おでんおいしや彼女愛しや

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柔らかく煮込まれた大根 細かな切れ込みの入ったこんにゃく きっちりと結ばれた昆布に、出汁をよく吸って太ったちくわ。 卓上ガスコンロによって背丈の増した土鍋は、壁のように向かいにいる彼女の顔を半ば隠してしまっている。 「はいお椀。」 サクラ貝のような爪が生えそろう手が鍋の向こうからニョキっと生え、桜模様の可愛い取り皿を渡してくれる。 恭しく受け取れば、少しばかり季節外れのおでんの宴の始まりだ。 食事中に会話は特にしない。 口の中に食べ物が入っている時は喋っちゃいけません、という躾の元で育ったのだが、食事中に口の中に食べ物が入ってないときのほうが少ないと思う。ゆえに無言。 彼女も同じ性質らしく、こちらも無言で食す。 付き合いはじめ3か月くらいは二人して無理に話そうと躍起になって食事を詰め込んだりしていたが、それも長くは続かず今のスタイルに落ち着いたんだ、懐かしい。閑話休題。 掬い取った澄んだ汁は、その色に似合わず極熱だ。 いくつか具を確保して冷ましておくかと鍋を混ぜれば、ピンク色のはんぺんがまろび出てきた。 こいつ、20年近く名前も知らずにピンクの奴ピンクの奴と呼んできてしまったが、赤棒という名前があるらしい。ついこの間知った、それでも呼び名は変わらずピンクの奴だが。 ピンクの奴を椀の中に移し、ついでちくわと、少し焦げている卵を底から救出する。あとはひたすら食べるのみだ、時折ガスコンロの火加減を見ながら柔らかな大根を口に運び、舌で押しつぶす。芥子を継ぎ足し、昆布を齧る、びろんと伸びたタコの足をモコモコ噛めば、うまみが奥歯の淵まで染み渡った。 ふと、こんにゃくをやわやわと奥歯で噛んでいると、彼女のふうという吐息が聞こえた。 すぐ鍋にお玉が差し込まれるのを見て、ああ椀に盛っていた分をすべて食べきったのか、とぼんやりと頭の半分しか見えない彼女と彼女の手元を眺めた。串に刺さった牛筋と少しほどけた糸こんにゃくを彼女はスイスイ椀に運ぶ。その時コロコロと鍋の底から2つ、さっきのピンクの奴が転がり出てきた。「あ。」小さく声が出た。ピンクの奴そんなに居たのか、子供の頃のおでんにはそんなに入っていなかった気がするけれど。 一瞬止まった彼女のお玉が、一つピンクの奴を自分の椀に運ぶ。もう一つ残ったピンクの奴をぼんやり惰性で眺めていたら、またお玉が戻ってきた。 ころり、とお玉の上に乗ったピンク色が、こちら側に寄せられる。 「ん。」 はいよ、とも言わない。口も開かず喉から出された彼女の声に、なんとも口元がムズムズした。 もうすぐ食事も終わる。楽しい時間もまったりした時間も、ずいぶん早く行き過ぎるものだなあと思いながら、寄せられたピンクを椀に取った。
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