一路平安ー3

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一路平安ー3

「弟子のくせに良い御身分じゃな」  枕を顔に押し付けられてロンシンは驚きと息苦しさで足をばたつかせた。明け方まで銀月を待って起きていたなどと言えるわけも無く、もがきながら枕をやっとどける。 「お早うございます」 「お早くはないわい。今日はこの街の有力者の家に呼ばれとる。支度しろよ」  目の前の銀月は汚い老婆の成りで「師匠こそそれでいいんですか」と思わず口にしてしまう。  顔だって洗ったんだかどうなんだか分らない。皺だらけで髪なんか鳥の巣のようだ。だが、占いは神のごとく当たると評判でどこに行っても声がかかる。本当ならこんな安宿に泊まらなくても賓客としていくらでも豪商や貴族の家で歓待されるはずだった。  活計の手段としてロンシンは占術を教わっているのだ。 「ふん、わしがめかし込んで見ろ。男も女もほっとかんわい。このくらいがちょうどいいんじゃ」  銀月はふんと鼻を鳴らして卓に置きっぱなしになっていた昨日のお茶をぐいと呷る。 「宵越しのお茶は良くないですよ」 「けっ、おまえはわしのお母さんか。冷たくて旨いわい」  そう言いながらロンシンの上着の裾をぐいと引く。 「行くぞ」 「はい師匠」  朝露に濡れる雑草が足を濡らす。大きな街もちょっと道を外れると未舗装の道がまだ多い。王都である華北には雑草が生える隙さえない。いや、ロンシンが王都に居たのはわずか一年程で、しかも王宮から出たことは無かったのだから住んでいたといってもここと比べることなどできない。  実際はたった一年ほどだったのだ。あの頃は何十年も何百年も苦しみの中にいたと思っていたのに。  ロンシンは自分の中の時の流れを急に遡り、実際の川で立ち往生してしまったかのように立ち止ってしまった。  足が棒立ちになったまま動けない。心の中で助けてと叫ぶ。 「どうした?」  追いて来ないロンシンに気づいて振り返った銀月の眉が上がる。「そろそろか」と呟いてよいしょと腰に手を当てた。  心に傷を負って暫くは防衛本能が働くのか、見た目は周りが心配するほど元気になる。持ち直したと周りが思う頃、それはじわじわと顔を出す。きっとその時期が来たのだろうと銀月はロンシンを見た。  確かに本人も苦しいし、大変だ。だが、これは心が克服しようとしている兆しでもある。知らずにその時期を自分で計っているのだ。 「おいおいもう疲れたのか、おまえの方が大きいのだからおんぶなんぞしてやらんぞ。ロンシン、早う来い」  そう言って銀月が足をどんと踏み鳴らした途端、動かなかったロンシンの足が上がった。 「……師匠……」 「バカ者、要らんことばかり考えながら歩くから足を取られるんじゃ。わしの麗しい後ろ姿でも拝みながらさっさと歩かんかい」  何を思い返していたかなどきっと銀月にはお見通しだったのだとロンシンは長く息を吐いた。消そうとしても容易く自分はあの頃に戻ってしまう。  なぜ忘れられないのか。これは何かの罰なのか。忘れるためには何をすればいいのだろう。そんなことを考えながら歩いていたロンシンの前を歩く銀月が振り向きもせずに話しかけてきた。 「新しい出会い。新しい経験。たくさん積み重ねていくしかないわの。おまえはまだ若い。これから何ぼでも生まれ変わるわい」 「そうでしょうか」 「だいたいこの絶世の美人であるわしと知りおうたということからしてもう始まっておるのよ、変革がの」 「絶世の……」  何か文句あるかと凄まれてロンシンは「絶世の美人です」と太鼓判を押す。言い合いしている内にもやもやとしていた気持ちも収まって気付けば大きな屋敷の前に二人は立っていた。  中の様子など伺うことができないほどの大きな塀に囲まれた屋敷は酒処が多い西でも一、二を争う豪商だった。  だがそれよりロンシンが気になるのは別のことだ。 「師匠、何か匂いますね」  うむと銀月は大きく頷く。 「酒の匂いじゃな」 「違いますよ、酷い瘴気です。濁った匂いがここまで漏れてます」 「占いなんぞに大金を払おうなんて言うやつのおる場所が清廉なわけがないわい。いいか、匂いなんぞすぐ慣れる。金をふんだくるまで大人しくしとけよ、ロンシン」  本当に金を取るだけのつもりなのか――銀月に限って……いや、そうかも。  とにかく当主に会ってみなければどうにもならないとロンシンは銀月の後に続く。あまりのみずぼらしい成りに門番とは揉めに揉めたが、屋敷奥から出てきた家令のおかげでやっと二人は中に通された。 「さて、酒池肉林か……」 「なわけないでしょ、師匠しっかりしてください」  通された貴賓室で結構待たされたせいか、退屈になって無駄話が出始めた頃、でっぷりと太ったこの屋敷の主人が姿を現した。  人間なのか酒樽なのかもはや分らなくなってしまったような体を揺らして大袈裟に身振り手振りしながら話す男は、はっきり言って裏がたっぷりとあるように見える。 「良く当たると評判の占い師とはそちか」 「まあ、わしぐらい顔も良くて腕の良い占い師は他におらんからのう、噂がそうならまさにそれはわしのことじゃな」  謙遜――これを銀月は読むことができるだろうか。大きな腹を突き出した男に勝るとも劣らないほど大きな態度で銀月は男を見上げる。  暫く意地の張り合いのような睨み合いが続いた後、男はふっと鼻息を漏らした。大人気ないと気付いたらしい。 「わたしの運勢を見てもらおうと思いましてな。まあ、その前に食事でも一緒にどうですか」 「わしは忙しいんだがな……しかしどうしてもというなら食うてやっても構わんが。酒も付けるんじゃろうな? おまえのところで作った一番上等なやつ」 「師匠っ」  ずうずうしく強請る銀月にさすがに男のこめかみに筋が浮いた。
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