「まりな」のち「恵光」

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「まりな」のち「恵光」

 初めに喰ったのは両親だった––––––。 「父さん、母さん!俺も力を手に入れたんだ、エリヤ兄さんみたいに凄い力を!」 「アレク、あなたとエリヤは違うの、同じになろうとしなくていいのよ?」 「そうだぞ、アレク。お前は無理せずに自分の道を探せ、きっとお前にしか出来ないことが––」 彼の父は、言い終える前に地に立ち尽くした足だけを置き去りにこのセカイから消え去った。残った残骸は血飛沫をあげる事もなく、灰の様に崩れ去る。 「なんだよ…俺には期待してないって言いたいのか?昔からそうだ…俺の方が優れているのに、価値のわからない凡人どもが…どいつもエリヤ、エリヤエリヤ…誰もわかってない…俺にはもっと凄い力があるんだ……腹減った…喰い尽してやる、この世の全てをォ…アイツの大切なものォ全部ゥ喰いィい、喰い尽くす」 彼の背中からボコボコと黒い膜が膨れ上がり、その両端から禍々しく黒い手が二本生えた。そして先程まで父であったモノの目が二つ肥大した黒い膜に浮かび上がる。 「あ…あ、ぁ…ぁあ…アレ––––」 瞬時に先程生えた黒い手が先程まで妻だったモノの首に手を回し捻じ切った。そしてその骸を膜が裂けた様に開いた大口へ投げ入れ咀嚼。 再び膜から禍々しく黒い手が二本生え、女性の様な目が二つ現れ瞬きもせず虚空を見つめている。 「まだ、まァだァ…足りない、足ァりなァいィ……エリヤ、お前にィ最高の舞台を用意してやる、このセカイに最も罪深き英雄として名を残す…喜劇…我等から寵愛を奪った全ての命…自ら犯す罪によって消え去るがいい」 何処までも続く真っ白な空間­­­––––。 漆黒の閃光と純白の閃光が互いにぶつかり合い、打ち合うごとに火花を散らしその命の叫びを競い合う様に主張を続けている……その様子を真剣な面持ちで眺める歴戦の英雄が二人。 『……わかってはいたが、改めて見ると、全っ然ダメだな』 「うむ、まあ素人同然なのだ、仕方あるまい…貴殿は何故、彼をあの様に?」 必死に攻防を繰り返す二人を、若干ため息の混じる表情で見つめながら『エリヤ』は感慨にふけっている様子だった、まるで愛しい子を眺める父親の様な眼差しにギデオンは思う所を口にする。 「立ち入った事を聞くが、紅月祐真とは貴殿の…」 ギデオンの質問に対し、苦笑いで肩を竦め『エリヤ』は自ら語り出す。 『分かたれた世界…マナを失った世界には俺の他にも、配下や俺に賛同した人々が多く持って行かれた。だが俺以外、誰一人覚えていなかった…このセカイの事も、俺のことも……』 腰を落とし深くため息を吐きながら首を傾げギデオンの方に一瞬だけ視線を向けると正面に向き直り、今まで誰にも話さずに、否。話す機会などあり得なかった……自身の過去を稀有な境遇で共になり、このセカイを知り最も状況を共有でき、それは今まで存在し得なかった…エリヤが全てを語るに足る人物。ギデオンの存在がなければ決して語られることは無かったであろう事実、そして予想だにしていなかったギデオンの介入が『エリヤ』にとって僥倖をもたらしたのは明白。そんなギデオンだからこそ『エリヤ』は長い孤独を打ち破り吐き出す様に過去を曝け出す。 『俺以外の奴らは最初からそうであったかの様に変わり果てた環境に順応し、せっせと文明を築き、俺だけが過去に取り残され、変わることが出来ず…他の奴らについて行けなくなりそして俺は生きる事を放棄した』 「––––––」 『しかし、神はそれを許さなかった…俺は死ねない、正確には記憶と力を引き継ぎ、新たな命として生まれてしまう…何度も何度も。何百年…何千年経っても俺は過去に囚われたまま死と言う安寧を奪われ、過去の亡霊として見知らぬ世界で生き続けた。それは贖罪であり、忘れるなと言う言外の戒めなのだろう…』 ギデオンは『エリヤ』の口から紡がれる言葉を、ただ黙してその耳を静かに傾け続ける。 『二千年だ、永遠かと思う時……いつ終わるかもわからない孤独、何度生まれ変わっても産声を上げた瞬間から俺には過去が付き纏う……だが、今回の人生は少し違った、この世界を抜け殻の様に生き死にを繰り返してきた俺が、初めて世界に興味を持った…それは普通の…ただ普通に生きているだけの普通の女…だが俺には、そいつの言葉が、表情が、存在が堪らなく愛おしかった…笑うよな…俺に人を愛す資格なんてない、ましてや惚れた女を守れずにこっちのセカイに置き去りにしてしまった俺が、そんな俺に権利なんてない……』 「––––––」 『だが……抗えなかった、俺はマナに…神の愛に見放された世界で初めて生きたいと…強く願ってしまった、それから十数年俺は普通に生き、普通に生活して…普通に幸せな日々を過ごし、初めて子を授かった……』 「それが、彼か……」 『エリヤ』の言葉に疑問を抱くことも、肯定することも、相槌を打つ事もせずに、ただ黙って全てを受け入れ受け止めていたギデオンがゆっくりと穏やかに口を開いた。 『いや、現実はもっと残酷だ…俺には過ぎた幸せだった––––––』 遠くを見つめる視線に僅かな怒気を込め、手の震えを抑える様に拳を手の平で包み込みながら––––。 『奴が、俺から全てを奪ったあの<暴食>が現れ、再び奪って行った…恵光えみも『祐真』も……』 僅かにその身体を怒りに震わせ、己の無力を理不尽に打ち拉がれ…目の前に最愛の人物を思い浮かべながら両の手を伸ばし虚無を撫でる。空を切った両手は行き場を無くし、再び強く握りしめられ主人の膝を打つ。 「––––––」 ギデオンは瞠目することなく、静かに『エリヤ』の言葉に心で寄り添い、目線は今も尚打ち合い続ける二人の姿を眺め、その心の内に静寂な怒りの火を灯しながら耳を傾けながら佇んでいた。 生を…謳歌するには、知り過ぎている––––––。 世界に夢を抱くには、絶望し過ぎている––––––。 誰かに愛されるには、罪深すぎる––––––。 何千何万回とこの世界で生と死を繰り返し、多くの親となった者たちを落胆させ、失望させ、親としての喜びも無償の愛情も注がせてやる事すら出来ずに、ただ時の波を揺蕩う流木のように生きてきた…生きたと呼べる人生は無かったかも知れない。 死の直後に生はやって来る……霊魂に休む暇すら与えまいと死の過去を永遠と引き摺りながら一瞬の闇を超えるとまた産声を上げる…これを地獄と呼ばず何とするのだろうか、どれだけ死を渇望し切望しようとも『死』は決して安寧の時を与えてはくれない。 全てはあの時、自身の高慢…思い上がり故の贖罪なのだ。 『アレク』に両親の死を告げられたのは突然の事だった、しかし悲愴感に浸る余韻も与えられず、それが他種族による仕業だと伝えられ、心に怒りを燃やし復讐の刃を研ぎ澄ます。しかし追い討ちを掛けるように『アレク』が口にした衝撃の事実に復讐の炎は潰え膝から崩れ落ち、絶望した。 両親に手を掛けたのは敵でありながらもその心を奪われてしまった最愛の女性…『ハンナ』であると。 嘘だ、信じられる訳が無い…彼女が俺を騙して…全て偽りだった、全ては俺の目を欺くために… そして、砕け散った心に追い討ちを掛けるかの如く、唯一この世に残った実の弟は悪魔の提案をエリヤに持ちかけ……その時は来た。 神の怒りは大地を揺らし、天は怒号を上げ、大気は震え、愚の骨頂とも言うべき神の目に小さく、人の目に巨大な、神の威光を踏み躙るかの如く建造された塔と共に集った愚かで矮小な人間達に神怒の極光が降り注ぐ。 エリヤは光に全身を焼かれ初めて自身の過ちに、間違いに気付く…その光––––、否、光と称する事すら烏滸がましい。その輝きに呑み込まれ、本能が、霊が、魂が、理解する––––これは『愛』だと。 身を焦がし、全存在を慈しみ焼き尽くす『愛』。 人智の想像を遥かに超えた、決して人類などが辿り着くことなど到底訪れ得ない『究極の愛』。 同時に訪れる絶望、眩過ぎる『愛』に精神は崩壊し、霊魂は呻き悶え、地獄の業火すら生温い熱量の『愛』 これを形容する言葉を持ち合わせていない…理解し認識する脳を持ち合わせていない、直視できる目を持ち合わせていない、その声を聞ける耳を持ち合わせていない。 余りにも脆弱…余りにも無力、その『愛』の前では虚無である事すら許されない… 自身の力など、力と呼ぶ事すら厭いとわれる程に矮小。 この程度…否、微生物の様な力で高慢になるなど、羞恥、恥…慚愧だ…… 感覚を、光景を、恥を、罪を…脳に直接叩き込まれ、霊魂に焼き付けられ、このセカイから文字通り消え去った。 そして、目を覚ましたその場所は何も変わらない風景が広がる『全く異なる世界』。 マナの存在しない、偽りの世界…そこに人類は存在せず風景だけを転写したような世界だった。 亜人も魔獣も存在しない、意思を持たない動物だけが存在し…俺だけが力と記憶を持って…… しかしそんな物が今更何の役に立つと言うのか、この『愛』に見放された忘却の世界で何の意味を為すのか。 無意味…無価値、無意義…地位、名誉、名声、権力、金、女……あの『愛』の前にはどれも虚しい。 命を、概念を、霊を、魂を人間として想像しうる全ての事象を焼き尽くす程の『愛』を垣間みて、もはや何を持ってしても何の意味もなさない。 人々は増え続け、やがて多くの国が…栄え、滅び…争い、繰り返し時は過ぎて行った。 エリヤは様々な国で多くの生と死を繰り返しては過去だけを引き連れ、ただ無価値に、無意味に繰り返して–––– 永遠に続く終着点の見えない世界で、生と死を繰り返す残酷な運命、その一瞬の気まぐれ。 日本と言う国に生まれた……この国も初めてでは無い。しかし何処だろうと特に興味はない…何処に生まれても何も変わらないのだから。 母となった者は酷く困窮していた。身篭った事で男に捨てられ両親からも見放され、二十代と言う若さでありながら身寄りの無い環境。病院に通う事も出来ず、頼る人間も居ない…どうしようも出来ない状態をのらりくらり過ごし––––––。 古くカビ臭いおんぼろの六畳一間で俺は産声を上げた、劣悪な環境…処置を施す道具も知識も無い。 ただ、そんな事はどうでも良かった…繰り返す生の一つに過ぎない、このまま状況に任せて命を放棄するだけ… 「ごめん…なさい、私なんかの子供に生まれさせてしまって…ごめん…ごめんなざいぃ…ごべ、ごべんねぇえ… うんでじまってぇ…ごめん…なさいぃ……ゆるして…ゆるしてくださぃ」 顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、まだ臍の緒も切断されていない粘膜に庇護された状態のエリヤに覆い被さり大粒の涙で頬を濡らしながら鼻を垂らし、何とも情けない声色と表情で、産んだ事を…自分が母である事を謝罪し、許しを求めたのだ。 通常の赤子であれば、この環境での出産はとても危険…なんの処置もせずいつまでも、覆いかぶさり泣いていては命に関わる……俺でなかったのなら。 善意か哀れみか…少しだけいつもより生きてやろうかと思う程には、この母の言葉は響いた。 エリヤの力は『創造と崩壊シンラバンショウ』この世の理を尽く無視してあらゆる事象を創造し崩壊させる。 そしてこの力の真髄は『概念に干渉』する事にある。『創造と崩壊シンラバンショウ』は物質的な事に捉われず『ただある』と信じれば『それ』は『ある』。逆に『ない』とすれば、『それ』は『ない』のだ。目の前に『存在しない概念』を肯定し『存在する概念』を否定する。これがどれ程困難であるかは言うまでもなく、その事象を信仰に近い領域で信じなければ力の本懐は発揮されない。 例えば『思い描いた物を形に出来る』能力だと限界を定めれば、その力はそれ以上でも以下でも無くなる。 行使する人間次第で、ゴミにも成り得る力…英雄と謳われたエリヤでさえこの力を五割も引き出せていなかった。 そして、この力は『人』を罪に溺れさせる。力に溺れた者は––––––『傲慢は静かに忍び寄り本人すらも気付かぬうちに、その眼を濁らせる。やがて怠惰が訪れ、色欲に溺れ強欲に求めさせ、喰らい散らかし、人も己もその暴食によって踏みにじる。そして手に入らぬものに、決して踏み越えては行けない領域に憤怒し、この世の絶対的主人に嫉妬する––––––』力に溺れた者は七つの悪霊によって滅ぶ…… エリヤを高慢にし、剰え神に成り代わろうなどという大罪を無謀を恥を思い立たせた忌まわしき『力』 しかし、この力を神は…エリヤから奪わなかった…まるで試すかの様に。 そしてエリヤは力をこの世界に来て以来一度も使用していない––––、否、出来るはずがない。 何よりもこの力を呪っていたのは他ならぬエリヤ自身であり、しかしその感情は見当違いも甚だしい。 力に罪はない、行使する者が如何様にあるか…エリヤも理解はしているが、やはり思わずにはいられなかった。 なぜ自分にこんな力が、力がなければこんな事には…なぜ、なぜ…なぜ、なぜ、答えのでない自問自答を繰り返し、負の迷宮を彷徨い続け––––。 エリヤは初めてこの世界に興味を抱いた…自分自身を卑下し自力で産んだ我が子に、涙で濡れた悲痛な表情で許しを請う母になった者『紅月まりな』は少なからずエリヤに変化をもたらした。 母となった者…まりなは、人として失格だった––––。 性格云々の話では無い、強いて表現するなら…『足りてない』のだ。一般的に大人として…否、人として生きていく上で必要な当然の様に芽生える良識、知恵、考えが圧倒的に抜けている。そして最も悪い事に、目を覆いたくなる程『運』が無い…抽象的な要素だが確実に断言できる、まりなは『運』という存在に痛々しいくらい外方を向枯れていた。 栗毛色の長い髪に、整った顔立ちだが日本人らしい控え目な容姿、一見すると可愛らしいタイプだろう。 大人しく引っ込み思案、そして何より問題なのは、他者依存傾向が強く一人では何も決められない。頼まれれば頷いてしまう、強要されれば断れない。『まりな』がそのようになったのは一重に両親の対応にある。 それなりの家柄に生まれ厳格な両親の元、与えられるがままに意思を持たず生きてきた。そして素行の悪い男に捕まり強引に求められ、拒絶する事を知らない『まりな』は求められるがまま屈服しゴミ屑の様に捨てられ……子を孕んだ事を知った『まりな』の両親は彼女を『恥』として切り捨てた。 友人も無く、何も持たない彼女はお腹の子と共に何も知らない世界へ放り出され、またしてもゴミの様に放られる。せめてもの慈悲か良心の呵責からなのかは不明だが、最後に両親から持たされたわずかな資金で、格安のアパートを……割高で借りさせられ、すぐに底を尽きた資金にどうする手立ても浮かばす、ただ部屋でうずくまるしか無かった。カビ臭く煤けた畳の貼られた六畳一間––––。 唯一の救いは隣に年老いた男性が住んでおり、若干の認知症を患っていた男性は『まりな』を娘と思い込み、時折食事をさせてくれた事。 この辛辣な状況下で老人の優しさは彼女の心を打ち震わせずには居られなかった。 しかし次第に大きくなり育っていくお腹の子に焦燥感は募るばかり、長い貧困生活で衰弱し切った身体はもはや動く事すら叶わなかった…いっそこのまま死んでしまおうか、何度頭を過ぎった事だろう。しかしお腹の胎動を感じるたびに決断が鈍る、どうしたらいいのかも…産んでどうなるのかも、わからない…何もわからない。 でも、出来ない…産まないなんて、できない……ごめんなさい、ごめんなさい…ごめん…なさい。 何もわからないまま、その時はきて–––– 死ぬ方がマシなのでは無いかと思えるほどの激痛を耐え、自然に産み落とされた我が子は夢幻かと思える程愛しく、可愛らしい…ただ自分が母だと言う不幸を与えてしまった、こんな如何しようも無い女が母と言う不幸を天使の様な我が子に押し付けてしまった…罪悪感と悲壮感に押し潰され兎に角喚くしか無かった、縋るように助けをこう様に喚く、泣き喚く。 『泣くな……』 頭の中に声が聞こえた…優しく慰めるような温もりのある声音、こんな風に声をかけられたのは初めてだ。 まりなは涙でぼやけた視界を拭い目を凝らしてみると、産み落とした我が子がその愛らしい双眸で見つめていた、しかしその瞳にはどこか不思議な光があり、見える筈のない世界を既に見知っている様な。 ふと気がつくと我が子の全身は綺麗に処置され滑り一つない、いつの間にか切断された臍の緒は部屋のどこにも見当たらない。 「ふぇ、なんで…きみがやったの?さっきの声もきみなの?」 『––––––』 「もしかして…天才なの?」 『なんでそうなる?!』 「やっぱり!!すごい、すごいよ!産まれたばっかりなのに!よかった…産めて、よがっだぁあ」 『だから、泣くな…怖くないのか?普通こんな事あったら、悪魔の子供だとか言って泣き喚くぞ?』 事実そう言った経験がエリヤにはある、言葉は発せないが相手の脳内に直接感情を送ることなど造作もない。 悪気は無かったが産み落とされ覚醒する瞬間はどうにも気分が悪くつい悪態をついてしまったりして周囲を恐怖に戦慄させた事が何度かある。 「全然怖くない、だって天使みたい…とっても可愛い…私からこんな天使みたいな子が産まれてくるなんて…信じられない、わたしみたいな女から…しかも天才が産まれるなんて、でも…きみはいやだよね…私みたいな母親…ごめんね」 『…別に、もっとヤバい奴はたくさんいたしな…途方もない時間のほんの一瞬だ、気にするな…』 「慰めてくれてるの?産まれたばかりなのにそんな事出来るなんて…本当に私の子?」 『あんたも大概ヤバイな……まあいいさ、あんたが一人で生きて行ける様になるまで、俺があんたの『幸運』になってやる』 「ありがとう、『未来みらい』は優しいのね。こんな母でごめんなさい、まだこの先どうしたらいいのか全然わからないけど、『未来みらい』の言葉が聞けてとても勇気が湧いたの、産まれてすぐの赤ちゃんと話せるなんて、私実は物凄く幸運?」 『変わり者ではあるな、ところで『未来みらい』っていうのは……』 「あなたの、名前…私にとってあなたは『未来みらい』だから、そのまんまだね…だけど、お願い」 『……好きにしてくれ…俺は…』 「後一つだけ、もしね…未来みらいが嫌じゃ無かったら…ママって呼んでくれないかな…ダメ?」 『……母上』 「いやぁん…照れちゃうよぉ〜くふふふ…」 母……『まりな』はどうしようもなく『足りない』が、心根の優しく穏やかで深い愛情の持ち主だった。 俺は、少しだけ環境に手を加え、仕事と住まいを整えた。しかし、生来努力家であった『まりな』は型にさえ嵌めてやればそれなりに出来る人間だったので、特に俺の力を必要とするでもなく…いや、使わせまいと必死に努力して生計を立て、二十年……俺を女手一つで育て上げた。 俺は、この生での役割を終えたという実感と共に、まりなを一人残して死を迎える事に僅かな躊躇いと僅かにでも今の環境に幸福感や充実感を覚えてしまう事への恐怖との葛藤。 過去を引き継ぎまた初めから産まれるエリヤは、決して忘れる事ができない事に…いつまでも安寧の時を迎えられないエリヤにとって幸福や愛情を持ってしまう事に恐怖を抱いていた…幸せな日々はいずれ崩れ去り、エリヤだけが忘れる事なくその日々が過去が亡霊となって付いて回る、決して逃れ得ぬ定めとして。 故に、誰かと深く関わりを、繋がりを持つ事を遠ざけて––––。 エリヤは逡巡する、まりなとの日々を決して悪くないと感じてしまっている自分がいる事、関わりすぎた… 永遠の様に続く時を生き、初めて死に対し迷う。死に対する恐怖はない…繰り返してきた彼にとってもはや死は、チャンネルを変えるためのスイッチに等しい…故に死と生の綱渡りを、進路を決める程度の感覚で渡っている。 現実に渡っていた、今エリヤが立っているのは、とある大学の屋上…を囲うフエンスの上をポケットに手を入れたままの横着な態度で歩いていた。フェンスが何のために設置してあるかは明白…間違っても人が落ちないため、それを超えるのは自殺志願者か余程の変わり者…エリヤは両方に当たるのだが。 地上10階建の建造物からの落下は、死を与えるのに十分な脅威であり下から吹き上がる風はまるで手招きをしているかの様に『変わり者』の全身を煽る。まさに両端に生と死を置きし思案顔で綱渡りをしているエリヤに声をかける『変わり者』が一人… 「紅月くん?…ぇっと…死んじゃうよ?」 可愛らしいがどこか自信の無い声の主は、ブラウンのショートヘアを風に揺らしながら髪と同系色の双眸に憂いと熱情を秘めた眼差しをエリヤに向け、華奢で少し小さめな体躯を僅かにビクつかせながら恐る恐る声をかけた。 「…熊崎くまさきか?……なんでここに?」 「わ、私の名前…覚えていてくれたの…?あ、紅月くんこそ…こんな所で、て…そろそろ降りないの?本当に死んじゃうよ?紅月くんみたいな凄い人が死んじゃったら、私の…いや、この大学…日本の損失だよ!大損失だよ?」 「大袈裟だ…俺はそんなに高尚な奴じゃない。それに覚えているも何も、お前、中学の時からずっといるよな?流石に高校、大学まで一緒だと普通覚えるだろ?」 「紅月くんは特別だよ…とっても有名人だし…私なんか……」 「紅月くんは…悩みでもあるの?こんな場所で…その…そんな所に立って……本当に死んじゃうよ?」 実際エリヤはかなり目立つ存在になっていた。高校を首席で卒業後、特待生として大学へ進学。 それらも単に母まりなへ、息子を大学進学させたという名誉でも贈ってやろうとちょっとした思いつきである。 そしてエリヤは大学でも五本の指に入る美丈夫であった、その容姿は『エリヤ』であった頃の面影が色濃く残っており元々美麗であった容姿はどの人種に産まれても変わる事なく健在。 そして現在『紅月未来みらい』として生きるエリヤは…黒と白、即ちセカイに転移した祐真の姿と酷似していた。 「悩みか……そうだな、初めて悩んだ…かもな…ただ俺は執着すべきじゃないんだ、生にも世界にも」 「…どういう事かうまく理解出来ないけど…本当に死のうとしてるの?」 「……だとしたら?」 熊崎くまさきこと『熊崎くまさき恵光えみ』は遠い目をして独り言ちるエリヤを眺めその姿に沸々と湧き上がる熱に身を焦がす想いだった。恵光えみがここにいる理由は一つ、エリヤが登って行くのを見かけ付いてきたのだ。 恵光えみの目に映るエリヤはいつも光って見えた、ただその光は儚げで淡い光–––– 初めてエリヤを見たのは中学の入学式…周りの幼い同級生に比べ明らかに大人びていたエリヤは浮いていたが恵光えみはその姿を自身の瞳に収めた瞬間、心を一瞬にして鷲掴みにされると同時に、容姿とは違う意味で彼の放つ儚げな光が酷く美しく感じたのだ。それから恵光えみはずっとエリヤを見続けてきた。引っ込み思案な彼女は遠くから見つめるのが関の山だったが、エリヤの側にいたい一心で高校、大学と必死に追いかけて来た。 そして今、はち切れそうな胸の高鳴りを抑え、震える手でスカートの裾を掴み一世一代の告白を決行する。 「私も…私も一緒に死なせてください!!」 「何?…意味がわからん…何故、熊崎くまさきが一緒に心中するんだ?」 「紅月くんの見えない世界なんて、私には無意味だから!…もし、もしどうしても死にたいなら…その命私に下さい……それでも、ダメなら…私も一緒に死ぬ!今ここで!」 脅迫…それは紛れもなく愛の脅迫であった。全身の震えを抑えエリヤに思いの丈をぶつけた恵光えみはエリヤの立っているフェンスによじ登り身体を折り曲げるようにして鉄棒に半身を預けるような格好で、腕と腰に体重を預けエリヤの足元にたどり着き、今にも溢れかえりそうな程、涙を溜め込んだ双眸をエリヤに向ける。 エリヤはその様子に驚きながらも、震える恵光えみをみて込み上げてくる感情に蓋が出来ずついに–––––– 「……ククッククク、フフフ、ハハハハハハハ」 「…紅月くん?」 不安定な場所で腹を抱え笑うエリヤを目にして途方に暮れる、しかしその笑みは嘲笑などではなく心から溢れる楽しげな笑み。 「熊崎くまさき、お前面白いな。何千年ぶりだろうか…笑うことなんか久しく忘れていた……」 予想外の行動と、いきなりの理不尽な愛の脅迫に虚を突かれたエリヤは嘘偽りのない可笑しさを心から感じ思わず笑ってしまった、それは永劫の時に置き忘れて来た感情…それが一人の普通の女性によって蘇る。 「そ、そうかな…そんなに笑われると…恥ずかしいょ……キャァアッ」 表情を赤く染め、羞恥に耳まで赤らめた恵光えみは思わず前のめりに身体を回転させてしまいそのまま地上10メートルの上空へ放り出され–––––– 全身に浮遊感を感じ恵光えみの脳裏に走馬灯が駆け巡る。 『あぁ…最後の最後で、なんてダメなんだろう私…紅月くんとせっかくお話出来たのに…死んじゃうのかな…あんな事言っちゃったけど…やっぱり怖いな……紅月くんに嫌な所見せちゃった…嫌われたかな……でも死んじゃったら、意味ないかな…でもでも、落ちたらベシャってなるよね…そんな所見られたくないよぉ……し、下着何はいてたっけ?!変なのだったら恥ずかしい…死ぬ間際に何考えてんの私…』 「あぁ同感だ、結構余裕だな?熊崎くまさき」 「へ?あかつきくん…??ここは?天国?」 「いいや、屋上だ」 ふと気がつけば浮遊感の代わりに全身を包み込む暖かい感覚と視線を向けた先に映り込むエリヤの横顔…至近距離で初めて見る端麗な容姿に一瞬昇天しそうになるが首をブンブンと振り我に返る。 「私…落ちたよね?」 「あぁ、落ちたな」 「でも、今紅月くんに…お、お、おおお、お姫様抱っこ……」 「熊崎くまさき?……おい?どうした?」 熊崎くまさき恵光えみは昇天した。 腕の中で気を失った恵光えみを見て、エリヤの心は僅かに和むのを感じると同時に…自分の心の変化をまた、恐れていた。これ以上大切と思ってしまうものが増える事に…
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