1.風

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それは 慎也の目の下にも黒いクマが出来上がっていたからだ。 「 お前の ところも大変そうだな… 」 「ーー病理診断科がですか? こちらはそこまで大変ではないですよ。 目が少々疲れるくらいです。」 慎也の決めた病理診断科は、患者から採取した細胞や組織を光学顕微鏡で観察して病気に関わるものか診断する部署であり、 定時に帰れることも多く、休日に急な呼び出しを食らうことは稀である。 慎也の答えに、恭介は「?」が浮かんだ。 ( 疲れない? じゃあなんでそんなに目の下にクマを作ってる? ) 恭介の疑問を気にする様子もなく、慎也はコーヒーを流し込む。 「ーーさて、午後からも頑張りますか。昼からもオペは入っているのですか?」 「 あぁ、今日は何時に帰れるか… 」 二人は食べ終わると、ゆっくりと立ち上がり トレイを返却口まで戻し、食堂を出る。 「ーーでは。」 「 またな 」 二人は別れ 互いの科に戻って行く。 その時 慎也は 横を通り過ぎる患者に目をやった。 (ーーん? 見覚えがある……) その患者は寒い季節にホームで倒れ死にかけていた人間であった。 (ーーこの病院に運ばれていたんですね。) 慎也と恭介は、倒れた人が何者でどう言う人かなと知らない。そして、自分達が助けたものだと言うことさえ伝えてはいなかった。 彼らにとって “自分達は、当然のことをしたまで” と考えた結果の行動であった。 倒れた者の顛末を知らなかった慎也であったが、今日その患者が 生きながらえていることに ほっとしてその場を歩き去って行く。 その時だった、 耳を疑うような言葉が彼の耳に入る。 「 あの、私の番になってくれませんか? 」と小さな声で背後から 聞こえた。 (ーーえっ!?) 慎也は すぐに振り返り、声が聞こえた方に視線をやると、 その患者は 恭介をニコニコと微笑みながら 見つめていた。 「 ……はっ!? 」 恭介から 素っ頓狂な声が飛び、いつもの険しい表情が珍しく驚いている。 慎也は、恭介の一生に一度であろう顔を見ながら、 “これは面白いことが始まりそうだ” と感じざるを得ないのであった。
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