理由だった。
授業もブツブツ言っているだけで、正直わかりにくかったのをエリカも覚えている。
「じゃあ、ケイコも、南雲ゼミを選択すればよかったのに」
「無理よー、私の成績じゃ。……知ってるでしょ−。私なんて卒業するのがやっと、人気のゼミに第一希望通り行くなんて、そんなギャンブルする気になんないわよー」
「あ〜」
下吹越エリカや柊ケイコの所属する総合人間科学部では、ゼミの配属を成績順で決める。第一希望から第五希望まで出すのだが、その席は第一希望から順に成績順に埋まっていく。あぶれた人は、第二希望以降で、まだ席が空いているゼミへと割り当てられていくのだ。それゆえに、もし第一希望がかなわなければ、一気に第五希望や、場合によっては、それ以外のゼミに飛ばされてしまうこともあった。
「まぁ、藤村ゼミは、卒論落ちるってことはまず無いって話だからねー」
「……らしいわね」
エリカも聞いたことがある。去年の藤村ゼミの卒論の中には、「女子大学生の生活実態」とか銘打って、たった十人程度のアンケートを女子大生に行い、それを単純統計しただけで卒論にしたという猛者もいたという。新しい仮説も、統計的検定も、何も無しだ。そういう意味で、藤村ゼミは卒業請負所として、地味な人気を有していた。絶対卒業できる安牌としての研究室だ。
「暗黒の二階堂ゼミなんって行ったら、最悪でしょ?」
「……あー。大変らしいわね」
「うん。 佐保子なんて、ゼミ配属決まったとき、夜、泣いてたわよ〜」
「……え? ホント?」
「うん、本当、本当〜。だって、あそこヤバいでしょ。総合人間科学部きっての暗黒研究室。去年なんて十人中三人しか卒業出来なかったらしいわよ」
「らしいね……」
二階堂先生は悪い先生ではないのだが、めちゃくちゃ真面目らしい。いつからか、暗黒研究室のレッテルが貼られるようになって学生達が敬遠するようになった。そうすると集まる学生が、成績の悪い学生ばかりになる。また、そもそも二階堂先生のテーマに興味の無い生徒ばかりになる。結果的に、単位が足りなくて卒業できない生徒の割合が増える。また、みんなが卒論をやらなくなり卒論も書けず、卒業できない割合も増える。そして、その「あそこのゼミは卒業できない」噂が広まり、また、暗黒研究室としての地位が確立されていくという、完全な悪循環に嵌まっていた。
(二階堂先生は悪い先生じゃないんだけどなぁ〜)
正直なところ、下吹越エリカにとって、二階堂研究室は第三希望くらいのゼミだった。テーマ的には面白そうだし、先生も本当はいい人。でも、やっぱり、南雲ゼミのテーマが一番気になったのと、あと、全くやる気のないゼミ生達に囲まれて卒業研究をするのは気が進まなかったのだ。
「だから、私は、南雲ゼミを第一志望にするなんてリスキーなことは出来ないのっ! 私の人生がかかっちゃってるんだから」
柊ケイコは右の人差し指で自分の髪の毛をクルクルと巻いた。ケイコのちょっとした癖だ。
「留年だけは、避けたいもんねー」
「そうよ〜。涙ぐましい努力で得た、就職の内定もあるしねー」
柊ケイコは某大手の広告代理店に内定が決まっていた。最近、ブラック企業だとか言って新聞を賑わしている企業ではあるが、その人気や、ブランド感は未だに健在である。
「でも、ホント。成績さえ良かったら、私だって南雲ゼミにしてたわよ」
「……え? 本気で?」
「本気よ、本気。私、南雲先生のこと結構好きだし。チャンスがあるなら、本気で狙っちゃってもいいかな〜、って思ってた時もあるわよ」
「本気でって……?」
「だから、本気よ」
「……えっと。それは、『お付き合い』ってこと……? ……彼氏ってこと?」
おそるおそるエリカが聞くと、ケイコはあっけらかんとした顔で「うん」と首を縦に振った。エリカは目が点になった。
(だって、それ不倫じゃん?)
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