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一路平安ー2
ペタリ――という僅かな足音。
衣擦れの音や床板が軋む音。
――ああ帰ってきたのだとロンシンは向かいにあるはずのもう一つの寝台に背を向けながらほっと息をついた。
それとともに部屋にもたらされたのは白粉の匂い。普通の人には分からなくてもロンシンは魔族だ。部屋の中に一さっきまでの行為を引きずって帰ってきた銀月が何をしていたのかなんて言葉で言うよりせきららに分る。
女と、いや男かもしれないが。 楽しんだ――いつだって次の朝にはそう言って笑い飛ばすくせに、帰って来る時はいつもこうだとロンシンはもやのような眠りから完全に目を覚ました。そこには抱き合ってきたばかりとは思えないほどの瘴気が銀月を取り巻いていて、ロンシンは思わずごくりと唾を飲み込んだ。そしてそれを気付かれたかと息を殺してじっとしていた。
止まっていた足音が再び聞え、ペタペタと足音が近づいてロンシンの頬にすっと冷たいものが当たる。氷みたいな感触にビクリと震えて思わず声を上げそうになるのをぐっと堪えていると、その冷たいものはロンシンの体温を奪ったように少し温度を持つ。
それが銀月の指だったことにやっと気付いたときには、それはロンシンから離れて足音も遠のいた。
何をそんなに苦しんでいるのかと。人肌と振れ合ってきたのならなぜ? なぜそんなに銀月は冷たい手をしているのか。
ペタペタと音がするのは素足だからで、きっと足の形状も変わっているからだ。鱗の生えた硬い足の先には鋭いかぎ爪がついている。
銀月はかつては天帝のものだったと言われているほどの古い生き物だ。彼が魔族なのか、本物の魔物なのか本人しか知らない。
その彼が獣化するほど情交で我を忘れる。そんなことがあるのだろうか。 しかもこんなに負の気配に満ちている理由は何だ?
そう聞きたくて聞けない。寝台から聞える音に銀月が床に入ったことを知り、ロンシンの四肢から力が抜けた。
大いびきが聞えてくる。途端に深い睡魔がロンシンを眠りの底に引きずり込む。やがてロンシンの規則正しい寝息が部屋の唯一の音源になった頃、大いびきをかいていたはずの銀月がゆっくり体を起こした。
「望月が近いな」
眩しそうに窓を一瞥して、銀月は眠るロンシンに視線を向ける。
魔族の里から連れ出したのは、ロンシンがここで埋もれさせるには惜しいと思ったからだ。純粋な魔族なら同じ魔族が住む里がいいとは思うが、ロンシンは里で生まれたわけではない。
しかも早熟な鳥属性の魔族としても異例の速さで成長しているのが気になった。それに中身が追いついていけてないのが問題なのだ。聡過ぎるせいで周りの人間がロンシンは十歳をまだいくつも越えていないことを失念してしまう。 大人と同様に扱われることで、本人でさえ自分が子どもであることを忘れている。
もっとゆっくり大人になればいいと、社会という枷を外してやったのだが、本当にそれが良かったのかどうか。
夜になると魔性の物が跋扈する――子どもの頃そう聞かされていた者も自分が大人になってみると、それは少し性質を変えたものに見えるだろう。
夜中に動いているのは実は妖の類ではなく、自分も含めそこらに居るただの人だ。酒に溺れて歩く輩。暗闇から酔客を狙う追剥やスリなど。それらは人の形をしていることに気づくはずだ。
男を誘う菩薩も質の悪い酒でぼったくる夜叉も酒に呑まれて暴れる自分も――所詮人だということ。だが、その中に本当の魔物が混じっていることもままある。それらは人のふりをして人を狩る。
確かにそれが悪いとは言ってもいちいち排除しようとは思っていなかったが、最近西できな臭い噂を聞いた。
魔物が結託して人を襲っているという噂だ。世捨て人みたいな生活を送っているくせにどうも自分は人間寄りになると銀月は苦笑する。
魔物――その正体を見極めるために毎夜調べて回っているのをロンシンには知られたく無かった。本物の魔物は結託などしないだろう。そんなことができるのは人間だけだ。それとも……魔族。
それも思いっきり獣に自分を明け渡した奴に違いない。そんな魔族が集まっているのだとしたら放ってはおけない。
魔族が獣に意識を向け過ぎるとどうなるか――それをロンシンにはまだ見せたくない。彼が魔族として自分を受け入れるには相当な葛藤があったはずで、そうなってからもまだ三年しか経っていない。
「甘やかしすぎかの」
銀月の目がすっと細くなる。あまりにも長く生きてきたせいでその時代、時代の個人に深い情をかけることも無くなっていた。ところが、今生帝の大公である魔族の男に肩入れしてからどんどん自分は限度を超えてしまった。
生まれてからまだ十四年という双葉のような子どもの動向が気になって仕方ない。親のようなそんな気持ち……なのだろうか。
「今更、子育てなんて柄じゃないのだがな」
まんざらでも無いような笑みが浮かび、引き摺っていた緊張感が薄れていくと共に体に現れていた獣性が消えていく。
爪が短くなる刹那、爪の間に残っていたらしい血がぽたりと床に落ちた。
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