比翼の鳥ー1

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比翼の鳥ー1

「リーファを呼んでいる」  執務室で仕事に一段落ついたところで二宮がセイアに話しかけてきた。 「……さようでございますか」  含むところが無いように聞こえればいいと思うがセイアの声はわずかに震える。動揺する自分が許せない。 「二宮様はリーファが殊の外お気に召したようですな」  一緒に仕事をしていた宰相の趙が視線をセイアに向けつつ二宮に返す。すると二宮は「そうだな」と穏やかに笑った。拘りなど無いからだろう、そう思うものの趙はセイアの心の内が痛いほど分かる。  セイアはだいたい後ろ向きだ。それは過去に起こった悲惨な経験からかもしれない。それを近くでずっと見てきた趙にはセイアの考えることなどお見通しだ。  人が羨むような容姿や恵まれた生活、すべてを持っているように一見える。それなのにセイアは自分の価値を低く見積もり過ぎている。だが、それを趙が言ったところでセイアは納得しないだろう。  ――二宮さまも罪作りなことだ。  見るからに表情を失くしたセイアを眺めながら趙はやれやれと肩を竦める。リーファは最近宮廷楽団に入った若い楽師で、古琴が専門なのだが、琵琶も上手い。それを聞いた二宮が次妃の末娘、瓊花(けいか)の師に抜擢したのだ。  まあそれだけならどうと言うことも無かったが。問題はリーファの見目がすこぶる良いということだった。大体において宮中にいる女官たちは美女揃いだ。その女官たちに混じってさえ見劣りするどころか、一際抜きんでて見えるのだから相当なものだと言える。  そのリーファをたびたび私室に呼ぶ二宮にセイアの憂慮も深くなる。つい先だっても二宮とセイアの前で演奏したばかりで、二宮は大層彼女を気に入っていることは誰の目にも明らかだった。  今まで長年帝の寵愛を独り占めにしてきた大公でさえも飽きられることがあるものなのだと口さがないものは噂をしている。今までそんな噂の種になる素振りの一切無かった二宮だけに『帝の心移り』という噂話はあっと言う間に宮中内に広まった。 「大公さまほどの方でも帝を繋ぎ止められないのかしら」 「美貌だけでは無理ということでしょうねえ。それに大公さまは女性ではないし……」  敵うはずもないと思っていた大公を貶める材料を見つけて女官たちはいつにも増して姦しい。  楽に親しむということは何も瓊花(けいか)だけが特別ではなく、皇族は幼い頃から教養を身に着けるためにと何かしら楽器を習う。帝である二宮も琵琶を弾きこなすし、好きでもあるようでセイアも寝所がある後宮で何度も彼の奏でる琵琶を聴いた。 「そなたは琵琶が好きですか」  二宮の問いにセイアははいと答えたが、それは二宮が弾いたものだからだ。しかし、二宮はセイアが琵琶自体を好きだと思ったのだろう。 「セイアと琵琶を楽しみたい」  そう言われればセイアは拒むことができない。表面上は「楽しみです」と言いながらセイアはいつも平静ではいられない。  二宮が好きなのは彼女ではなく、彼女の腕だ。そう決まっていると自分に言い聞かせるのにセイアは疑心暗鬼になるばかりだ。こんなことを知られればきっと二宮は呆れるだろう。  自分がこんなに狭量な人間だったのかとセイアは深くため息をついた。  しとしとと霧雨のような雨が降る。水の中にいるような湿った空気に琴の調べが風のように回廊を渡り、広がっていく。 「古琴の音が……」  官吏の漏らした言葉にセイアは書類から視線を外した。  ――ああ、あれは。  次妃の末娘、瓊花(けいか)が古琴を鳴らしているのだ。まだまだ演奏というほどには上手くないものの拙いながらも聞いたことのある調べが耳に残る。  瓊花(けいか)が楽を習うことに何の不思議も無いのだし、二宮が我が子の習いようを見ているのだってわずかに胸は痛むもののいつものこと。  でも、今回は心が塞いで仕方なかった。  ――後宮に戻れば良かった。  軽くため息をついてセイアは頭を振り、仕事に戻る。半刻前にここに居た二宮は今、次妃と子供たちと彼の私室にいる。普段セイアは二宮が正妃や次妃、その子供たちが歓談している場にはいない。  帝が二人の妃を本当の意味で妻としては扱わないということを理解はしても何のこだわりも無いはずもなく。二人の妃にとってセイアの存在は公の場では一緒にいて歓談するにせよ、私事まではその姿を見たくないというのが本音だ。  正妃も次妃も情人を持っているが、だからと言ってセイアのことを内心では疎ましく思うことが無くなるわけじゃない。  そしてそんな二人の気持ちを誰よりも分かっているセイアは家族の団欒の場には姿を見せないというのが常で、それは彼の気持ちにも沿うことだった。  二宮がセイアを第一に思っていることを疑うわけじゃない。  でも、それでも。  セイアには決して与えられない子供という切り札を彼女たちは持っている。そのことに嫉妬しないではいられない。だから彼女たちと会わないということはセイアの望みでもあった。  ――私はなんていじましいのか。  ほんの十あまりの子供が奏でる楽の音にまで嫉妬するのだからとセイアは進まない仕事を諦めて筆を置いた。 「上手くなったな、瓊花(けいか)」 「はい、お父上様」  二宮に褒められて瓊花(けいか)は嬉しそうに次妃を見上げた。 「もっと上手くなったらお父上様、ご褒美くださる?」  幼い姫のおねだりに二宮のたれ目がちの目が細くなる。二宮は子煩悩だ。子供の誰にも彼の血は入っていないというのにどの子も本当に可愛がっている。 「勿論、瓊花(けいか)何が欲しい?」 「いけませんわ、陛下」  二宮に瓊花(けいか)が答える前に次妃がやんわりとそれを遮った。 「瓊花(けいか)は何か欲しいから古琴を習っているのですか?」  次妃の問いにううんと瓊花(けいか)は頭を振り、二宮に助けを求めるように体を向ける。 「お父上様に聴いていただきたかったの……ごめんなさい」 「おいで、瓊花(けいか)」  叱られてべそをかいた瓊花(けいか)を二宮は招き寄せるとひょいと膝に抱えて頭を撫でた。この場合理は次妃にある。娘を甘やかさず躾けようとする彼女は立派な母親だ。だが長子である清宮には厳しい面を見せる二宮も幼い娘にはすこぶる甘い。 「悪いのは父だ。頑張っているそなたに何かご褒美をあげたくてたまらないのだから。泣かないでもう一曲、父に瓊花(けいか)の楽を聴かせてくれまいか」 「はい」  大好きな二宮に抱っこされて途端に機嫌を直瓊花(けいか)に次妃はあらあらと呆れたように笑った。
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