ご褒美の話

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ご褒美の話

「なあ、ロン」  いきなり呼びかけられ、書箱を両腕で抱え持って、せかせかと外の回廊を歩く黒い官服を着た男の肘が急にぐいと後ろに引かれた。 「何だ、今忙しい」  顔を見なくても聞こえた声で誰なのかが分った途端、腕を引かれた男が不機嫌そうな顔を隠そうともせずに振り向く。  華南省副次官のロン・ウエンユウはこのところ休む暇も無く働いていた。働けど働けど決めなければいけない案件は湧きだすように現れて、仕事が苦ではない性質とはいえ、さすがに疲労が溜まっているのを感じていた。  何せ、政務に関して一番知っているのはロンだ。省府長に就任した三宮もなまけているわけではない。次官のキサヤだって頑張っている。  とはいうものの、誰も彼もがロンを頼ってくるのだからこの状態も仕方が無いといえばそうなのだろう。  そこに、さも俺に当たってくれとばかりに現れたのが彼の同期でもある華南省主軍将軍であるリュウだった。  ささくれた心のロンの前に投げ出された生贄のごとく。  しかもむっとするほどの華南特有の湿った風が二人の間をゆっくりと流れていって……ロンの張り詰めていた気持ちにもひびが入った。 「なあ、まだ夏の盛りでもないのにこの暑さって何だろうなあ?」  リュウは胸元をだらしなく緩めてへらりと笑う。いつもなら簡単に流せるロンも疲れのせいか声が尖る。 「いくら何でもそんなことまで分るわけないだろ、聞きたいのはわたしの方だ。それを聞くためにわたしを止めたのか、リュウ?」  ことさらにゆっくりと言葉を出しながらロンはこめかみがひくつくのを抑えられない。 「ここは王都から随分と南だ。気候が違うのも仕方ないのではないか。……これでいいか? じゃあわたしは先を急ぐからさっさと腕を放せ」 「ち、違うっ、えっとさ……」  話を切り上げて行こうとしたが、何かしらもじもじした様子を見せるリュウがロンの耳元に顔を寄せてくる。慌てて避けようとするが、両手で書箱を持っているためにロンは動くのが遅れた。 「あの約束のこと――なんだけどさ」 「や……約束?」  耳元で囁かれた声がくすぐったい。……たいが、約束? ってなんだ。いつ自分がリュウと『約束』なるものを結んだのかがロンにはさっぱり思い出せない。 「ロン?」  眉根を寄せ、恨めしそうに自分を見るロンにリュウはやっぱりと項垂れた。  ――どうせそうだろうと思ってたさ。だけど忘れてたんなら思い出してもらうまでだ。 「おまえは覚えてないかもしれないけど」 「うわっ、止めろっ」  ロンが耳を押さえて体を背け、結果、その代償のように書箱はどたんと放り出された。蓋が外れたせいでパサパサと乾いた音と共に書類が床に散らばる。 「耳に息を吹き込むんじゃない。ったく、書類拾え、書類っ」 「ちょ、聞いてくれって。あのさ……」 「書類を踏むな、ばかっ。その足を降ろすんじゃない」 「え? 足?」  言いながらその場で足を踏み替えるリュウの足の下に書類があるのを確認して、ロンの口がへの字になった。 「だから足どけろって言ったろ、右だ、右足」 「ええ? 右? うわあああっ」  書類を拾うためにリュウの足元に跪くロンによろけたリュウの体が倒れ込んできて、当然のようにロンは潰れるように床に膝をついてしまった。 「お、重い……どけ……」 「わ、悪い」  起き上がって、床にへしゃげているロンに手を差し出すとぱんっと勢いよく弾かれた。まさにいつもながらの反応――なんだが、それが今はやけにへこむ。 「少しは親友の気持ちに配慮するとか、無いのかよ」 「誰が親友だ、そんなもんどこにいるんだ?」  ――うわ……。  天才って何かが欠落してる気がする。感情面の何か……。 「俺はおまえの何?」 「同僚……だな」  ――聞けば聞くほど気分沈むのはなぜだ? 俺だって頑張ったんだ。そりゃ目立たなかったかもしれないけどさ。  ただの同僚って何だよ。おまえは他の奴にもこんなに遠慮無い訳? 「俺が戻ったら『ごほうび』くれるって約束したじゃないか」  いや、ロンが了承したかどうかはこの際問題じゃない。否定しなかったおまえが悪い。教えてやったんだから、早くくれとリュウはよっこらしょと年寄りめいた言葉を吐きながら立ち上がったロンを見る。 「うるさい、何がごほうびだ。おまえの仕事じゃないか。うらめしそうな目でわたしを見るんじゃないっ」  むっとして立っているロンは拾った書箱を開けたままだ。どうやら俺に書類を入れろということらしい。急いで足元に散らばった書類を拾い集めて箱の中に入れた。 「『ごほうび』か……仕方ないな。明日の昼前、わたしの執務室に来い」 「いいのか?」 「ねだったのはおまえだろうが。良くないと思うなら最初から言うな、ばか」  書類が全部あるかを確かめて、ぱかりと蓋を閉めるとロンは小躍りしているリュウを尻目にさっさと踵を返すとその場を離れた。ここで時間を取られている暇が無かったことを思い出したのだ。  書類を届けることなど本当はロンの仕事じゃない。だが、華南省は出来たばかりで官吏の数も少なく、皆、目の前の仕事をこなすので手一杯だ。下っ端の官吏に言えばいいのだろうが、そうなるといつ書類が届くか、または行き先を間違えないかなど余計に心配の種が増える。  だったら重要な書類はさっさと自分が持って行くに限る――そうロンは結論づけた。そして益々忙しくなっている。 「くそ、こんなところで時間を食うなんてっ」  そうぼやくものの、忙しいことには変わらないのに、なんとなく凝ったところを揉みほぐされたようなほんわかした気持ちになっている自分にロンは気付く。  ――なんでだ? 「ま……いいか」  それがなぜなのかは分からないものの、ロンの足取りは確かに軽くなっていた。 「あいつからの『ごほうび』ってなんだろう?」  あくる日の昼前、リュウはどきどきしながらロンの執務室へ向かっていた。気になって華南軍の装備の購入一覧も何回も読み返さなければならなかった。目には入っても書いてある字面や数字が頭に入ってこないのだ。 「どうかしましたか」 「いや、うーん……ヤン准将、今日は無理だ、頭に入らない」 「お加減が良くないのですか?」 「……まあ……」  いつもはなんだかんだと言いながらもリュウは結構頑張り屋だ。しかも宰相の趙が禁軍の中から選りすぐった若い将を編入したため、華南軍の屋台骨は意外としっかりしている。  と、いうわけで結構時間も作り易い。約束の時刻になり、自室で養生しているはずのリュウは当然のようにロンの執務室に行く。 「来たか、リュウ」  昨日とは打って変わって口の端に笑みを浮かべたロンが手招きをしてきた。なんだか悪い予感がしてリュウは顔を引きつらせながら部屋に入ると、そこにはすでに知らない人間がいた。  すらっとした体に深い緑色の髪。そして、こちらとは違うかなりぴったりとした衣服を着ている。……かなりの美形だが、もしかしてこの彫の深い系統は……。 「この度、都護府南庭から駐在として何人かの魔族を迎えることになった。彼はその準備に今日から赴任することになったカガンだ」 「カガンです。将軍、よろしくお見知りおきください」  手を差し出す魔族の男の手にどうしていいか分からず、リュウはロンを見た。 「魔族は右手を握り合うことで挨拶とするらしい。劉将軍、右手を」 「あ、ああ」  ロンの言う通りに右手を差し出すとカガンという男がにこりと笑いながら力強くリュウの手を握った。  ――って、これはどういうことだ? 「あのさ、ロン。一体これは?」  華南省府に都護府の駐在所が置かれるのは別におかしくないし、その責任者と顔を合わすのも普通のことだ。  だけど、今日の目的は違うハズじゃなかったのか? もしかして忘れたのか、はたまた分っていて流された?  一人で百面相しているリュウを見て、ロンがぷっと噴き出した。 「な、なんだよ」 「おまえ、気付かないか? カガンとは一度会っているはずだけど」  ロンの言葉に驚いて自分の横に立っている魔族の男をじっくり見るが、自分に魔族の知り合いはキサヤとロンシンくらいしか知らない。 「いや、ロン。俺は全然……」  そう言ったところにカガンの様子に変化がおきる。陽炎のように形が揺らいだと思うとくたりと着ていた服が床に落ちた。 「おまえ、会いたかったんじゃないのか?」 「うわあああああっ」  リュウは横っ跳びにその場を逃れる。そこにいたのは、人くらいの大きさのヤモリだった。 「お久しぶりです。劉将軍」 「ロン……お、おま……これが?」  青い顔のリュウにロンが満面の笑みで応えた。 「ああ、わたしからの『ごほうび』だ。ヤモリは本当だった。信じなくて悪かったな、リュウ」 「うそ……ごほうびがヤモリかよ」  これが、縁で何かが始まる――そういうこともある。 「だからわたしは『ごほうび』だと言ったんだ」 後にロンにリュウはそう言われた……。 おわり
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