第一九話 前から揉んでイイですか?

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第一九話 前から揉んでイイですか?

「女のおっぱい、前から揉むか、後から揉むか?」  南雲教授によって掲げられた問いは、そんな二項対立だった。  下吹越エリカは頭が痛くなってくる。  しかし、そんな下吹越エリカの苦悩を軽やかにスルーして、南雲仙太郎は持論の開陳を続けていく。   「女性の胸を揉もうとするとき、もし前から揉んだとしよう」  そう言って、南雲教授は両手を前に出し全ての指を少し曲げて、胸を揉むときのような形を作り、二、三度指を閉じたり広げたりした。これまた、教授室内にアウト感が立ちこめる。いや、完全にアウトだ。  下吹越エリカは、セクハラどうこうについては、本日限りに関しては、もう完全に諦めることにした。セクハラに関する訴えの請求権を放棄してでも本日はやるべきことがある。教授せんせいとエロラノベに関して共通理解を持つことが先決だ。それを踏まえた上で、自身の今後の健全な卒業研究を進めるためにも。  そんな、下吹越エリカの心配を余所に、南雲教授は続ける。 「そうするとこう……、なんだ、実際にやってみるとわかりやすいんだが……、下吹越くんに被験者になってもらう訳にもいかないし……」 (ひっ……被験者とは?)  なんだかおぞましいものを感じて、下吹越エリカは自分の胸部を両腕で庇った。 「ちがうちがう、さすがにそんなことする訳ないじゃないか」  と、さすがの南雲仙太郎も、それには両手を振って容疑を否定する。  それをやったら、もう、完全にアウトである。危険な吊橋から谷底に真っ逆さまなのは明らかである。 「とにかく、前から揉もうとすると、こう、向き合った形になるだろう? それはきわめて不自然だ。それに、主人公ハヤトの魔法力マナは体の接触面からしか伝送されない。それらを考えると、より表面積の広い接触面をとれる背後からの抱擁が合理的だし、描写として自然なんだ」  めげずに南雲教授は、最後まで説明をしきった。納得するかしないかは脇におけば、理屈は分かった。  何度もセクハラ容疑の危険域レッドゾーンに達しつつ、最後まで説明したいこと説明し切る強さは、さすが教授、さすがは気鋭の研究者といったところかもしれない。よくわからないが。 ********  時計の針はすでに五時半を疾うに過ぎ、短針は六時に迫ろうとしていた。窓の外も少しずつ暗くなってきている。教授室の窓から見える西の山間に赤い太陽が沈もうとしているところだった。  当初の約束だったアポイントメントの三十分はとっくの昔に終わっていた。しかし、上叡大学東山キャンパス総合C棟2階の南雲仙太郎教授室には、まだ年の離れた男女二人組が居た。  教授室入り口の扉脇にあるシンクの前に教授は立っている。南雲仙太郎は自分のマグカップからアールグレイのティーバッグを引き上げると、シンクの三角コーナーのネットへと落とした。 「そもそも、どうして先生はエロラノベを書くことになったんですか?」  壁一面の本棚に体重を預けながら、下吹越エリカは四人掛けのテーブルの横に立っていた。さっき南雲教授に入れてもらったミルクティーに口を付ける。よく考えたら三十分以上前にも、同じような質問をした気がするが、まだ納得いく回答はもらえている気がしていない。 「あの……、下吹越くん。さっきから言っているように、あれはエロラノベではないんだけど……」 「認めません」 「はい……すみません」  なんだか、さっきからすっかり立場が逆転している。一時間ほど前にこの部屋に入ってきたときには、卒業研究のテーマを相談しに来た立場の下吹越エリカが怖ず怖ずとしていたのに、今は、セクハラ疑惑を人質にとった下吹越エリカの立場の方が上であるかの如くである。  下吹越エリカはまだ表面の熱いマグカップを口許に引き寄せながら、恐縮する南雲仙太郎教授に、悪戯っぽい微笑みを乗せた視線を送った。  本当に良く分からない先生である。  とても、研究指導するときに見せる爽やかで毅然とした態度と、エロラノベ作家のモードに入った時の無軌道な発言は、同じ大人の男性のものとは思えなかった。  一方で、下吹越エリカは、その二つの人格の間にも共有された南雲仙太郎らしさ、のようなものも、微かにではあるが感じ取り始めていた。また、その底にあるものを、よりよく理解したいと、どこかで思い始めていた。 「私も、先生のゼミ生ですから、やっぱり、指導してくれている先生がエロラノベ作家だというのは、ちょっと不安になっちゃって……。先生の事情とか、先生の考え方とかが理解できたら、ちょっとは落ち着けるかなって思って」  なんだか、無理矢理の理由な気もするが、これはこれで、下吹越エリカの偽らざる気持ちでもあった。  卒業研究の指導を受けていても、指導教員としての南雲仙太郎教授の背後に、エロラノベ作家、未恋川みれんがわ騎士ないとの姿がちらつくのだ。それがどうしても気になってしまう。  それは、その教授としての南雲仙太郎と、エロラノベ作家としての未恋川騎士を、二つの別の人格だと思ってしまっているせいではないかと、下吹越エリカは思い始めていた。もし、南雲仙太郎先生が未恋川騎士であることを、その理由も含めて納得できたら、それら二つのイメージは一体化され、心穏やかに卒業研究の指導を受けられるのではないだろうかと考えるのだ。  下吹越エリカの思いを聞いて、観念したかのように、南雲教授は、「ふぅ」と溜息をついた。 「なるほどな。まぁ、一理あるかもしれない」  マグカップを右手に持ち、南雲仙太郎は教授のデスクの黒いオフィスチェアへと腰掛けた。そのオフィスチェアは少し高級そうで、四人掛けのテーブルの椅子とは異なり、背の高い背もたれが少しリクライニングする。 「確かに、僕自身のプライベートでの作家活動が、指導学生に不安を与えてしまったとすれば、それは僕の本意じゃあない。……それに、君たちの教育を担う大学教員としても申し訳ないことだと思う」  デスクにマグカップを置くと、両肘を教授デスクの天板に付き、手を組むと、本棚横に立つ下吹越エリカを、南雲仙太郎は真剣な表情で見つめた。 「とはいえ、どこから話したものかなぁ……」 「……どこからでも」  下吹越エリカの声に、南雲仙太郎は微かに微笑むと、オフィスチェアに体重を預けた。そして、昔の記憶に思いを馳せるように、天井を見上げた。  後方一杯にまで倒れた背もたれから、キィという金具の軋む音がする。 「じゃあ、僕の高校生時代の話からしてもいいかな……?」 (そこまで遡るんですかっ……!?)  四十二歳の南雲仙太郎の高校生時代なら二十五年近く昔である。下吹越エリカは内心「どうしたものか?」と腕を組んだが、まぁ、これも成り行きとして、南雲仙太郎の昔話に付き合うことにした。  今日はちょっと帰りが遅くなるかもしれない。
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