一路平安ー1(ロンシンと銀月のお話)

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一路平安ー1(ロンシンと銀月のお話)

 華夏国の西は清流が多く、ゆえに有名な酒蔵が多数凌ぎを削っている。 寒さの厳しい今がまさに仕込みの真最中だ。  この街の人口は今平常時の数倍だ。 職人たちは仕込みが終わると次の仕込み場所に移動しながらこの時期一年分の生活費を稼ぐ。 そのため飯時になるとどこの飯屋も男たちが押しかけて一杯になり、店からあふれんばかりになる。  その片隅でもう長いこと席を占領して長居している客がいた。一人は何歳なのかもう見当もつかないくらい年老いた汚い身なりの老婆。向かいに座っているのは二十歳前後の若者で、精悍な美しい顔立ちにさっきから飯屋の女中たちも用も無いのに目の前を何回も往復してはきゃあきゃあと騒いでいた。 「師匠、飲み過ぎですよ。もうそのくらいにしないとまた酔いつぶれてしまいます」  冷酒用の小さい陶器でできた杯を口に持っていこうとするのを青年の手が蓋をするように押さえる。 「うるさいのう。そうなったらまたおまえが負ぶっていけばいいじゃないか。おまえ嫌だとかいうのか」 「背負うのが嫌なんじゃなくて師匠の健康を心配しているんです」  厳しい口調で目の前の年寄りを諭す青年に「今更寿命が一年縮もうとわしには関係ないわい」と老婆は杯の側にあった酒本体を瓶ごと取り上げて口をつけて豪快に飲み始めた。 「師匠」 「うるさいわい」  本当にこれがこの国の創始記に書いてある創始帝の右腕だった銀月と同一人物だとは、知っているロンシンでさえ間違いなのではと思ってしまう。  いつもは老婆の姿で辻占いなどをしながら日銭を稼ぎ、街から街へと旅する日々にロンシンは不満などないのだが、いかんせん銀月は酒と色には節操が無い。 「よし、酒はもういい。ロンシンは宿で待っておれ」  ふらりと老婆はロンシンの肩に手をかけて「よっこらしょ」と立ち上がった。 「師匠、僕がどこに居るか分りますか?」  止めても無駄だとこれまでの旅で嫌という程分っているロンシンは酒代を卓に置くと老婆を支えようと自分も席を立つ。 「ここにお代を置いて行きます」  声をかけて外に出ると、銀色に輝く髪を背中に流した長身の男が月の光を浴びて立っていた。  月光浴――そんな言葉があるのだとしたら今まさに男がしているのはその行為に見える。 顔を上に向けて月の光を浴びて彼はまるで銀の粒子をかけられたようにキラキラと輝いていた。 「師匠……」 「どうした、ロンシン? わしが心配か? どこの宿にいてもおまえの匂いはすぐ分る」 「そうじゃなくて……いえ、はい分りました。宿で待ってます」  顔を向けた男はさっきの姿からは想像もできないほど整った顔立ちで、何回も見ているというのにロンシンは唾を飲み込んだまま言葉を失った。  その金属の粉で彩られた麗人がこれから何をしに行くのか、分っているだけにやるせない思いに捕われる。  本当は行かせたくない。それが子どものような独占欲のせいだと知っていても。体は大きくても所詮自分はまだ十四歳なのだとロンシンは小さくなる銀月の背中を見送る。  見た目がいくら大人でもこの国の歴史以上の齢を重ねている彼からすればただの子供で、情を通わす対象ではないのだろう。  ならどうして。  自分を魔族の里から連れ出したりしたのか。どこにいてもその場所に馴染めない可哀そうな子ども、そう思ったからなのか。情は情でも庇護の情だったと、そういうことか。 「僕じゃあ、あなたの相手にはなりませんか」  ロンシンの唇から零れた言葉はそのまま夜の空気に溶けて拡散した。  ずっと見失わないようにと瞬きすらしなかったのに。目の前は月明かりに照らされた夜の街並みが昼間とは違う賑わいだというのに。  ロンシンの見たかった人物だけその姿は消えたように見えなくなっていた。  十一歳の頃、華夏国の皇太子に無理やり凌辱され、酷い怪我で死にそうになりながらも一年後父母の元に帰ることができた。  だが、結局そこの生活も破綻し、魔族の里に逃げ込んだ。そこでも上手くやろうとすればするほど自分が他人とは違うことを意識させられて。  どこにも自分の居場所を見つけられない寂しさの中、そこに現れたのが銀月で、族長に自分を強請ったのだ。望まれて――嬉しかった。  ――だけどやっぱり、僕は独りぼっちだ。  誰かと番いたい――それは勿論体をということじゃなくて。安心できる誰かを自分だけの相手を見つけたい。それが銀月じゃないというのなら。 「僕はどこに行けばいいのだろう」  ロンシンの俯いた顎先から光るものが一つ足元に落ちる。それは暗い地面の上で同化して消えた。
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