第七話 彼女を殺してイイですか?

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第七話 彼女を殺してイイですか?

 上叡大学東山キャンパスの総合C棟2階の教授室の窓から、マグカップに入れたコーヒーを片手に南雲仙太郎は夕焼けを眺めていた。 「……まずったな」  南雲仙太郎のデスクの上には、先ほどようやく著者校正を終えた「聖☆妹伝説(セイント・シスター・レジェンド) アポカリプス」第三巻の原稿が無雑作に置かれていた。最終ページが開かれて、大きく赤ペンで「OK!(エピローグの差し替えを除く)」と手書きされていた。  夕日が街を赤く染めていく。この部屋からのお気に入りの眺めだ。5階建ての総合C棟では、上階の方がもちろん見晴らしは良いし、屋上からの景色はもっと良い。でも、2階のこの部屋からの眺めだって、捨てたもんじゃあない。  南雲仙太郎はそう思う。  夕焼けを見ながら、南雲仙太郎は三時間ほど前にこの部屋を出て行った女子学生のことを考えていた。  ――下吹越エリカ  今年の四月から南雲仙太郎自身が主催するゼミ、通称「南雲ゼミ」に所属している学部四年生だ。毎年、十名ほどのゼミ生が南雲ゼミには加わる。社会システム研究を主たるテーマとする南雲ゼミは、全体的には文系の色彩の強い総合人間科学部において、文理融合、学際融合の気風の強いゼミであった。南雲仙太郎自身が、理工学系の学部、および大学院でシステム科学を学んだ後に、この総合人間科学部で教鞭をとるようになったことからも、ゼミの方向性が窺える。  文系の学部では、しばしば「あそこのゼミは数学を使うことがあるらしい」「あそこのゼミは卒論でプログラミングを使うことがあるらしい」などという噂が広まるだけで、ゼミの人気が低下するなどということがある。それでも、南雲仙太郎教授自身のカリスマ的人気も手伝って、南雲ゼミは総合人間科学部で少なくとも三本の指に入る人気ゼミとなっていた。  そんな南雲ゼミの今年のゼミ生の中でも、下吹越エリカはそれなりに目立った存在だった。今年のゼミ生は男子四名と女子六名と女子の方が少し多かったが、下吹越エリカは女子のなかでも比較的真面目な方だ。いつも、提出物は期限内に出すし、ゼミの後でも、質問があればすぐに聞いてきた。  鹿児島出身だと言っていた気がするが、目鼻立ちのくっきりした端正な顔立ちで、ともすれば「気取っている」とか、同性からも敬遠される可能性もあったかもしれない。それでも、物腰は大変軟らかで、周りへの気遣いも出来るようで、女性六人の仲介的役割を果たしているようだった。まぁ、担当教員としては、毎年ゼミに一人は居てくれると助かるタイプである。  四月からゼミへの配属はあるものの、大体の四年生は、前期の内は真面目に卒業研究に取り組まないので、南雲も力で流し気味に指導してきた。あまり熱意をもって前期から教育指導に力を入れても、逆に学生達に煙たがられるだけなのだ。  南雲仙太郎は十年ほど前に准教授になって、ゼミを持つようになってからの経験で、適切な「手の抜き加減」を覚えていた。結局のところ、学生への過剰な教育干渉は、結局、学生も教員も幸せにしないと思われる。  ある意味で、諦観にも似た感覚だが、これは、現実主義的(リアリスティック)実用主義的(プラグマティック)な妥協なのだと、南雲仙太郎は理解していた。結局、このような現実に基づいた妥協が、システムを寧ろ良い作動へと導くのである。  そういうこともあって、まだ、後期が始まる前の夏の終わりの時期に、下吹越エリカから「卒業論文のテーマについて相談したい」という旨のメールが来た時には驚いた。上叡大学の学部学生は、「卒業研究なんて言われたことをイヤイヤやる」学生がほとんどである。しかし、たまにこういう学生が居るのだ。自ら卒業研究を通して何事かを成そうとしている。自らのテーマとして卒業研究に取り組もうとしている。  もちろん嫌いじゃない。  もちろん一研究者として、一教員として、そんな相談はウェルカムだ。だから夏休み期間ではあったが、アポイントメントを了解したのだ。  しかし、まずった。  ――まさか、あの原稿を見られることになるとは……  「聖☆妹伝説 アポカリプス」の第三巻。  ラノベ作家として初めての連続刊行シリーズの第三巻だ。  三年前に、DT文庫主催の小説大賞で審査員特別賞を受賞した「アルファ・ノクターン」は、一年間の間に改稿に改稿を重ね、二年前に発売になった。なんとか、初版一万部を売り切るも、それ以上には売上が伸びることもなく、大失敗でもないが、大成功とも言えない、編集部、作家ともに微妙な笑いに終始してしまう売上結果となった。  ――未恋川先生。もうちょっと、ちょっとだけ、えっちぃ要素とか入れません?  担当女性編集者の誘惑にも似た示唆が、今から思えば、神からの啓示だった。「えっちぃ要素」というのは、南雲にとっては論文でも、学術書でも書いたことの無い未知の要素だった。しかし、積極的に、勤勉に学び、未恋川騎士こと南雲仙太郎は「えっちぃ要素」を取り入れることに成功したのである。  新たにスタートした新シリーズ「聖☆妹伝説 アポカリプス」は瞬く間に新しいファン層を味方につけ、堂々としたDT文庫の看板の一つに成長していた。一巻と二巻で累計十万部にもうすぐ到達する勢いだ。  しかし、その女性編集者に「悪魔に魂を売った」とまで形容された、未恋川騎士の「えっちぃ要素」を取り込んだ大変身(メタモルフォーゼ)は、もう一つ大きな問題を、南雲仙太郎に運んでくることになった。  ――これは大学バレできない……  いくら、浮き世離れした研究者だからといっても、その程度の常識は持ち合わせている。出版された「聖☆妹伝説 アポカリプス」の第一巻を改めて読んだ時に、そう思った。(「出版する前に気づけよ」というツッコみはここではとりあえず脇に置くことにしよう。)    南雲仙太郎にとって幸運だったのは、DT文庫主催の小説大賞投稿時から、ペンネームを用いていた事だった。そして、大学の同僚にも家族にも、自分自身が「未恋川騎士」だということは話していない。どちらかといえば、ただ単に「話す機会が無かっただけ」というのが実際のところだったが、「聖☆妹伝説 アポカリプス」が出版されてからは、ますます話しにくくなった。  いや、むしろ、これは最早、隠し通さなければならない「秘密」にまで進化したと言えるだろう。  家族やご近所においては、子供が心配だ。心が広く、亭主に絶大な信頼を寄せてくれている妻は笑って許してくれるだろう。しかし、子供にはよくない。また、ご近所や子供の友人が知った際に、イジメのネタにさえ発展しうるかもしれない。これは、避けなければならない。  大学では同僚に関しては大丈夫だろう。学生に関しても大した影響はなく、むしろ、「規格外の教授」「自分たちの好きなラノベの作家もしてる教授」などということで好感度の面ではプラスの影響があるかもしれない。実際のところ、白い目で見られるマイナスと、好奇の目でみられるプラスとでプラマイゼロあたりに落ち着くだろう。大学の場合、問題は保護者とマスコミだ。保護者は過剰に、教員に「聖職者」然とした人格を求める。あと、マスコミ、週刊誌といったところは、言葉を一人歩きさせるところがある。これらに引っかかると、大学がややこしい形で問題化してくる可能性もゼロではない。 (そうすると、なんだ? 僕自身の学術研究活動に支障が生まれる可能性も否定できないじゃないか……?)  そして、「聖☆妹伝説 アポカリプス」第二巻が出る頃には、南雲仙太郎は心に誓ったのだった。南雲仙太郎が未恋川騎士であることは、この命にかえても秘密にしつづけなければならない。この秘密は、南雲と担当編集の間だけの秘密なのだと。  ――学生バレと大学バレだけは避けなければならない。ついでに、家族バレもできるだけ避けたい。  これは、南雲仙太郎の人生と、彼のこれから成すだろう数多くの研究業績を懸けた戦いだった。  しかし、その誓いがほんの三時間ほど前、突然崩れ去ったのだ。  未恋川騎士にして、初めての学生バレ。  女子学生の名は、下吹越エリカ。南雲ゼミの中でも、聡明で美しく、快活な女子学生。  南雲仙太郎は、窓ガラスの向こう側の夕日を見つめながら、呟いた。 「下吹越エリカ……。彼女を殺さないといけない……」  そう独り言ちると、教授はコーヒーの入ったマグカップを口許に運んだ。少し冷えたが、暖かさの残るミルクコーヒーを二口ほど飲み込む。  窓際に立つ南雲仙太郎の背後では、最終ページが開かれていた校正原稿の束が、クリップにより生まれる張力と、原稿の自重で、パサリと閉じた。  校正原稿は綺麗に綴じられた原稿の束となり、その表紙が上になった。表紙に示された「聖☆妹伝説 アポカリプス (3)」のタイトルを窓から差し込む夕日が照らし、赤く染め上げた。  マグカップを口許から話すと、ふぅ、っと息を漏らして、南雲仙太郎はもう一言だけ、独り言を足した。 「……なんちゃって」 
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