比翼の鳥ー2

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比翼の鳥ー2

 初めてリーファが帝を見たのは楽団員の一員として古琴の演奏をした時だ。いや見たと言ってもリーファたちと帝がいる場所はとんでもなく距離がある。  たぶん「あれ」なのだろうか。そう思うほどの距離。 「おい、きょろきょろするでない」  上役にそう言われて俯き加減の姿勢から時々ちらりと視線を上げるだけだったし、立派な椅子に座っているのが見えるだけで顔かたちが分かったわけじゃない。見えている人物がこの城の主人だと知ってはいても実感など湧かない。それほど一般人には帝は遠い存在だ。  大きく隔たっているのは物質的な距離だけじゃない。  楽団は太常という組織の下にあり、団員は一応官吏の位を貰うがそれは宮中では末端扱いだ。  お目見えすれすれの立ち位置。  しかも積極的に姿を認めるという階級じゃない。それでも正式な祭祀の場や来賓をもてなす場合、単に楽を楽しみたい場合など帝や皇族の前に姿を見せることがあるため微妙な位置にされているのだ。  だからと言って目の前にいる上位の貴族たちに個々の存在を認識されるということはほとんどないのも事実だ。例えるなら部屋にある調度品、それと同じなのだとリーファは知った。  ただ、宮中にいるということは帝の目に留まる可能性が全く無いわけでもない。頻繁にあるものじゃないがあるにはあるらしい。今の帝の弟である華南省省長の母は下級妃嬪でもない宮女だったと聞く。  一般にはお目通りできない立場のはずがどういう具合で娼妃の立場になったのかは分からない。でもその話を聞いて宮中に入ったということは自分だって可能性は無くは無いのだ――そう友人と言い合って途中で噴出した。そんなことをリーファは思い出す。  リーファは別に帝の御手付きになるために宮廷楽団に入ったわけじゃない。そんな夢みたいな実現性の無い夢を追う質でも無い。好きな楽の道を極めたいし、より良い生活をしたいと思っているだけだ。  そう、そうだ。明日の心配をしないでいい生活。  リーファは本来なら宮中に入ることなど天地がひっくり返ったとしてもない出目なのだ。  ある大雪の晩、楽団副長の家の前で行き倒れた親子の内、生き残った娘、それがリーファで、そのままそこの家の養子になった。  今年やっと育ての親に認めてもらい城に出仕することになったのだ。ここに居ることこそが奇跡みたいなものだと自分でも思う。 「でも」と、リーファの口から言葉が漏れる。   ――でも、もしもっと高みに上ることができる機会を得たなら、自分はそれを逃さない。  欲は自分にとって成長の糧だった。もっと上手くなりたい。もっと良い服を着たい。もっと美味しいものを食べたい。  そんな欲があるから人は頑張る。欲深いのが罪のように言う人がいるけれど、リーファはその人に聞いてみたい。 「人として成長したい」そう思うのも欲ではないのかと。  しかし、欲望は大食漢だと最近リーファは怖くなる時もある。知らないうちに今までの適量じゃ満足できなくなっていることに気付いたからだ。  膨れ上がる欲に押されてうしなっていくものが何なのかリーファは自分でも分からない。  もっと。もっと。ここまで這い上がることができた自分はたぶん他とは違うのではないかと最近思う。  ――もしかしたら――遥か高みに登る運命に生まれてきたのかも。  そこまで考えてぶるりとリーファは寒気を覚えて体を震わせた。 「何か知り合いが亡くなったのか」 「誰も亡くなっていません」 「じゃあ、腹でも下しているんだな」 「下しておりません」 「じゃあなんでおっかさんに怒られたみたいに拗ねとるんだ」 「わたしは母に怒られたことなんてありません」  不毛な会話だとセイアは持っていた書類の束を揃えるのが目的だと言うように盛大な音を立てて卓に何回か打ち付けた。気分が落ち込んでいるところに逆撫でするような趙の存在が鬱陶(うっとう)しい。そう思って卓を挟んで向かいの趙を睨むがセイアのつんけんした態度にもまったく趙は動じない。 「書類に当たっても仕方ないじゃろ」 「リエイ」  とうとう抑えられずにセイアは趙の名を呼んだ。趙とセイアが出合ったのは趙が十五、セイアが十三の頃。まだ皇太子だった先帝の侍従見習いだったセイアの教育担当を趙が当たったのだ。ただ歳が近いこともあり普通の子弟関係とは大きく変わっている。幼馴染――と言っていいような共犯者的な何かが二人の間に流れている。  なのでお互い人目が無いと遠慮の欠片もない。 「気分がすぐれないので用がないならご遠慮願いませんか」  とっとと部屋から出て行って欲しいとセイアは顔だけ戸口に向ける。そのふくれっ面に趙は思わず噴き出した。 「おまえ、そういうのを出し惜しみせず、もっと二宮さまにお見せしたほうがいい」 「は? 何が可笑しいんです?」  早速喧嘩腰の口調になったセイアに趙は「その可愛いとこ」と言い置いて彼の口を止めるとよいしょと年寄臭い言葉と共に椅子から立ち上がった。 「おまえ、もっと二宮さまに本性を見せたほうがいい」 「本性って……」  むっと下を向くセイアを見て趙は口角を上げる。 「自己中心的で感情的になるところや、すぐ悪い妄想をして一人で落ち込むところだな。後は……」  まだあるという趙を押し出すようにして追い出すとセイアは戸口に背を預けた。気を抜くとそのままずるずると床に座り込んでしまいそうになる。  ――二宮はきっとそんなわたしを見たくはない。  憧れていたと。崇拝していたと睦言に言われるたびにセイアは自分を出せなくなっていく。出口の無い焦燥は濁りを深め、体の中を蝕んでいた。
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