第三部 迷いの森

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第三部 迷いの森

 緑の樹海の中、少女が地面をリズム良く蹴る。術式詠唱。 「——神よあまねく物体をその位置へと繋ぎ留める不可視の鋲を与え給え……『静止スティル』ッ!」  ミューリィの右手から魔力マナによる透明の鋲が右手のひらから散弾のように放たれた。それは前方から迫るオオカミの群れへと降り注いだ。少女の左手はフラウロウに繋がれて、フラウロウの右手の甲には光の紋章が浮かび上がっている。  僕らは、一週間ほど、迷いの森を東へと向かって彷徨っていた。迷いの森の中で、僕たち三人は、野生のオオカミの群れに襲われ——立ち向かっているのだ。 「カイト! 今だっ!」  ミューリィの凛とした声が森に響く。森の中から、勢い良く飛び出してきた五頭ほどのオオカミが草叢から飛び出したまま、宙に飛び上がったまま、それぞれの格好で、その空間に貼り付けられている。  僕は既に駆け出していた。左腰から長剣を抜き放つ。一群の静止したオオカミの懐に飛び込むと、その剣を容赦なく振り下ろした。  ——ギュォワァーン  オオカミが大きな悲鳴を上げ、斬りつけた脇腹から鮮血が吹き出す。  一匹、二匹、三匹。オオカミに輝く剣を突き刺しては、引き抜く。傷口からは赤い血が流れ、オオカミの目は痛みと憎しみに彩られた。僕はその瞳に目を合わせることなく、次のオオカミへと向かう。生き延びるため、襲ってくるものは打ち払うのだ。それが、迷いの森を抜けるために必要なこと。王都のエレナ王女の元へ、生きてフラウロウを連れて行くために。  静止した一群のオオカミの後ろから、また勢い良く黒い塊が飛び出してくる。まだ一匹、奥にオオカミがいたのだ。そいつが僕に向かって突進してきた。 「ミューリィ、静止スティルさせ切れていないじゃないかっ!」 「そんなこと言ったって、見えてなかったんだよ! ボクだって完璧じゃないんだからっ!」  遅れてやって来たオオカミは、そのままの勢いで大地を蹴って飛びかかってくる。牙を向いて、爪を立てて。  僕は剣を横に向けて、オオカミへとその面を立てた。飛びかかってくるオオカミの前足を剣のフラーで受け止める。そして受け流すように、右へと脚を動かした。オオカミは爪を立てて刀剣を掴もうとするが、血を流しただけで、その勢いを剣に流されて、僕の左へと着地する。しばしの睨み合い。 「このオオカミも追加で止められないんだっけ?」 「えっと——、それだと一回、ボクが今止めてる獣の拘束は解くことになるけど、それでもいいの?」  周囲を見渡すと宙に浮いたり地面に這いつくばったりした五匹のオオカミが血を流しながら僕の方を見ている。まだ、絶命はしていない。今、動き出したら厄介だ。 「それは嫌だな」 「だったら、カイトが頑張ってよ」  飛び出して来て睨み合っていたオオカミが、膠着状態を破って僕へと真っ直ぐに突っ込んできた。僕は自分の体の中に問いかける。「お前の中には、あとどれだけ魔力マナが残っているのか?」と。森の中で自然回復する分もあるが、主にはフラウロウに増強された魔力マナの残滓だ。  オオカミが至近距離まで迫る。考えている場合じゃない。 「——あまねく物体を浮かび上がらせる不可視の障壁を……『浮遊レヴィテート』ッ!」  左手を広げて魔力マナを放射する。両腕で作った輪の大きさ程度の不可視の球が浮かび上がり、それは接近するオオカミの胴体を覆うように捉えた。オオカミの体は浮かび上がり、僕は少し身を屈める。  オオカミの四肢は踏み慣れた大地を離れ、その獣は空を飛ぶ。オオカミの驚いた表情。浮遊レヴィテートの小球を左手で制御する間に、オオカミが勢いで僕の頭上まで飛んで来る。僕の頭上に、オオカミの腹部が顕になった。白い毛に覆われた柔らかそうな腹部。右手に握る長剣を頭上へと突き上げ、容赦なくそのオオカミの腹部へと真下から差し込む。  ——ズシュッ!  僕の右手が抵抗を感じながらも、掲げた長剣は獣の白い腹部へと吸い込まれていった。オオカミの苦痛に満ちた叫び声が聞こえる。そのオオカミは空中で痙攣を始めた。突き刺さった、剣先からはオオカミの赤い血が滴り落ちてくる。僕の額に、二滴、三滴と、獣の血が滴り落ちた。  僕は直ぐにオオカミの体に突き刺した剣を強く振るい、オオカミの体を地面へと打ち捨てる。剣は一撃を放てば終わりではない。ゲオルグ・エルドット男爵の言葉はもう体に染み付いている。剣を振るった後に初心者の剣士には隙が生じるのだ。僕は男爵に蹴りを入れられた横腹の痛みを思い出す。今は灰燼に帰した城塞都市エルドラでの忘れ得ぬ夜。  打ち捨てたオオカミの首にもう一度、剣を突き刺し。虫の音になりながら空間に拘束されたままのオオカミたちにも、一匹ずつとどめを刺していった。 「サンキュー! これで全部かな?」  ミューリィとフラウロウを振り返る。刹那。その背後から、また二つの黒い野獣が突進してくる姿が、視界に飛び込んでくる。フラウロウとミューリィの後方から野獣が勢い良く牙を剥く。 「ミューリィ後ろっ!」 「——あっ!」  とっさの判断で、ミューリィがフラウロウを自分の左へと突き飛ばした。フラウロウは木々の根が張る地面の上へと、もんどり打って倒れる。  オオカミの一匹はフラウロウの体がさっきまで合った場所へと突っ込み、攻撃を空振りに終えて着地する。僕は何も考えずに、その一匹に突進した。  フラウロウを守るのが僕の使命。最早、何に替えてでも。  ミューリィは自らの不覚に舌打ちをする。左肩にはオオカミの爪が突き刺さり、その獰猛な体が赤毛の少女に覆いかぶさっていた。顔の皮膚には野蛮なオオカミの熱気が掛かる。だが、まだ、押し倒された訳ではない。  接触。左肩の把握。その一瞬の流れの中で、ミューリィは冷静さを忘れない。即座に、制御していた魔力マナの効果を開放すると、左腰の細剣レイピアを抜き放つ。「欲しけりゃ左肩はくれてやる」とでも言わんばかりに、奥歯を強く噛み、ミューリィは目を細めて痛みに耐えていた。  赤い髪の少女が抜き放った細剣レイピアはそのまま、電光石火のように宙に浮くオオカミの左腹に突き立てられた。今度はオオカミの顔が苦悶の表情に歪んだ。こちらは勝負あった。  着地し、姿勢を整え、振り返ったオオカミが、地面の上に倒れ込み、白い白衣を泥と枯れ葉で汚したフラウロウの顔に向けて飛び上がる。走っているのでは届かない。僕は咄嗟の判断で、連続詠唱を開始する。 「——不可視の障壁を……『浮遊レヴィテート』ッ!」  左手から放たれる小球の群れ。効果範囲の精度までは期待されても困る。高速で地面を走り抜ける不可視の小球が三つ。一つは右方向に逸れて、一つは上方向に逸れたが、最後の一つがフラウロウの眼前に飛び上がっていたオオカミの頭部を捉えた。  突然、見えない手で上から首根っこを掴まれたように、オオカミはその頭部から持ち上げられる。その野獣は両足をバタバタさせるが、詮無きことだ。  地味な白魔法と言えども、浮遊レヴィテートはフレシアの神の恩恵による魔法。野獣如きが、手足をバタバタさせたところで、効果が失われるものではない。  しかし、心許ない魔力マナで放った浮遊レヴィテート。持続時間にもその効果にも僕も自信が無い。放った小球も見る見るうちに小さくなっていく。  僕は躊躇ためらわずに地面を蹴り、宙に浮いたオオカミの胴体に長剣を突き刺した。長剣を先端にして、自分の体ごと丸ごとぶつける。勢い良く突っ込んだ僕の体の質量が、オオカミをフラウロウの向こう側まで突き飛ばす。  オオカミからの大量の返り血が僕の軽装の鎧を汚した。オオカミの目は天を仰ぎ、口許からは唾液が流れ出す。  そして、迷いの森は再び静寂に包まれた。 「大丈夫ですか? カイト? ミューリィ」  フラウロウが、ゆっくりと立ち上がって、服に付着した草木の枝葉、泥や砂埃を払った。僕もオオカミの死体の上に刺さったままの長剣を杖代わりにして「あぁ」と、立ち上がる。  少し先ではミューリィも事切れたオオカミから細剣レイピアを抜いている。念のためにか、二、三度オオカミの頭部、眼球に細剣レイピアを突き刺していた。 「大丈夫だよ。フラウロウ。君が無事で良かった……」 「ホント、ホント。フラウロウがボクらのお姫様だからね」  ミューリィは二度ほど細剣レイピアを振るいオオカミの血を払うと左腰の鞘へと戻した。そして、思い出したように「痛てて……」と左肩の傷口を抑える。さっきオオカミにやられたところだ。  そこまでの重傷では無さそうだが、自然治癒には少し時間がかかるだろう。急いで消毒するか治癒しなければいけない。森の中で傷口が化膿すると大変だ。 「大丈夫ですか? ミューリィ?」  心配そうにフラウロウが近寄って、ミューリィの顔を下から上目使いに見上げた。ミューリィは思わず赤面すると 「大丈夫さ。このくらい」  と強がった。こういうのを見ると、本当にミューリィは男の子なのかもしれないなぁ、と本当に思う。どうやら、ミューリィはフラウロウの事を女の子としてとても気に入っているようだった。何だか色々複雑だ。  フラウロウが消毒薬とタオルを鞄から取り出してミューリィの傷口を手当てした上で、薬草を煎じた。ミューリィの左肩の傷を見ながら、僕は城塞都市エルドラのゲオルグ・エルドット男爵が一人娘を心配していた顔を思い出す。もし、男爵がここに居たら、柔肌を傷つけられた愛娘の姿を見て、どんな顔をするだろう。憤怒で顔を歪めるかもしれない。 (でも男爵。あなたの娘は、やっぱり、守られる側のお姫様ではなくて、守る側の騎士のようですよ)  僕は傷ついても泣き言一つ言わない、ミューリィの気丈な横顔を眺めた。赤髪の美しい人。「美しさ」とは守られる花にだけ与えられる言葉では無いのだろう。 「でも、随分と野獣相手の戦いに慣れてきたよね、ボクたち」  ミューリィが「あいたたた」とフラウロウの消毒に流石に顔をしかめながら言う。 「そうだね。オオカミくらいなら落ち着いて退けられるようになったんじゃないかな。ちょっと今のは数が多かったけど。まぁ、帝国の追手がやってきたら、ちゃんと戦えるかは分からないけどね」  僕がそう言うと、ミューリィが「そうだね」と少し悲しそうな顔を見せた。他意は無かったが、辛いことを思い出させてしまったかもしれない。  一週間前。エルドラに魔鉱石爆弾が落ちた後、二日程、ミューリィは放心状態で口もきけなかった。一六年間暮らしてきた街が、灰燼に帰したのだ。心の中ではずっと敬愛していた父親の安否も分からない。客観的に考えれば、当然、男爵も死んでいるのだろうが、それを僕の口から彼女の言うのは、どう考えても傷口に塩を塗る行為であり、躊躇われた。  初めは、父親の安否を確認するために、ミューリィが「帰りたい」と言い出すのではないかと思ったが、ミューリィはそうは言い出さなかった。今、戻ったところで、どうなるものでもない、という事は皆が分かっていたのだ。  迷いの森に入った後は、それなりの試練が続いた。さっきのオオカミのような野獣が一日に一度か二度は襲ってきた。  商人や王都への観光目的の旅行者が迷いの森を通過するのを避ける理由が、今なら良く分かる。そんな、現実が、ミューリィに徐々に覚悟めいたものを形成していったようだ。今、自分に出来ることは、王都に辿りつくことだと。王都のエレナ王女の元へとフラウロウを連れて行って、帝国に一矢報いるのだと。  僕たちはそうやって戦いながら、日の浅い付き合いの三人の子供から、旅する仲間へと成長してきたのだった。  そんなことを考えながら、フラウロウがミューリィの手当をする様子を、大きな樹木の根本に腰掛けて、眺めていた。その時だった。  ——キャァーーーッ!!  少し遠くで、女性の悲鳴のような声が聞こえた。誰かが野獣に襲われているのかもしれない。僕は思わず立ち上がる。右手は左腰に納めた剣の柄へと自然に伸びる。 「——助けに行けるかい?」  僕は思わず二人に尋ねた。条件反射だった。言ってから、二人が治療中であることを思い出して、「あ、しまった」と心の中で口に手を当てた。  でも、ミューリィは痛む肩を押さえながらも、一切の躊躇いなく、コクリと無言で頷いた。フラウロウもだ。  そして、僕らは声がした方へと駆け出した。
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