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番という契約
発情期が明け、二人揃って帰京したのは火曜日の夜のことだった。
翌日にすぐ出社するつもりだったのだが、和泉に全力で止められ、彼の自宅で数日過ごし、ようやく出社が叶ったのは三日後の金曜日。
一体どんなことを言われるのだろうと、緊張して出社したものの、東京中央営業所はいつもどおりの朝の風景だった。
「おう、来たか。もう体調は大丈夫か」
勤怠システムの出勤ボタンを押すと、そう声をかけてきたのは上司の長田。
朔耶は長田のデスクの前まで行くと、一礼した。
「はい。ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
「まあ、気にするなよ。そういうこともあるだろ」
そう言いつつも、ざわめくオフィスを眺めて、朔耶を招き寄せる。
「ちょっといいか」
そう言って、連れて来こられたのは無人の会議室だ。向かい合わせで椅子に腰掛ける。
「和泉先生から大方の話は聞いた」
朔耶が発情期でぐずぐずであったときに、和泉がすべての手配を整えてくれていたので、そのときにでも話したのだろう。
「なんで、オメガだということを隠していたんだ?」
突然の質問に、あー…と止まった。
どう答えようか一瞬迷う。そんな躊躇いを鋭く察知されたようで、長田が言葉を重ねた。
「いや、和泉先生からその連絡を頂いたときに、オメガであると隠すように会社で指示したのか、と聞かれてさ」
朔耶は俯くしかなかった。
「…すみません。ちゃんと和泉先生にも説明したのですが……そういうことではなくて…やはり言いにくくて」
長田は長いため息を吐いて、背もたれに体重を掛けて腕を組んだ。
「だよなあ……。そういう社風になっちまってるんだよな」
しかしオメガということを得意先に言わなかったことと、自己管理ができずに得意先のドクターとそのような関係になってしまったことは同一線上で語られるべきことではない。きっと自分は誠心医科大学病院の担当を外されるのだろうと思う。
「あの…僕の後任はいつ来るんでしょうか」
「後任?」
思った以上に長田が訝しげな表情を見せた。
「お前、妊娠でもしたの?」
は?
話が飛びすぎてよく見えない。
「え?」
「いや、違うよな……」
和泉先生がそんな失態を起こすとは思えん……と長田は独りごちる。
なにか話に齟齬がありそうだ。
「あの、僕が言いたいのは……、いつ担当を外されるのかと、そういうことを……」
しかし長田は首をかしげる。
「なんで、お前を外さないといけないのよ?」
逆に問い返されて、朔耶は言葉に詰まった。
「だって……オメガだと」
「隠す必要ないだろ? 社内だって知ってる奴は知っているし、得意先でも和泉先生が知っているんだから問題ないだろ」
「……でも、発情期もありますし」
「そのときは和泉先生だって一緒に休む話になったんだろ。なら問題ないじゃん」
お前なに考えてるの? 今更オメガだからとかいう理由で、外す気なんて俺は全くないよ、と長田が念を押す。
「ただ、オメガっていうのは、やはり言いにくいですし……」
そんな朔耶の煮え切らない言葉に、長田は訝るような表情を見せる。
「あのさ、ほかにそんなことを言うやつがいるの?」
「…異動のときに青木部長に…」
「そこかぁ…」
長田が大げさに思えるほどに、両手で顔を覆いため息をついた。
「青木さんに、俺の意図が正確に伝わってなかったな…」
あの…と朔耶が話しかける。
「あのさ、もしかして青木部長にいずれ学術に戻してやるからとか言われて、ここにきた?」
するどい…。
沈黙したが、長田には伝わったようだ。
「違うんだよなあ、青木さん」
詳細は分からないが、どうも上層部で意識の差異みたいなものがあるようだ。
朔耶が反応に困って無言でいると、長田が朔耶の顔をまっすぐに覗き込む。
「とりあえず、これだけは言っておくぞ。オメガということが得意先にバレたとか、そんなくだらない理由でお前を誠心医科大学の担当から外す気なんて、さらさらない。ついでに言うと、ここでずっとMRとしてやって欲しいと思っているからな」
オメガというのは全く関係ないのか?
言わずともその疑問が伝わったようだ。
「あのさ、うちの会社はもっとオメガのMRを増やすべきだと思っているんだ、俺はね」
新堂にはその先陣を切って欲しいと思っているんだ、と長田は言った。
「うちの会社の製品の主力は抑制剤だ。オメガは当事者だろう。でも、オメガにはこんなハードでストレスフルな仕事は無理だと、思い込んでいる奴らが多い。そんなわけあるかと思うんだよ」
長田の口調は本気だと思えた。本気でオメガのMRを育てようとしている。そして、その白羽の矢が立ったのが自分なのかと……。
ただ、どうしてそんなことを考えるに至ったのだろうか。
素直にそう問うと、長田は長めの脚を組み直す。
「理由? 超個人的なことさ」
好戦的だった口調が少し変わった。
「身内にオメガがいてね。オメガというだけでそいつは昔からいろいろと制限されてきた。それをおかしいと思っているだけだ」
朔耶にはすんなり納得できた。これは長田の信念だと思ったのだ。
「社内で優秀なオメガを探していた。そしたら、学術部で優秀なのがいるという。しかも薬剤師だという。お前がここで頑張ってくれれば、流れが変わると思う。会社も今後オメガのMRを増やしていこう、そういう人材を採用しようと思うに違いない」
朔耶は長田を信じられると思った。
「で、どうする? 俺はここでやって欲しい。でも、学術に戻りたいというのならば、無理強いはしない」
これは超個人的な信念だからな、と長田は言う。
「和泉先生と番うんだろ? それなら、これからのキャリアとプライベートと鑑みて決めろよ。俺としては本気で残ってほしいけど」
こうやってちょいちょい自分の意見を織り込んでくるが、憎めない。
「それなんです。僕は、和泉先生と番うことになると思います。それでも、ここでMRをしても大丈夫なんですか……?」
長田はにやりと笑う。
「馬鹿か? そんな美味しいシチュエーションないだろ。お前が誠心医科大を担当していて、その番が誠心医大ナンバーツーの和泉先生だ。当分うちの会社は安泰だ」
マイナスにはならないらしい。
「ならば、僕もこの仕事を極めていきたいと思います」
「よし決まりだ。でも、本社の医務室の雪屋先生から連絡があったけど、いつも使っていた抑制剤が急に効かなくなったんだって?」
「はい。それで、あんな失態を……」
いまでの先週の金曜の失態と考えると恥ずかしい。
「あまり聞いたことないよな」
「……雪屋先生もそのように仰っていました」
「和泉先生は?」
「和泉先生からはそのあたりは伺っていません。でも先生自身ずっと使っていたヒート抑制剤が突然コントロールが効かなくなっていて……僕をオメガだと認識したと仰っていました」
ふうん、と長田は少し考える。そして、何かを思い立ったようで、ちょっと待っててくれ、とオフィススペースに戻っていった。
そしてしばらくすると、数枚のコピーが入ったファイルを手にしていた。
「あのさ、この資料を、和泉先生に持っていってくれ」
渡されたのは、昨年の日本薬学会総会で配布されていたサマリーのようだった。
朔耶も見る。症例報告のようだ。
「これ……なんですか」
「これは、おそらく運命の番ってやつを科学的に証明した報告書だ」
「は?」
運命の番?
科学的な話にいきなり迷信をぶち込まれたような、違和感しかない。
「お前も読めると思うし、読んでいいぞ。和泉先生なんて、もしかしたら知っているかもしれない。そこにいくつかの症例が出ていてな。これまでコントロールできていたのに、急激に抑制薬が効かなくなり、発情期に突入した例がいつくかある。その患者と番のDNAを検査した結果、HLA型との関係性が示唆された」
HLA型はヒト白血球型抗原といい、簡単にいうと白血球の血液型いわれるものだ。免疫機構として働いており、両親から遺伝的に受け継ぐが、そのパターンは数百万あるとされている。
骨髄移植ではHLAが一致していることが必要だし、臓器移植でもHLA型が適合しているほうが治療成績は良いという。
「男女間であるだろ。この人の匂いが好きとか、ダメとか。それは、このHLA型が関連しているといわれている。有能な子孫を残すために、免疫機構の型がなるべく自分と異なる相手を本能的に探すらしい。アルファとオメガの運命の番もそれと同じような原理らしい」
長田によると、ベータは自分と異なるタイプのHLA型を持つ相手の匂いほどセクシーに感じることなどがあるという。
「おそらくアルファとオメガの繋がりはそれよりも強く共鳴しあうってことなんだろうな。そもそも出会える確率がベータよりも低いから」
なるほど。もしかしたら、和泉と自分はそのHLA型が全く異なるがゆえの運命の番なのかもしれない。だから、互いの香りに惹かれるのか……。
……とまで思ったが、まあどちらでもいいかと朔耶は思った。
「この報告書は数例の話だからな。科学的に証明するには、もっと数を増やして調査する必要があるだろう。でも、HLA型なんて超個人情報に属するようなものだ。難しいだろうな。もともと運命の番なんてものは都市伝説だ迷信だと思われるくらい、ごく稀な話だし、ここまで科学で証明する必要もないだろ。ただ、運命の番云々という話は別として、お前のケースと似てるから、和泉先生には知らせておいたほうがいいと思ってな」
こんな少ない症例報告をよく長田も覚えていたものだと朔耶は思った。
「和泉先生、お世話になっております。メルト製薬です」
いつも彼のオフィスの前で、その白衣姿がやって来るのを廊下で待っていた。
日常的な風景なのだが、今日は約一週間ぶりだ。
「来たか」
和泉がこれまでより柔らかい笑みを浮かべてくれるのに嬉しくなり、朔耶は照れて、俯いた。
「まあとりあえず、仕事の話だな」
そう言って、和泉は自分のオフィスの扉を開け、招き入れてくれた。
「同僚にもバレたよ、アルファだって」
和泉にはベータとして生きていこうという強い意志があった。それなのに、周囲に本当の性別が知られてしまったと、今は苦笑している。
「まあ、あまり変わらないけどな」
そんなものなのかもしれない。
和泉はベータでもアルファでも、この誠心医科大学病院のアルファ・べータ科の医師であることになんの変わりもない。それは朔耶もそうだ。メルト製薬のMRであることに変わりはない。
「それにメルト製薬の可愛いMRに手を出したというのもバレてて、からかわれた」
「可愛い……、ですか」
複雑な表情を浮かべてしまった朔耶に、和泉は苦笑する。
「小柄、ではないけど、線が細くて美人だからな」
めったに言われたことのない褒め言葉に、頬の体温が上がるのが分かった。
「そ、そうだ。長田から、資料を預かっています」
そう言って鞄から取り出した先程の報告書を渡す。和泉は、ありがとうと受け取り、タイトルを見ると、そのまましばらくその報告書を読みふけってしまった。
あの発情期で、結局和泉は朔耶の項を噛むことはなかった。
それは拒絶したということではなく、彼なりに覚悟を決める時間が必要なのだろうと理解した。
あれ以来、和泉が朔耶を大切に扱ってくれているというのは分かるので、急かさず静かに待とうと思っている。
そうだ、と和泉が思いついたように声を上げた。
「朔耶」
あれ以来、和泉は二人きりのときは朔耶のことを名前で呼ぶ。そんなさり気ないところで、彼にとってこれまでとは違う存在になれたと思うから、穏やかな気分で待てている。
「はい?」
「次、抑制剤が切れるのはいつだ? 今度から、うちに診察に来たらいい」
少し止まった。
え、と思った。
「ここにですか……?」
「そう」
「ということは…。僕の主治医が和泉先生ってこと?」
「和泉先生じゃないだろ」
「あ……。暁さん……」
「うん」
それは……と朔耶は少し躊躇う。
となると、この愛おしい人にすべてを診られるということになるのか。…おそらく、そうなのだろう。
「嫌か?」
「……いえ……。でも、考えると、ちょっと恥ずかしくて……」
そう素直に答えると、和泉は笑った。
「診察だろ。朔耶のことはすべて把握しておきたい。それに、今の主治医の先生よりも、俺の方が会う頻度は多いから抑制剤の処方をきめ細かく決められる」
和泉が朔耶の頬に指を這わせ、そして抱き寄せる。
糊のきいた白衣から香る、少し消毒液のような匂い。そして、心から安心できるサンダルウッドのような和泉の香り。
背中をさすられた。
「心配なんだよ」
そして和泉の顔が首筋に寄る。
「ほら。香りが漏れてる…」
くんくんとあからさまに嗅がれると恥ずかしい。
「えっ……」
動揺すると、和泉が顎に指を添えて考えている。
「俺と一緒にいるからかなぁ……」
おそらく和泉と一緒にいると、わずかながらも反応してしまうのだろう。
運命の番というやつなのかはどうかは別としても、惹かれあう存在であるというのは間違いはなさそうだ。
「今日は何時頃に上がれる?」
和泉が穏やかに問うてくる。
それはすなわち……。
「発情期は、まだまだ先ですよ」
「べつに、発情期ではないから抱けないっていう理屈はないだろ」
直接的な表現に朔耶はどきりとした。
思わず、和泉を見返すと、その瞳が艶めきを持って朔耶を見つめている。
こんなふうに見られるのは、思われるのは幸せだ。
嘆息した。
「もう…、先週あんなに…」
互いを睦みあったばかりなのに。下手すると今週末もずっとベッドの上かもしれない。
すると、和泉は笑った。
「先週は先週。今週は今週だ」
聞く耳を持っていない。
朔耶は呆れた。
ふと、和泉の持つ香りが強くなった気がした。
「許してくれ、この香りに煽られるんだ」
【了】
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本編はここで終わりです(一応)
これでもかと自分の性癖を注ぎ込んだ作品に、お付き合いいただきありがとうございました。
番えたのか否かといえば、和泉先生が思った以上に慎重で、番うところまで至りませんでした。
書き終わって、了を付けておいてアレですが、和泉と朔耶が番う話は必要だと思ったので、完結にはしておりません。まだ続きます。
次話はようやく和泉と朔耶が番う話です。
もう少しお付き合い頂けると嬉しいです。
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