赤い傘

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赤い傘

路上ライブの途中雨が降り始めた。 ビールケースの上に座っていた俺は一向に立ち止まる人がいない。 一人ライブを切り上げようとギターを弾く手を止めた。 スッと視界が半透明の赤いセロハンに覆われたみたいだった。 小学校中学年くらいの女の子が、 「雨に唄えばって弾ける?」 赤いビニール傘を俺に差してくれて顔を覗き込む。 「そんな昔の曲知ってるの、君は?」 俺はそう問いかけると、 「知ってる、お祖母ちゃんが好きな曲」 少し寂しそうな顔で女の子は答えた。 「上手く弾けるかは分からないけどやってみるよ」 俺はそう答えて、記憶を辿りながら雨に唄えばを弾き語りした。途中で座ったまま足を踏み鳴らし、昔暇潰しで見た古い映画を思い出しながら。 誰も立ち止まることのない路上ライブで、女の子だけが雨に唄えばをハミングで合わせて来る。 雨に唄えばが終わると女の子は、 「ありがとう、塾行かなきゃ。お祖母ちゃんの歌みたいで元気出た。良い子にしてないとお祖母ちゃんも『じょーぶつ』出来ないもんね」 そう言い残すと、女の子は駆け足で去っていった。 それからの俺は25歳までと区切りを決めてメジャーデビューを目指してバイトに音楽に大学にと、とにかく忙しかった。 「皆藤さん、今回のツアーで『雨に唄えば』のカバーを入れた理由は?」 「誰も立ち止まってくれない路上ライブで初めてリクエストされた曲だから」 「懐かしいチョイスですね」 インタビュアーは合いの手を入れる。 「そう、俺の雨に唄えばには『赤い傘』が必要なんだ」 「今回のツアーで披露する曲が入ったアルバムのジャケット。赤い傘の下に段ボールに入った猫が写ってますけど何か関係があるんですか?」 「あの猫は昔の俺。もう音楽なんか辞めようかと弱気になったときだった。路上ライブでにわか雨が降り出して。雨に唄えばをリクエストしてくれた人が赤い傘を差してくれたんだ。」 「なるほど。皆藤さんにとって特別な思い出なんですね。それはもしかして女性ですか?」 「そう、可愛い女の子。原点に戻った曲を作りたいと思ってさ。ツアーもそのコンセプトで行くから」 「うわー、なんか歌詞になりそうな出会いですね。女性ファンが嫉妬に狂いそうな話です。ツアーが待ち遠しいですね」 インタビュアーとのやり取りを書き起こした雑誌を眺めてから、俺はスタンバイする。 区切りだと決めた25歳ギリギリのデビューから12年。もう人気のピークは過ぎた37歳。それでも今回のツアーは全力でやる。 全国28ヵ所のツアーが終わった後、俺は引退宣言を出した。 もう、歌えない。 俺はステージがかなり進んだ癌だった、若いと進行が速いらしい。自分の人生の一部を切り売りする趣味はない。闘病に同情されるなんてまっぴらごめん。 『才能も実力も枯渇した、出来る音楽を全部やり切りました』 ホームページに健康や病気の話は出さなかったし、事務所の協力でマスコミに情報が漏れないようにしてもらった。 極秘入院した俺は病院という無機質な場所で退屈していた。今日は主治医から治療方針の説明があるらしい。主治医はベテランの50代と位の恰幅の良い男で、看護師もついてきた。その看護師の顔を見たときに俺は、リクライニングのベッドから飛び起きた。 「もしかして…あの…」 何を言ってるのか?という訝しげな顔で医者は咳払いをする。 「皆藤さん、お久しぶりです」 『川上』と書かれた看護師の名札の下には小さな赤い傘の形のブローチ型の時計があった。 「なんだね川上君、説明中なのだが?」 「先生、すみません。皆藤さんは昔の大恩人でして、つい…」 川上と名乗るあの日の赤い傘の少女は、可憐な白衣の天使になっていた。 あの赤い傘の少女がこんなに見目麗しい看護師になっていたなんて。緩和ケアを受けながら穏やかに死ぬのも悪くないと思っていた俺は、今、無性にもっと生きたいと思った。 それからの日々はあまり思い出せない。ただ、川上里奈とのありふれた会話だけをよく覚えている。高く柔らかな絹の糸を弾いたような声、大輪の薔薇に囲まれても負けない華やかな笑顔。 俺は薄れたり、混濁する意識の中で一通の遺書を書いた。家族や親族、事務所とお金で揉めない程度にある遺言を川上里奈に託した。 『デビュー曲、July rainの著作権は川上里奈へ相続させる』 『July rain』は爆発的なヒットはしなかった。スロースターターでアルバムでやっと人気が出た曲だ。他のヒット曲に比べたら金銭的な旨味は少ない。それでも、それなりのまとまった金にはなる。 俺は家族と親族と再会した川上里奈に見守られながら、38年の人生を終えた。 死んだ実感がなくて、霊としてふらふら下界をうろついて、あの赤い傘の少女だった川上里奈を探す。俺の最後の恋、白衣の天使。 「やっぱさー。人を見る目があると人生チョロいよね。もうお金はあるし、病棟辞めて夜勤のないクリニックに行こうかな」 川上里奈が白衣のまま、高級煙草のパラソル・メントに火を着けて、慣れた様子で吸い始めた。同僚らしき看護師が笑う。 「小学生でよく才能とか見抜いたね、後の人気シンガー皆藤恭弥を逆ナンパか。運命の再会。いっそのこと遊んで暮らせば?」 「いや、看護師ってステータスは残しておかないと。この制服で5割増しのイイ女になるんだから」 「里奈って怖い。もしかしてお金の匂いに敏感?」 「もちろん。才能ある男って最高だよ、ちょっとおだてれば落ちるから」 俺は霊として下界をうろついて、川上里奈を探し出したことを酷く後悔した。こんな下世話で金に目がない女だったなんて。 でも、不思議なほど怒りは感じなかった。最期に向かう日々を甲斐甲斐しく世話してくれたのは事実だ、それが看護師の仕事だとしても。 そして、才能ある男と言われたことが嬉しくて仕方なかった。ただ、彼女に騙されていたことにはやはり腹が立つので、ちょっとした悪戯を仕掛けた。 川上里奈と同僚の看護師の間に、手品のように真っ赤な子ども用のビニール傘の花を開かせた。 「いやぁ!嘘でしょ?やめて!」 川上里奈は血相を変えて咥えた煙草を落として逃げ回る。同僚の看護師も突然現れた不気味な赤い傘に驚いて尻もちをつく。 ちょっとした悪戯で溜飲を下げて、俺は空の上に霊として戻っていく。もう下界は懲りた。そろそろ、ポケットに入ってる六文銭を渡す頃合いだ。さあ、逝くかあの世って奴に。
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