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宝物の日々
「暗くなるの早くなったよねえ」
エリカの声につられて空を見上げると、薄墨がさっきまでの茜色を覆っていくところだった。制服のスカートとソックスの間から覗く膝が肌寒い。
「まあ、私たちもいつもより遅いし」
「それはそうだけど。マナ、ほんとは早く帰りたかったの?」
「そんなこと、ないけど」
高校からの帰り道、駅に続く長い下り坂。帰宅部はとっくにいなくなり、運動部はまだ頑張っているこの時間、歩いているのは文芸部の私たちだけだった。
冊子製作やコンクールなど、各種の〆切にさえ間に合えば、普段の文芸部の活動は特に決まっていない。今日はエリカが、ほとんど完成している小説をどうしても学校で直してしまいたいと、物置のような部室の片隅に一台だけあるパソコンとずっとにらめっこしていた。私はそんなエリカにつきあって、がたつく部室の机で宿題を済ませてきたのだった。
「あーあ、いっそイチから書き直したい」
投げ出すように通学バッグを振り回すエリカの攻撃をよけて、半歩遅れてついていく。エリカのバッグは課題や電子辞書などで丸く重くふくらんでいて、当たったら洒落にならない。
「来週〆切なのに?」
「今度のコンクールに間に合わなくてもいいの。なんか、ぜんぜん違う話書きたくなってきた」
エリカの作風は一定しない。児童文学のような冒険活劇を書いたかと思えば、ロミオとジュリエットばりの大恋愛を持ってくる。今度はミステリをやりたいと言い出したから、私も慣れないトリック作りに協力していた。
「せっかく一緒に考えたんだから、完成させてほしいな」
励ますような明るさではなく、自分の願いとして、言葉を置くように柔らかく伝える。うん、まあ、そうなんだけどさ、とエリカの返事は歯切れが悪い。車通りもまばらなこの道では、口をもごつかせたような声でもはっきりと聞こえた。
「なんていうか、もっと落ち着いた話。マナがいつも書くようなのとか、うーん……穏やかなヒロインの日常、みたいな」
「なにそれ」
思わず小さく噴き出す私に、エリカは大げさに目をつり上げて文句をつける。
「何よ、そんなに変?」
「エリカ、自分でわかってるんじゃない。無理だって」
だってえ、とエリカは少し語尾を伸ばす甘えたような口調で、口をとがらせた。
「事件が何も起きないなんて、つまんないじゃん。あ、でも、マナの小説は好き」
とってつけたような言葉に、エリカの真横に入って顔を覗き込む。
「ほんとだってば」
「何も言ってないけど」
だって怖いんだもん、なんて曖昧な笑顔でお茶を濁したエリカは、歩道と車道を隔てる縁石にぴょんと飛び乗って、バランスをとってその上を歩き始める。
エリカに気づかれないよう、小さく深呼吸をした。不意に「好き」なんて口にするから、駆け出した心音が聞こえてしまいはしないかと、肝が冷えた。ほんとに? と、冗談でも追及しなかったのは、本心を抑え込むことができなくなりそうだったから。許されるなら、肩をつかんで揺さぶって、今のはどういう意味か問い詰めたい。あるいは、周りがもっと騒々しかったなら、聞こえなかったからもう一回言って、と言えたかもしれないのに。瞬時に様々な想像が生まれては消える。
「っていうかさ、普通の日常の話って、逆に書くの難しくない? マナはいつも、どうやって書いてるわけ?」
平均台を歩くように両手を水平に広げ、縁石の上に乗ったまま、エリカが顔だけこちらに向けてくる。肩には重いバッグを持っているのに、少しもよろける様子はない。
普通の日常、と呼んでいいかわからないけど、と心の中でそっと前置きをする。
「別に難しいことじゃない。毎日を、大事にしてるだけ」
エリカの友達として隣にいられる、この毎日を。エリカの一挙手一投足を見ている、というとなんだかストーカーじみていて嫌になるけれど、いつか終わりが来るこの日々を宝物のように見つめていれば、書くことは無数にある。
半分も伝わっていないのだろう、エリカは自分で聞いておいて、ふうん、と興味なさそうに足元を見たままうなずく。もちろん、伝わらなくていいのだけれど。
「簡単に言うけどさ、そんなの無理だよ。第一、毎日勉強ばっかでつまんないじゃん」
「そんなことないよ」
今だって、などと続けようとして、なんとか踏みとどまる。エリカにとって今は、単なる下校途中でしかないのだから。でも、と行き場のない感情が渦巻いたとき、ふと何かがひらめいた。
「穏やかなヒロインの日常、って言ったよね。だったら、私のことを書いたらいいんじゃない」
へっ、と間の抜けた返事をして、エリカが縁石から降りる。そんなに真面目に聞いてもらうような話じゃないのだけど、と思いつつ、促されているような気もしてまた口を開く。
「ほら、クラスでも部活でも、エリカは私と一緒にいてくれるじゃない? だからきっと、私のことを書けば、それが日常になるんじゃないかな、って」
画家が大切な人の肖像画を描くというのは、古今東西よくある話だ。だったら、もしエリカに自分のことを、一作品でも、いや一行でも書いてもらえたなら、どんなに素敵だろう。もちろんそんな淡い希望はおくびにも出さず、いいこと思いついたでしょ、というしたり顔をしてみせる。
「なるほど。やっぱりマナの考えることは違うね」
エリカは一、二歩私の前に出て、くるりとこちらを向く。素直に感心してくれるものだから、得意顔にしては口角が上がりすぎるのをなんとか抑えた。
駅前にさしかかり、遮る山のなくなった秋風とぶつかる。エリカのセミロングの髪が口に入って_
◇ ◇ ◇
大きく伸びをして、凝り固まった身体をほぐす。画面右下の時計を見ると、三十分以上は同じ姿勢をしていた計算になった。肩と首をぐるぐる回してようやく一息つく。
改めて、卒業アルバムのエリカと、「私たち結婚しました」のハガキで微笑むエリカを見比べる。執筆資料、なんて理由をつけて引っ張り出したアルバムを、なかなか閉じることができない。
あのあと結局、エリカが私のことを書いてくれることはなかった。別々の大学に行って、離れ離れのままに就職して、気づいたときにはエリカは小説なんてとっくに書いていなくて、結婚するという知らせが来た。私はといえば、こうしてエリカのことを書いて、書き続けて、そんな文章で少しばかりの収入を得ている。
クラスの集合写真、部活ごとの写真、修学旅行のスナップ。どれもエリカの側に私がいる。毎日を大事にしている、と言ったあのときを思い出して、それが正解だよ、と過去の自分をほめてやりたくなった。
ハガキの中、エリカの隣では色白で長身の男性が微笑んでいる。夜更かしした修学旅行の夜には、体育会系の逆三角形が好みと言っていたはずなのに。いつか来る喪失に備えて、アスリートみたいな男性にお姫様抱っこされるエリカ、なんて先回りして想像してはいたけれど、これにはちょっと追いつけずにいる。
あの頃セミロングだった髪も少し長くなっていて、くるくるときれいにまとめられ、青い花に飾られていた。エリカの好みはもっと暖かい色だったはずだけど、花嫁が身に着けると幸せになれるという青色のものを使ったのだろうか。昔聞きかじった知識を頼りに、ネットで検索をかける。結婚式のおまじないなんて、次の題材にいいかもしれない。アルバムを閉じ、ハガキを壁の状差しに入れて、私はふたたびパソコンと向き合った。
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