第二九話 キモオタということでイイですか?

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第二九話 キモオタということでイイですか?

 上叡大学東山キャンパスの正門からの坂を下った先には大通りが走る。  その大通り沿いのカフェで、今日も(ひいらぎ)ケイコと下吹越(しもひごし)エリカはお茶をしていた。後期も始まり一ヶ月が過ぎている。話題はお互いの所属するゼミの様子や、卒業研究の状況について、また、柊ケイコの男性事情などについても広がっていた。 「あ、そういえばさ。エリカのゼミに鴨井くんって居るじゃん?」  健康と美容に良いらしいからと、カモミールティーを注文していた柊ケイコは、「熱い熱い」と言いながらもガラス製のティーカップを口に運ぶ。 「あ、うん」  対して、下吹越エリカの手元にあるのはイングリッシュブレックファーストのミルクティーだ。右手の人差し指を取っ手に通し、左手をカップに添えている。 「鴨井くんって、もう完全に典型的な『キモオタ』だよね~。ゼミでも浮いてるんじゃない?」  相変わらず柊ケイコは遠慮がない。 「う~ん。そこまでは言わないけど、ちょっと何考えているのか分からないかなぁ」  下吹越エリカは否定しないまでも、ケイコの指摘を苦笑いでやんわりと受け止めた。 「でしょー。あのさっ。ここだけの話なんだけどさ。この前、鴨井くんを駅前のブックセンターで見かけたのよ」  駅前のブックセンターとはこの街で一番大きな書店である。下吹越エリカはあまり行かないが、コミックから専門書までかなり広い範囲の本が取り揃えられている。 「それでね。彼が本棚の前で立ち読みしてたから、何読んでんのかなー、って覗き込んだら、なんか、もう、アレ、……何? 萌えっていうの? エロっていうの? オタクっぽい本読んでるわけよ~」  そういって、柊ケイコは眉をひそめる。 「あ……、そうそう。前の彼氏の読んでたエロラノベの話したじゃん? あんな感じ。何あれ~って感じでさ。なんかニヤニヤしながら読んでるのよ。マジ気持ち悪いんだけど」  柊ケイコの物言いに苦笑しながらも、下吹越エリカは、鴨井くんがラノベを立ち読みしている様子を想像する。その様子は容易に想像できた。 「私の元カレの話はさぁ、ま、自宅の部屋での話なわけ。でも、それを堂々と駅前のブックセンターで立ち読みするかなーってね。ほんとああいう人種って世間体とか、他人の目とか気にならないのかなぁ?」 「ん〜……、どうなんだろうね」  下吹越エリカは、先日、鴨井ヨシヒトが急に話しかけてきた時のことを思い出していた。鴨井は下吹越エリカが不用意に落とした文庫本が「聖☆妹伝説」だと目聡く気づくと、熱い眼差しと息巻いた口調で話しかけてきた。  正直、急に迫ってこられてちょっと怖かった。  ブックカバーの掛かった本を落として、そのページをパラパラと捲っただけなのに、書籍の名前まで言い当ててきたのも、ちょっと怖かった。  多分、挿し絵が見えたのだとは思うが、それにしても、それだけで書名がパッと出てくるなんて、どれだけ読み込んでいるんだ、という話である。  「私もこの前、急に鴨井くんに話しかけられて、ちょっとビックリしたかなぁ」  下吹越エリカが呟くと、柊ケイコは「え? なになに?」と身を乗り出してきた。 「ゼミの終わりにね。ちょっと本を落としたら、なんだか鴨井君が読んでた本らしくて、急に『その本、良い本だよね?』って」  暖かいカップを両手で抱えながら話すエリカに、ケイコは「へぇ〜」と意外そうに呟く。  下吹越エリカは、ゼミの後の鴨井くんのことを思い出していた。  エリカはケイコのように、鴨井ヨシヒトのことを「キモオタ」の四文字で斬って捨てたりはしないが、彼がちょっと変わった男子であることは確かだ。ゼミの同級生の男子四人の中でも一人少し浮いているイメージがある。  四人中二人はゼミ配属前から友人だったらしくて、いつも一緒だ。もう一人は、その二人組とゼミ配属後すぐに仲良くなったようで、ゼミ室にいる間は少なくとも仲良くやっている。しかし、どうもその三人と鴨井くんの間には距離感があるようで、鴨井くんはいつも一人でノートパソコンをカタカタと叩いているイメージがある。  無口なのかなと思う。でも、その割には、ゼミの議論の時間中には、突然、鋭い尖った意見を出すときがあるのだ。  ちなみに、そこで出る意見の多くが、確かに彼がよく勉強していて、それなりに深い洞察に基づいた良い意見ではあることは確かだ。しかし、あまりに他の学生の議論の流れから離れていたり、文脈を断ち切ったりする場合が多いので、ゼミ全体の議論に貢献するという意味では「どうだろう?」と思うこともあった。 「なんか、人の読んでる本に関して、いちいちズケズケと踏み込んでくるっていうのも、やっぱ、なんかキモいよね~。ああいうタイプってなんでデリカシーに欠けるんだろう」  柊ケイコはガラスのポットの蓋を押さえながら、カモミールティーを自分のカップに足す。それにしても、ケイコによる鴨井くんの扱いようは残酷なまでである。  言葉が息に乗り、唇の間から漏れ出る度に、カマイタチのように鴨井くんの存在を斬りつけている気がする。 「ん-、まぁ、人の読んでる本が、自分も読んでた本だって気付いた時って、なんだか、特有の親近感みたいなのあるじゃない? そういうの、だったんじゃないかなぁ?」  なんで私が鴨井くんのフォローしてるんだろう? と、自分でも違和感を覚えながらも、下吹越エリカはイングリッシュブレックファーストをもう一口、唇へと運んだ。 「んー、そっかぁ。まー、それは分かるな-。私も『君の肝臓を食べたい』を、エリカも読んでたって知った時、なんか嬉しかったし」 「……ケイコ。それ、膵臓ね。『君の膵臓を食べたい』だから」 「あっそっかー!」  しまったしまった、と柊ケイコは笑った後に「なんか、わかんないけど、まぁ、内臓ね」と添える。下吹越エリカは苦笑いを浮かべた。  「君の膵臓を食べたい」は住野よる作の青春小説だ。映画化もされて大ヒットした。エリカは小説を先に読んでいたが、ケイコは(多分、当時の彼氏と)映画を先に見てから、会場で小説を買ったのだという。 「で、その鴨井とエリカが偶然読んでた本ってなんだったの?」  柊ケイコはガラスのティーカップをソーサーの上に置くと、ごく自然に、普通の質問として尋ねてきた。 「え……、あ……、あ……」  その質問に、下吹越エリカは見事に固まった。  とても本当のことなんて言えない。その本が未恋川(みれんがわ)騎士(ないと)の「聖☆妹伝説(セイント・シスター・レジェンド) アポカリプス」第一巻だったなんて……。  そんなことを言ったら、何故そんな本を読んでいるのか間違いなく聞かれるし、そうしたら、嘘をつくか、南雲先生のことを話さないといけなくなってしまう。それに、そもそも、こんな本を読んでいるなんて、ケイコに知られるのは恥ずかしいのだ。 「ん?」  突然フリーズした下吹越エリカを、柊ケイコは、どうしたのだろうと小首を傾げながら待っていた。彼女の艶のある髪の毛が薄手のセータの襟元に掛かった。  それは「エロラノベ同盟」締結後、初めて生じたエリカの危機だった。
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