ロジャー・ブライトと娼婦

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 両手の中で咲く花を見つめる男の頬に流れる太陽が女にとっては仮初の情景だったとしても、昼下がりの僥倖は最早後戻りの出来ない色彩の変化を生み出していたのだ。  少なくともロジャー・ブライトはそう思いながら娼婦の前で煙草を燻らせていた。 「君の身体に幾らの価値があるかどうかっていうのは、君の両親の地位や職種なんかとは何の関係もないんだぜ。それは君が客をどれだけ感じさせられるか、悦ばせられるかということでしかないのさ」  愚にもつかない、薄っぺらな人間が吐くのにこれほど適切な言葉はこの街で他にどこを探しても見つからないのではないかと、その男は思うのだ。午後三時に食べた本日のおやつは思いの他、豊かな彩りと、深い味わいを男に与えていた。端的に言えば人生が狂うほどに。  いつも忙しいこの男が、これほど長い時間、ひとりの女の余韻を楽しむことも珍しい。  昨日食べた虹鱒の食感を思い出しながら白い輪になった煙を吐き出す男の名前はロジャー・ブライト。この街で働くそこそこ名の通った新聞屋だ。つまりは、若い正義も情熱も失ったどうしようもない男なのだ。  女の背中をじっと見つめながら、駆け出しのジャーナリストとして世間を騒がせていた二十年前を思い出す。まだ妻が美しかったあの頃を。社会が自由化に向かい、世界が色付き始めたあの頃を。  目の前では、女の白い後ろ手でファスナーが少しずつ上げられて、娼婦の艶やかな乳白色の肌が紺の布切れの中へと勿体をつけて収まっていく。  ロジャー・ブライトの日常は灰色だ。銀翼の禿鷹と呼ばれて、街中に百を超える情報屋を持ち、日々、タイプライターで寝ずに原稿を書き続けた過去はもう過去でしかなく、過去は過去で下水道に流された糞便のように、ロジャーの記憶の奥底へと消えていっていた。その糞便はきっと、正義だとか使命だとかそういう名前だったんじゃないかな。  過去に対する憧憬は最早この紳士には無く、では、これからの未来に関する見通しが浄水場から流れる水道水の如くに澄んでいるのかと言われれば、それもまた違う。汚れた水を濾過するには若い情熱が必要なのだ。  でも、この女を抱いている間は違った。この娼婦を抱いている間は、ロジャー・ブライトの人生は七色に輝いていた。虹の彼方に続く橋は、きっと、彼女の股間の入り口にあるのだろうと、ロジャー・ブライトはその腰を振る間にも、初めて飛行機に乗った少年のように頬を上気させていたのだった。 「わかっているわ、そんなこと」  勝ち気な瞳の下で、真っ赤な口紅が踊る。  そうやって三面鏡を見つめる瞳は青色で、輝いていた。  どのくらい輝いていたかというと、彼女の事を悪し様に言う政治家が居れば、すぐに短刀を抜き放って、その小指を断ち切ることが出来るくらいには輝いていた。それは言うなれば性の輝きであり、生の滾りである。    青い瞳はその女がこの国の出身でないことの証。異国人としての生き様と、国籍は、彼女の人生を不自由にも自由にもしていた。だから、彼女は娼婦なのだ。この街で、彼女は娼婦なのだ。ロジャー・ブライトが彼女を買おうが買うまいが、彼女は娼婦であり、身体を売り、その華で金銭を得て、そして、食べ物を買い、家賃を払い、明日を繋ぐのだ。  もし「金銭とは何を表しているのか?」と近代経済学者に尋ねれば、多くの学者は「信用だ」と答えるのだろう。娼婦の膣が信用だと言って、その生殖器官に情愛の潤いと人格を与える学問は、精神分析でも医学でもなくて経済学のようである。 「君はなぜ娼婦なんかになったんだい?」 「娼婦なんかって何よ? その娼婦なんかを買ったのがあなたなのに? そんな質問に私が答える義理なんて無いと思うのだけれど」 「これは、言葉が悪かったな。君みたいな美しい女性を抱けるなんて思ってもいなかったからさ。僕も気が動転してるのかもしれないな」  自分の半分ほどしか生きていないだろうその女性は美しかった。彼女の裸は少なくともロジャー・ブライトに否応なく結婚前の妻の肢体を思い出させてしまう程度には美しかった。それはつまりこの世界において圧倒的に美しいということであり、それは、彼がつい数分前まで圧倒的な美しさの中で、時間を過ごしていたということを意味していた。たとえそれが仮初の時間であったとしても。  圧倒的な世界は、圧倒的な美を求める。しかし、その圧倒的だった時間も、やはり何の例外もなく、金銭で売買される価値であったわけだ。そんなことは、当事者である男も女も百も承知なのだ。だから、そこにそれ以上どんな意味を求めようというのか?   人間は色とりどりの意味を目の前で起こった出来事に求めてしまうのだろう。この男と女が例外である理由はどこにも存在しない。少なくともロジャー・ブライトはその意味を求めてしまっているのだ。 「私が美しいっていうのは認めるわ。でも、それが、だから、どうだっていうの? 良い買い物をしたとでも?」 「――あぁ、そうだなぁ。それはあるな。良い買い物をしたと思ってはいるよ。うん、最高のね」 「そうなのね。つまり、やっぱり物として私を見てくれているのね。嬉しいわ。他のお客さんと一緒。ええ、知っているわ。あなただって結局そういう類の人間なの。ロジャー・ブライトは資本主義の奴隷。――素敵ね」 「おいおい、僕が資本主義社会の批判者なのは知っているんだろう?」 「ええ、残念ながら」 「じゃあ、僕を資本主義で語るなんて侮辱は避けて欲しいもんだな」  ロジャー・ブライトはこの街でそれなりに有名な男であった。彼は新聞社で働きながら、地方政治への批判や提言を繰り返していた。彼は行き過ぎた資本主義社会と自由主義社会に警鐘を鳴らし、左派的な思想に拘泥して、結局のところ、安っぽいインテリにしかなれない。まぁ、百歩譲ってその程度の男であった。 「あら、私は褒めていたつもりよ。ごめんなさいね。乾くことしか知らない社会主義的な世界なんかよりも、あなたはずっと楽しそうにうらぶれているようにお見受けしていたから。新聞でも、テレビでも、ベッドの上でも」 「知ったようなことを言うんだな」 「ええ、知っていますもの。私はあなたを食べたのですから」  女は振り返ることなく、鏡ごしにロジャー・ブライトと視線を合わせた。  その視線を彼は自らの思考を射抜く真実の光のように感じて、全てが見抜かれて、全てが照らされて、全てが明るみの上に晒されていくようにさえ感じるのだ。男はその意味で全裸だった。  実際の話、中年の域に足を踏み入れたばかりのロジャー・ブライトは、幼い時代に過ごした灰色の社会主義国家時代よりかは、今の時代を愛する自分を認めざるを得なくて、この本能的な充足はいつも彼の政治信条を困らせていた。娼婦を買う自分もまた、そんな時代に囚われた歯車の一つなのだ。 「僕は薄汚れた貨幣の話をしているんじゃないよ。そうじゃなくて、僕は愛の話をしているんだよ。潤いの話だと言ってもいい」  つまり、彼は彼女の話の運びを詭弁として斬って捨てたいのだ。 「あなたの言っている潤いというのは、お金で買える愛液の話でなくて?」  女はまだ濡れている陰唇の場所に目を落とし、男はその指先に残る液体の感触に舌を這わせた。しかし、指先はすでに乾き、心はまた潤いを求めている。結合には終わりがあり、愛と所属の欲求には終わりがない。 「そうだなぁ。違うなぁ。言うなればそれは初夏の朝顔さ。蔓を伸ばして天に向かって、何かにしがみついて、そして笑顔をくれる。僕が言っているのはそういう類の愛の話さ」 「そういえば、私の父が住む家の庭に繁殖した朝顔は、嫌なくらいに生命力があってね。父はその全て焼き払ったわ。朝顔っていうのは図々しい生き物よね」  朝顔は可愛らしい顔をしながらいやらしいくらいに種を実らせるのだ。父の庭の地面は淫靡で意思のない女のように、朝顔に種を付けられては、その子供をせっせせっせと育んでいる主体性の無い大地だった。土壌は使役され朝顔の子供を産む装置だった。朝顔というのは彼女にとってはそういうものだった。潤いなんかからは程遠い。 「比喩というものは時に全く機能しないものなんだと言うことを改めて認識させられたよ」 「あら、それは比喩だけじゃなくてよ。あらゆる言葉がそうだし、それを言語のせいにするのは、いささかあなたの身勝手ではなくって? だって、そうでしょう? 機能していないのは言葉じゃなくてあなた自身なのですから」 「これは手厳しいナァ。まるで僕の一部が機能不全だったみたいに言われているみたいじゃないか」  白いシーツには皺が寄り、染みが広がり、生暖かかった。性交後の独特な匂いが鼻を突く。 「フフフ。ちょっと意地悪だったかしら。本当のことを言えばあれ自体はそんなに悪くはなかったわよ。年季の違いかしら? あなたの肌の感触も、あそこの硬さも、煙草の匂いも、私は嫌いじゃないわ」  窓からは変わらず煌々と初夏の日差しが差し込んでいる。この国の短い夏は過ごしやすい。平日の業務時間内に仕事場を抜け出して女を買っている男は、頬に当たる太陽の光が自分という存在を豊かな倫理へと導いてくれるのだという根拠のない妄想を育んでいるわけだが、そこに愛液の雨を降らせてくれた救いの女神が彼女だった。 「僕は単純に、君に捧げる愛情の話をしていたつもりだったんだけどな。お金のことじゃなくて、ましてや愛液の話でもなくて」 「それは、お金も払わずに、美しい私にもっとこれからも会って欲しいってことかしら? そんなことが知られたら、奥さんとの間で不味いことになるのではなくて?」 「あぁ、そりゃあそうさ。妻にそんなことを知られる訳には行かないよなぁ。もちろん、こうやって昼時に仕事をぬけだして、自分の金を使って、君と性交をしていることだって知られたくないのだけれどね」 「でも、それは、自分のお金なのだから、何一つ恥じることはないのでなくて? あなたのお金であなたの買いたいものを買って、何を恥ずべきことが御座いましょうか?」 「それが娼婦であってもかい?」 「ええ」 「それが妻との満たされない欲求の捌け口であってもかい?」 「ええ」 「僕が今、仕事をサボって性交していたとしてもかい?」 「それは駄目ね」  ロジャー・ブライトは倫理的な男である。教育的な男であると言っても良いだろう。どのくらい教育的であるかといえば、そもそも、勤め先の新聞社で所属している部署が教育課である程度には教育的であり、一般的な新聞屋が言っていることとやっていることに表と裏があることを心の底から理解している程度には、やはり、彼も倫理的な男なのである。  だから彼は娼婦を買うときには自らの蓄財した貨幣でもって対価を支払い、決して教育課の予算として自分の手元にある貨幣からは支払わないのである。  それでも偶然に出会ったこの女性との時間は、この男に矛盾に満ちた愛を与えた。屹立した彼自身はまるで政治と行政とジャーナリズムが人々の暮らしを改善できると信じていた若い頃のような情熱を液体として娼婦の中に迸らせたのだ。  ロジャー・ブライトはそんな自分を落ち着かせようと、震える右手で煙草を燻らせる。そして、窓の外で初夏の日差しに照らされた全くもってつまらない酸素を、彼自身の肺胞が一杯に膨れ上がるまで吸い込むのだった。 「それとも、あなたは私を買ったことを秘密のままにしておきたいのかしら? 幸せな時間を過ごすことがこんなに素晴らしいことだって知っておきながら」 「君は僕との時間が楽しかったのかい? また、会いたいと言ってくれるのかい?」 「まさか。そんなことは言わないわ。ただの確認よ。あなたが何を考えて、何を求めていて、何に縛られていて、何がしたいのかって」 「そうかい」 「そうよ」  男は一つ大きく息を吸った。 「僕と君の関係は一期一会。そうさ。もう会うこともないだろうと思っているさ。まぁ、そりゃそうだろ。そりゃぁ、妻にも娘にも、僕が娼婦を買ったっていうことは、秘密にしとかなきゃいけないさ。ああ、会社にもそうさ。秘密じゃなきゃいけない」 「そう、それなら私は何も構わないわ。あなたの奥さんや娘さんと話すことなんて無いから」  女は首の周りに掛かった真珠の首飾りを両手の指先で掴み、その位置を三面鏡の前で、何度か調整する。その姿をロジャー・ブライトはベッド脇で煙草を吹かしながら眺めるのだ。舐めるように、犯すように。  自らが抱いた身体が、光る真珠や輝く髪飾りによって彩られ、一つの動物の柔肌が幾重にも布に覆われて、艶めかしい肢体の上に一つ一つの文化の欠片が飾られていた。 「……君は綺麗だ」 「ありがとう。そういう言葉は好きよ」  男の性欲は既に彼女の中に置き去りにされ、彼女の思いは空虚なままに中空を漂っていた。そこは心と身体の繋がらぬ場所。魂が溢れ、繋がりあおうともがく場所。  寝室の湿度は高い。温度は人肌程度だ。そっとロジャーは女の首筋に触れた。男の指先が生む突然の皮膚感覚に、その女は震える。 「……アッ」  震えた後に、声を漏らす。女の声は驚きでも、嬌声でも、苦痛でもなく、肺呼吸を覚えた種である哺乳類の体内から吐き出された気流が声帯を振動させて掻き鳴らしたに過ぎない。そんな音色だった。  しかし、そんな、なんのことはない、単母音のいじらしさが、ロジャーの性的興奮を呼び起こすのだ。音声とはそもそも空気の振動であることは、学のある人間であれば誰でも知っていることではあるが、ただの空気の振動が人間の生殖行動を突き動かすということに思いが至っている者は決して多くないだろう。 「こんな場所で、こんな男の性器を咥えた君の姿を見ると、医者だっていうお父さんはどんな顔をするんだろうね」  そう言う男の顔に浮かぶのは結局のところ下卑た微笑みであり、彼が金銭の奴隷であり、貴賤を論じるに値しない人間であることを意味する象徴であった。しかし、下卑た微笑みこそが彼の性癖という濾過装置を通した愛情の現れであり、そのことを勘案すれば、女の行動に浅はかな社会の規範を家族関係という土着的な価値観に基づきながら卑猥に押し付ける彼の姿こそが、彼が愛欲に縛られた純朴な存在であることの表現なのかもしれない。  「娼婦とは何であるか?」と、男は問うことも出来ないまま、彼の自由意志は選択と購買を通じて自由市場経済の中で流れてくる性という役務を消費してきた。しかし、それも今日限りかもしれない。彼の下卑た顔は、そういう愛欲の執着を感じさせているからだ。 「どんな顔もしないんじゃない? お父さんはいつも同じ顔よ」  この女はこの国で消費される。しかし、この女はこの国で所有されない。この女はこの国で提供される役務である。故にこの女の父はこの国で彼女を繫ぎ止める杭にはなれない。彼女は貨幣経済の中で自由なのである。しかし、ロジャー・ブライトにはその自由がどこか憎らしかった。その自由が傲慢に思えて許せなかった。娼婦を買い、その体の中に自らの体液を流し込んだとしても、彼自身は資本主義社会の信奉者ではないのだ。 「ほう。娘がベッドの上で、こんな男によがらされているところを見ても、お父さんは顔を変えないというのかい。それは、恐ろしい度量のお父さんなんだね」 「父は産婦人科医で、女性の裸体なんて嫌というほど見ているし、膣の中に出入りする物体なんて、彼にとっては親子ほど年の離れた若い女性が目尻を垂らしながら唇を開いて、その空隙の中に出し入れする果物も同じでしょう? 涎を垂らしながら咥えて舐め回す果物」  その卑猥な表現に感じ入った男は、親指を立てて女の頬に当ててくすぐるように滑らせると、最後にその厚ぼったい唇に彼の男らしい指の腹を添えた。 「君はとても難しいことを言うんだね?」 「いいえ。私の言っていることは、至極簡単な話よ。三角形の三辺それぞれの平方数が釣り合いを取るなんていうご立派な数字の話よりもずっと簡単な話よ」  女は口を開いてその親指を口に含むと、唾液を絡めながら何度も何度もその指先に舌を這わせる。そして、親指から直角に伸ばされた人差し指を左手で掴むと、微笑みながら爪を立てた。男が小さな痛みに眉を寄せると、女は次に親指を噛みちぎるように歯を立てた。男が痛そうな声を漏らすと、それを見て、女は愉快そうに頬を緩めた。  やがて、男は女の厚ぼったい唇の間から、ゆっくりと親指を引き抜いたのだった。痛みは愛であるという屈折した、それでいてとても正しい解釈と共に。  親指は父親の象徴であり、人差し指は母親の象徴である。  父親は噛みちぎられ、母親は爪を立てられる。家族を表す五本の指は破壊されて、真っ赤な血の海は鮮烈に二人を支える床を染め上げるのだ。そういう映像が、妄想としてロジャー・ブライトの視界に溢れた。それは希望に満ちた二〇年前に見た未来のように鮮やかだった。  中年男は信じられないほどの血流を下腹部に感じる。あどけなささえ見える青い瞳の若い女に向けて愛おしさは溢れ出し、熱っぽい視線が鏡ごしに注がれた。 「それなら僕がこの国で君を束縛する杭になろうか。君のお父さんくらいの度量は持てそうにないけどさ」  男は両手のひらを広げて娼婦の両頬を優しく包み込む。 「あら、あなたは私の自由を奪いたいのかしら?」 「嗚呼、そうか、理解したよ。そうさ、僕は行き過ぎた君の自由が憎いんだ。君を資本主義国家の呪縛から解き放ちたいんだろうね、僕は。だから僕が君にきっと不自由を与えよう」  そう言うロジャー・ブライトの胸には、二〇年前に溢れていた正義と使命を背負ったジャーナリストとしての若い情熱に似た迸りが、再び湧き上がり始めていた。男は久し振りに感じるそれをとても懐かしく感じる。  娼婦は頬に当てられた両手の甲に、自らの手のひらを重ねる。重ねられた手のひらは熱を持ち、宿屋の部屋の中の空気は人肌よりも心地よい体温で暖かく満たされた。まぐわった男女の匂いが漂う場所は愛という名の浴室。 「不自由なんて下らないわ。私を呪縛から解き放つなんて、傲慢だとは思わないの?」 「それで良いんだよ。僕は君を市場価値で測ることから自由になって、君は自由主義が押し付ける不自由から自由になるのさ」 「私にその自由と不自由をもたらすことは、あなたにとっては社会的な死をもたらすのではなくって?」 「死の欲動と生の欲動はいつでも背中合わせなんだよ。君の肌と匂いで、そんな当たり前のことをようやく思い出したよ」  男がそう言うと、女は鏡越しに男の瞳を見つめて口元に邪悪な笑みを浮かべた。それは貪欲で、それでいて愛情に満ちた表情だった。 「わかったわ。じゃあ、とりあえず、今からもう一回、自由になってみる?」 「そうだな。締め付けられて痛いくらいだったんだ」  振り向いた娼婦と男の視線が交わり、二人は少しの時間見つめ合った。  やがて、男はその場所でズボンを下ろし、女は一度閉めた背中のファスナーに指を掛けて上半身を覆っていた紺の布切れを下ろした。  その日、ロジャー・ブライトが新聞局員を辞めて、女は娼婦を辞めた。    街は虹色に輝き、ロジャー・ブライトの人生は生の欲動と死の欲動のメリーゴーランドへと変化する。それでも遊園地の中では日常が繰り返される。ロジャー・ブライトは、人としての尊厳と動物としての性欲を優雅な吹奏楽に変えながら、彼女の手を取ってこの街という舞踏室で新しい生活を踊り始めるのだ。  後に、ロジャー・ブライトは、法廷という名の劇場で、二〇年間連れ添った妻とその弁護士を相手に、出口の見えない弁論闘争を行うことになるのだが。まぁ、それによって彼が全財産を失い、これまで築き上げてきた名声を全て失ったとしても、総合的な視点から勘案すれば瑣末な話であるので、ここでは詳細に語る必要もあるまい。  娼婦と出会ってロジャー・ブライトの人生は色付き始めた。
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