その香り

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その香り

 それから和泉は朔耶を頼りにしてくれるようになった。  朔耶がオフィスを訪ねると、和泉は受け持ちの個々の事例を出して、意見を問うようになっていた。その問いかけに見合う情報と回答を持って、朔耶も和泉を訪ねる。  最初は戸惑いながらも始めたMRの仕事であったが、思った以上に楽しくなってきた。  本社の学術部の上司の青木は、半年ほどで呼び戻してやると言っていたが、このまま東京中央営業所にいてもいいかなと思えるくらいに、朔耶はMRという仕事にやりがいと楽しさを見い出し始めていた。 「来週の学会は札幌だろ。君は行くのか?」  そう和泉に問われたのは、五月の半ば。日課のように和泉のオフィスを訪ねるようになって二ヶ月半が経とうとしていた。この時期に毎年、アルファ・オメガ医学会の総会が開催される。毎年、各地の大学の教授が発起人となるが、今年は北海道の医大がその順番にあたる。札幌のホテルと会議場で開催されることになっている。  アルファ・オメガ専門医にとっては当然だが、メルト製薬の社員にも大きなイベントだ。とくにMRは、担当する医師をフォローするために集結するのだ。  本社の学術に在籍していた頃から、朔耶もこの学会に手伝いとして参加している。今回は和泉を接待するために札幌入りを予定している。 「あ、はい。もちろんです。先生に講演をお願いしているのですから」  和泉には長田を通して本社から、医療関係者向けのメルト製薬主催セミナーの講師を依頼していた。  和泉は朔耶に対して表情を崩した。 「長田所長にお願いされてはわたしも断れないしな」 「長田は、先生と長いお付き合いをさせていただいているのでしょうか」 「同じ年だし」  それは意外な情報、と朔耶はとっさに思う。 「彼は、やっぱり巧いよね」  和泉はそう唸る。 「大学を卒業して研修医として入った病院に長田所長も出入りしていたんだ。こっちは研修医だし、MRさんに見向きもされないし、最初は全く接点がなかったんだけど、その頃、指導医の先生のお供で一緒に飲みにいって、意気投合してしまってね。彼は優秀だったから、その後すぐに東京に異動になったけど、それからも学会や研究会で会うと、いろいろと話す仲になってしまって。それで極めつけが、ここでの関係だ。僕が母校に戻ってきたら、もう彼はすでにここにガッツリ食い込んでいたんだ。出会いは研修医時代からになるから、どこのメーカーさんよりも長田さんとは長いよね」  その言葉の節々で、和泉が長田を信頼しているのが読み取れる。  なぜ、長田は自分が担当することなく、朔耶に任せることにしたのだろうか。  結果として、うまくいっているが、初対面で和泉が言ったことは真実だ。まったくの素人にどうして大口の得意先を任せることにしたのか。そのあたりの詳細を聞いたことはなかった。 「……そういえば、新堂くんは、長田さんの強い要望でMRに配属になったそうだね」 「あ、はい。そうです。営業職は僕には無理だと言ったのですが」 「なんで? メルトさんは最初はみなMRでしょ」  朔耶は戸惑った。なんと言えばいいか。  そういえば、自分はベータであると、はっきり和泉に言ってしまっていたことを思い出す。 「そうなんですが……僕は身体が弱くて……、免除してもらったのです」  本当はオメガだからだ。オメガとしての不安定な体調はさほどではないにしても、基本的に体力が違うし、万が一発情期が来たら一週間は仕事にならない。多忙なMRが一週間使い者にならないというのは、ほぼ無能の烙印を押されるに等しい。 「ふうん。とくにそんな風には感じないけど、うちに来るのに無理をしていたりする?」  和泉の問いかけに朔耶は自分の回答が誤解を招くものであると気がついた。 「いえ! そんなことは! 和泉先生には本当に良くしていただいています」 「ならいいが。こっちも医者だし、毎日顔色を見ていれば分かるけどね」  やはり和泉は鋭いのかもしれない。  さりげないひと言にどきりとする。  もしかして、この人には自分がオメガであることがバレているのかもしれないと時々思うことがある。  こんなふうに受け入れてくれるのであれば、この人には自分の本当の性別がオメガであると告白してもいいのではないかとさえ思えてくるが、すぐにそれはまずいか、と思い直す。  いくら和泉を信頼できるからといって、それはあくまでドクターとMRという関係の上のことだ。いつ、この関係が終わってもおかしくないのだから。  そう考えて、なぜか、胸がわずかにもやっとしたものが残る。  それを消すように話題の転換を図った。 「先生は本当にこちらで宿泊場所などを押さえなくても大丈夫でしょうか」  学会開催中、MRは担当医のさまざまなことに対して面倒まで見る。往復の航空代や宿泊費などは、講演をお願いしている以上、必要経費だ。しかし、和泉はそれについて無用としていた。 「大丈夫だ。こちらにも用意があるし、いい大人なのだから、そこまでやってもらわなくても自分でできるよ」 「でも……」 「最新の情報にアップデートできるんだ。いろいろと一人で講演を回ってみたいと思っている」  ドクターの中には遊び半分の気分で行く者も居て、出張先の遊びの世話までせさせられるMRも多いと聞いてる。しかし、朔耶が見ている限り、和泉にはそのような仕草は見られない。航空券はこちらで用意したものの、宿泊先などはすでに手配済みと言われ、世話をさせてもらえなかった。  長田にお前は何やっているんだ、と叱られたばかりである。 「ただ、独りメシは寂しいから、そこは付き合ってくれよ」  逆に気遣うような和泉の言葉に朔耶はひたすら恐縮するばかりだった。  「第十五回アルファ・オメガ医学会総会」は五月の下旬の金曜日、札幌のホテルで三日間の日程で幕を開けた。朔耶たち、メルト製薬のMRは昨日現地入りしており、準備に追われている。和泉は今日の午後のフライトで到着する予定だ。予定する講演が今夜のイブニングセミナーのためだ。  第十五回というところにこの学会の歴史の浅さを感じる。そもそも、アルファとオメガをベータと区分けして医学的に考えようという視点自体がまだ新しいのだ。アルファ・ベータ領域は、そもそもアルファにはこの国の中枢にいるような大物や有力者が多いことから、投資や寄付を募るのは苦労しない。研究資金は潤沢だからこそ、急速に進歩した研究領域なのだ。  朔耶は千歳空港で到着した和泉と合流し、会社が借り受けたレンタカーで市内まで案内する。朔耶は和泉に後部座席を勧めたのだが、勝手に助手席に収まってしまっている。助手席に先生を乗せたなんて言ったら、長田に叱られると朔耶は悲鳴を上げたが、和泉は「体調が万全ではない君に車の運転をさせるほうが酷いだろ」と、合流してわずかなのに、朔耶の体調が万全ではないことに気がついてしまっていた。  本当に医者って鋭い、としか言いようがない。  実は札幌出張の前に、朔耶は不調を感じ、本社の医務室で雪屋の診察を受けていた。  ここ最近、急に抑制剤の効果が薄れているのを実感しており、服用薬を変えたいと思っていた。  これまでほぼ完璧に抑えられていた自分の匂いを、ふとしたときに感じるのだ。  結果としてはその原因は分からず、抑制剤の種類を変えてみようということになった。 「新堂くんが担当しているドクターはベータでしょ。もし発情期に突入しても、当てられることはないからそこは安心して。でも、会場内にはアルファのドクターもいると思うし、何より出張先で寝込むことになってしまうかもと思うと少し心配だね。……そうだな。いつものエムのほかに、作用機序の違う抑制剤も処方しておくから、自分で調整してみて。あと、この件は僕から長田所長にも報告しておくよ。出張先で無理は禁物だよ。やばいと思ったら僕に連絡でもいいし、近くの病院に行ってね」  そうアドバイスを受けていた。  なぜここにきて、なぜ抑制剤でコントロールができなくなってきているのか、朔耶にも分からない。雪屋によると、徐々に効果が薄れてくることはあっても、急に効かなくなるというケースは稀なのだそうだ。 「これまでちゃんとコントロール出来ていたのにね。年齢かねえ」  雪屋は、首を傾げていた。  出張二日目の今朝は、併用しても問題はない抑制剤二種類を一緒に服用した。完全に抑えられているかというとそうではないが、それでも飲まないという選択肢はない。  念のためと、予備もスーツにも忍ばせている。なにかあったらこれを飲めばよいというのは安心だ。  和泉を宿泊先のホテルに送り、夕方に再び迎えにくると伝えて、朔耶は和泉と別れた。  今夜のセミナーの資料のパッキングがまだ終わっておらず、和泉をホテルに送ったらすぐに戻ってこいと言われているのだ。ランチを一緒にと和泉に誘われたが、そのような理由で断ざるを得なかった。資料のパッキングなんて、こんなにぎりぎりになってやっている仕事ではないと思うのだが、印刷が上がったのが昨夜というのだから、呆れる。  長田の厳命で戻らねばならないと和泉に言うと、今夜はすすきのに付き合えよ、と初めてそんな言葉を掛けられた。  和泉に依頼した講演は、アルファ・オメガ科に受診する患者に対する、コ・メメディカル関係者に期待されるメンタルケアといった趣旨の話だった。  非常にプライベートでデリケートな部分を含む診療領域であるため、患者もいつも以上にセンシティブになっている。診療時、検査時のちょっとした配慮や、入院時の気遣いなどが患者の安心感を引き上げるといった講演だ。  まだ国内でも多くはないアルファ・オメガ領域でトップを走る病院のエース医師が講演をしてくるとあって、会場内で最大の収容人数を誇る会議室に敷き詰めた、夕食の弁当付きの講聴席はすぐに埋まってしまった。  午後七時。講演が始まった。  和泉から預かったパワーポイントのスライドを、本社学術の後輩の鈴村が切り替えていく。朔耶は隣でそれを眺めていた。  鈴村は今日札幌に到着した。二十代の男性にしては小柄で、無邪気なところがあり、朔耶は弟のような存在に思っている。  久しぶりであったため、鈴村には「先輩! もうこれまでも線が細かったのに、もっと痩せたんじゃないですか!」と心配されながらも、再会を喜び合った。  だから、今日、彼が和泉のセミナーの担当だと知って、ゆっくり話せると、楽しみにしていた。 「あの先生ですね、幾度となく新堂先輩に徹夜をさせたのは」  講義を聞きつつ、パワーポイントを操作して、鈴村は呟いた。  和泉は百人以上の参加者の前でも堂々と講義を進めていた。理知的で張りのある声が、静かな会場内に響き渡る。 「僕も必死だっただけだよ」 「論文の件は先輩に手伝って貰えて、僕も助かりましたけど。まあきっと優秀なドクターなんでしょうね」  その言葉に朔耶もうなずいた。 「いい先生だと思うよ。患者さんにちゃんと寄り添うし、いつもベストを尽くしている。それをちゃんとサポートしていきたいって僕も思うんだ」 「なんか先輩、ちゃんとMRやってますね」  朔耶の異動を一番悲しがり、そして心配していたのがこの後輩だ。なんか、ここ数ヶ月でひと回り成長できたようで、少し誇らしい気分になった。 「和泉先生に育てていただいたようなものだよ」  会場から大きな拍手が沸いた。講演が終わった。  スライドを映すために落とされていた照明が点けられ、場内が明るくなる。  すると、鈴村が意外なことを言い出した。 「和泉先生って初めて拝見しましたが、まあとんでもないイケメンですね。女性が放っておかなそう」  陽気なその口調が訳もなく引っ掛かった。 「あまり。そういうことはなさそうだよ」  しまった。つい勢いで。  口に出してから、自分はそんなことを言う立場ではなかったと、後悔した。  見ると、やはり鈴村が少し驚いたような顔をしている。  思わず視線を逸らすと、鈴村が何度か頷いた仕草が視界に入った。 「ふうん。アルファじゃないのは残念ですね」  その口調が少し変わっていた。  どういう意味だ。朔耶は首を傾げた。 「なに、それ」 「そのままの意味です。ま、僕的には別にアルファでもベータでも、オメガでも構わないわけですが……」  そういう意味かと改めて思い当たる。鈴村はバイセクシャルなのだ。ベータである彼は、相手が男でも女でも、アルファでもオメガでも構わないらしい。タチでもネコでもいけるそうだ。 「先輩は、アルファだった方がよかったんじゃないかなって…」  いつもとは少し違う、この探るような会話に朔耶は戸惑っている。  自分が恋愛対象として、和泉を見ているということか。  混乱し、思考が追いつかない。  冗談じゃない。 「いい加減にしないと、怒るよ」  そう睨んだが、鈴村はどこかにやにやしている。  冗談じゃない?  本当に? 「僕はああいう人にだったら、抱かれてもいいですけど……」  鈴村の明け透けな言葉に驚く。と同時に、これまで感じたことのない焦燥感が胸を覆い戸惑う。  鈴村が和泉に抱かれる?  脳裏に鈴村を抱き寄せる和泉の姿が過ぎった。  ソレハダメ。  朔耶の、感情とは別の、本能を司る部分が一気に爆発した。  とっさにやばいと思った。  それは、ぶわり、という言葉がぴったりのように、朔耶の身体から、香りが沸き立ったのだ。 「え……?」  自分でも意味が分からなかった。これはフェロモンだ。薬で押さえていたはずの。なんで?  思わず、両腕で自分を抱き寄せた。  何かが来た。  怖い。  初めて、そう思った。  こんな、突然発情期が始まるなんて、初めてだ。  そうだ、と少し鈍り始めた頭が胸元のポケット存在を思い出す。  抑制剤を飲まないと。  今朝はエムを飲んだんだっけ?  じゃあ違うやつを飲んだほうがいいのか。エムを足したほうが良いのか。  いつも自然に考えていることなのに、この非常事態に思考回路が付いていかなくなってきていた。 「先輩?」  鈴村が心配そうに問いかけてくる。鈴村が当惑している。いきなりフェロモンが大放出だ。自分だってついていけない。  出し抜けに大きな拍手が沸いた。  質疑応答も終わったのだ。  和泉が壇上から降りてくる。  本当ならば、自分はそこに駆けつけて、素晴らしい講演だったと、礼を述べなければならない。  少しよろつきながらも立ち上がる。  胸ポケットに手を入れて、ラスティスが包装されている薬剤を取り出す。もうなんでもいい。ぱきっと折って、錠剤を取り出した。  早く飲まないと、どこにアルファがいるか分からない。落ち着かない手さばきで、それを口に含もうとして、突然腕を掴まれた。  驚いて顔を上げると、そこに居たのは、先程壇上を降りたばかりの和泉。 「先生……」 「来てしまったか」  和泉の手が朔耶の手に絡みつき、ラスティスを取り上げられてしまった。朔耶の手が、それを求めて空を搔く。 「それ……ないと困るんです」 「抑制剤だな」  和泉が静かに包装を確認した。しまった。これでは自分がオメガだと言っているようなものだ。思わず手を引っ込めた。  先程から、あたりをウッディで艶めかしい香りが鼻を擽る。なんだろう…。そんなことは頭の端に浮かぶのに、論理的な思考回路はフリーズしたようで、まともな言い訳が思い浮かばない。 「い……いいえ。僕はベータですから」  和泉に手を握られてなお、朔耶は首を横に振った。オメガだとバレたらMRの仕事はもう出来ない。アルファ・オメガ科に出入りするオメガMRなんて笑えないのだ。  そのわずかな問答でも、和泉にはもうお見通しのようだった。どんなに朔耶が言葉を重ねようと、和泉は朔耶がオメガであると見抜いてしまっている。 「君は……オメガだろ」  その最後通告のような言葉を、耳元でそっと呟かれた。なぜかその声さえも、腰にクる。  もうダメだ……。  朔耶は観念した。何に観念したのか、よく分からない。でも諦めの気分だ。  もう営業所は居られない。不本意ながらも始めた仕事なのに、いつの間にかこんなに愛着を持っていたことに驚く。  発情期なんてもはやどうでもよい。  朔耶の目の前に長田も居た。様子がおかしいと鈴村が呼んだようだ。 「和泉先生、申し訳ありません。新堂、大丈夫か、おい」  長田には、和泉が朔耶を介抱しているように見えたのだろう。朔耶の腕を支えている和泉から代わろうとして、朔耶の腕を掴もうしたところ、和泉に弾かれた。 「触るな」  いつも以上に冷たい言葉に、長田の顔色が凍った。 「彼に触れていいのはオレだけだ」 「……え」  長田が手を引っ込める。  和泉が朔耶の身体を自分の胸のなかに収めた。そうかとようやく朔耶は気づく。先程から纏わりつくウッディな香りは、和泉が放つものだったのか。 「う……はぁん」  香りが熱に晒されたように、いっそう沸き立ち朔耶を刺激する。  和泉が耳元で、それでいい、とささやいた気がした。 「長田所長。詳しいことはあとで連絡する。とりあえず、彼は預かるよ」  決して背が低いわけでも小柄なわけでもない。それでも、和泉はもう歩けない朔耶を抱き上げ、会場を後にした。
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