プロローグ

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プロローグ

 巨大な要塞が王都の上空に浮かび上がる。その影に覆われた人々は恐怖に震え、理性を失い、混沌の中へと走り出していた。  押し付けた僕の唇は、柔らかな弾力で受け止められる。紅い唇は微かな震えを僕に与え、その呼気が微かに口腔へ広がっていく。少女のくぐもった声が漏れた。  僕は、一つ年上の姉だった人の両肩を、大通りへと続く路地の石壁へと押さえつける。彼女の両腕が僕の腰回りにそっと触れた。  抑圧していた欲望が止めどなく溢れ出す。抱いてきた羨望が形を変えて濁流を生んでいる。街を覆う恐怖と混沌、戦いに赴く直前の高揚感が、間違いなく僕らを昂ぶらせていた。 「エリシア姉さん――」  唇を離して彼女の顔を覗き込む。切れ長の瞳、褐色の長い髪。変わらず美しい少女の白い肌は、混沌の中に舞う街の粉塵で少し汚れていた。僕は右手の指先を、そっと、頬へと這わせる。それは僕が幼い頃から憧れていた女性、手の届かなかった女性、姉として一緒に暮らしてきた女性の相貌に相違なかった。  でも、どうしてだろう? ようやく手が届いたかと思ったのに、僕の心に溢れくるのは悦びではなくて、切なさだった。虚ろな彼女の瞳は僕のことを捉えてはいない。腕を絡められて、唇を求められても、それはもう、僕の憧れていた凛としたエリシア姉さんではないのだ。手に入れた、形ばかりの宝石は、その手の中で儚くも崩れ去るのだ。 「カイト……。ごめんなさい。ごめんなさい」  虚ろな視線を虚空に浮かべたまま、罪の告白をするように、彼女は「ごめんなさい」を繰り返す。その瞳の端から涙が溢れて頬を伝う。それは懺悔の涙なのだろうか。  ――エリシア姉さんは何も悪くないのに。  僕は彼女の腰に腕を回し、強く彼女を抱き寄せて、その左首筋に顔をうずめた。  ずっと好きだった。でも、腕を伸ばし、ようやく掴めそうになった瞬間に気付く。欲しかったのはそれじゃないという感覚。  街の喧騒が音量を上げて、エリシア姉さんの首筋に顔を埋める僕の耳へと飛び込んでくる。彼女の声を上書きするように。通りの向こう側から悲鳴が聞こえる。大勢の人々が逃げ惑う喧騒が聞こえる。百年来の危機に瀕し、王都は混沌に包まれていた。 「もう気が済んだ? カイト? 時間が無いんだけれど? ボクたち」  僕の背中から、少し突き放したような、呆れたような、棘のある声が飛んでくる。友人のキスシーンなんて、あまり長く眺めるものでもない。振り返ると少年のような格好をした少女が眉間に皺を寄せている。 「わかってるよ、ミューリィ」  いつも、僕には突っかかるミューリィ。でも、今、その瞳の奥にあるのは、冗談でも、諦観でもなくて、決意に満ちた意志の煌めきだ。  非日常における、非常識な友人の行動に、理解を示しているわけでも、拒絶を示しているわけでもなく、ただ、今から始まる僕らの戦いに懸けているのだ。  ミューリィもミューリィなりに。  やおら、二つの月が浮かぶ天空が僕らの頭上で失われる。路地から見えていた青い空が真っ黒な陰影に覆われていく。僕もミューリィも空を見上げ、エリシア姉さんも虚ろな瞳で空を見上げた。  それは下から見ると、まるで大きな島。下面は岩肌が覆い、その端々に魔鉱石まこうせきの先端や金属で出来た構造物が複合的に露出している。異様な騒音を上空から放ちながら、その巨体は空中を這うようにゆっくりとゆっくりと前進を続けていた。  ――帝国の空中要塞  この空に浮かぶ巨大な島が国境を超え、王国の領土を侵犯し始めたのが一ヶ月前。僕は、その日のことを、昨日のように思い出す。  この一ヶ月間で世界は変わった。僕らは変わった。空中要塞が全てを変えたのだ。あの日、僕らは帝国の追手から逃げるように駆け出した。東へ、東へ。  僕は空中要塞の中に居る妹の姿を思い浮かべる。まだ、故郷に居たころのセーラの姿、エリシア姉さんと三人で遊んでいた頃の彼女の笑顔を思い出す。  すれ違いと飢えが戦争を生み、戦争が全てを狂わせる。死の匂いが全てを狂わせるのだ。だから終わらせないといけない。止めないといけない。  僕は絡めていた両腕をエリシア姉さんの腰の膨らみから解き、「ごめん」と彼女から手を離す。そして、彼女から距離を取るように、二歩後ずさった。過去にさよならを告げるように、日の当たらない路地に過去を置き去りにするように。自らの心を、僕が繋がるべき少女と、そして、自らが望む未来に捧げるために。 「行きましょう。カイト」  左の耳朶に息が掛かる。フラウロウの囁く声。金色ブロンドの髪を持ち、白い法衣をまとった少女。帝国の空中要塞が王国の領土を侵犯し始めた一ヶ月前、僕は彼女に出会った。そして、僕らは旅を始めた。 「そうだね。行かなきゃ。あいつに……セーラに会いに。そして終わらせるんだ」  僕はエリシア姉さんの混濁した瞳から目を逸し、直ぐ側にあるフラウロウの澄んだ碧い瞳を見つめ返す。向こう側にはミューリィの勝ち気な瞳。  あの空中要塞を止めることはフラウロウの望みであるとともに、僕の望みであり、ミューリィの望みでもある。フラウロウは神の塔ソラリスを大切に思っている。神の塔ソラリスの庇護の下、その魔力マナによる恩恵を受けてきた、王侯貴族や、教会、そしてフローレンス王国の人々以上に。空中要塞が神の塔ソラリスを破壊すれば、世界はその秩序を失い滅びの道を辿るだろう。僕らはそれを望んでいない。  僕らは、このフローレンス王国全体から見たら、ちっぽけな存在だ。無名で、子供でしかなくて、正規軍の一員ですらない。僕らに戦う義務は無い。でも、僕らには戦う理由が有る。世の中が僕らをどう見ているか、どう賞賛してくれるかじゃなくて、僕ら自身が望む世界のあるべき姿へと向かうために、僕らは戦うのだ。 「行こう! 空中要塞へ!」  その言葉を空に向かって高らかに放つ。二人がコクリと頷いた。  僕らは石畳を蹴って走り出す。王都の表通り、そして、空中要塞が一直線に向かう先、王宮の向こう、魔力マナの源、神の塔ソラリスへ。 (さよなら、エリシア姉さん)  僕の視界の端から消える寸前、褐色の髪の少女が石壁沿いに崩れ落ちる。両手で覆われた顔から嗚咽が漏れていた。こんなはずでは無かった、こんなはずでは無かったのに――と。  憧れは過去に置いて、僕らは現在を走り出す。失ったものを取り戻し、あるべき未来を手に入れるために。  僕は左手をフラウロウと、右手をミューリィと繋ぐ。二人に「しっかり掴まってよ」と目配せすると、二人とも微かに頷いた。もちろん分かっているよ、と。  僕らは繋いだ手を離さない。  そして、空に浮かぶ巨体を見上げ、僕は叫ぶ。 「――『浮遊レヴィテート』ッ!」  再帰的に増幅された魔力マナが解き放たれて僕ら三人の体を宙に浮かべた。三人を包んだ不可視の球体は、僕らを天空へと一直線に運んでいく。  決戦の場所、――帝国の空中要塞へと。 28631996-d4b8-46ed-bd0b-742ec1e7f373
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