「色欲」のち「恋欲」

1/2
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

「色欲」のち「恋欲」

「………ここは、どこだ?」 何もない無機質な場所それは目が覚めた時いつも居る、いつもの『部屋』––––––。 「あぁ…寝ていたのか…全部夢、だったんだな……」 起き上がり、あたりを見回す。一面打ちっぱなしのコンクリートの様な冷たい空間…ただ一枚丸いドアノブがついた黒く重々しい扉。そこを開くと『記憶にある風景が継ぎ接ぎに混ざり合った歪な空間』が広がっている、その有様は混沌と表現する他ない。 「風呂……どこだっけ」 いつも、起きると風呂に入りたくなる。特に背中の辺りがベタベタして気持ちが悪い…早くこの嫌悪感を洗い流したい… 『お前…ここ好きだな?』 突然背後から声をかけられ振り向くと、全身黒づくめで腰に刀を携えた眼光の鋭い男がこちらを睥睨し、笑みを浮かべ立っている。 これは、いつもと違う…… 「いつから、そこに?あんた……誰だ?」 『お前こそ誰だよ?』 「俺…?俺は……誰だ、俺は……」 頭の中をかき回される様な感覚に襲われ、酷く気分が悪い。その時ふとある『名前』が浮かんできたのでそのまま口にする。 「俺は……エ…リヤ?」 『エリヤは俺だ、お前は誰だ?』 「え?そんな…はずは、確か…刀が…そして名前を…あれは夢…俺は誰なんだ?教えてくれ、俺は誰なんだ?」 頭が痛い、混乱して感情が高ぶる。そして目の前の男に叫ぶ様に問いかけた。 『俺には関係のない話だな』 エリヤは睥睨する姿勢を崩す事なく問いかけを一蹴すると、静かにその口を開く。 『お前は、いつまでここに居るつもりだ?楽しいか?』 「ふざけるなっ、好きでこんな所にいるわけじゃ…ここは何処で俺は誰なのか教えてくれ!俺は何なんだ、何か大切な事を忘れてる気が…頭が痛い……」 『––––強請ねだるな、お前の価値はお前が決めろ』 「うるさい、うるさい!俺は…俺は…そうだ……力さえあれば、力さえあればこんな事にならなかったんだ!力があればあの子も……レインも守れたんだ…力さえあれば、お前は俺の力だろ?お前は俺のはずだ!」 『酷い顔だな……お前が俺?俺は俺だ、お前じゃぁない。いい加減に目をさませよ、お前の感情にレインを巻き込むな、お前は弱い…ただそれだけだ、力があろうが無かろうが、あの時お前はレインを守れなかった。今のお前に守れるものなんて一つも無い。自分を見失い、何かのせいにしか出来ない…前を向けないお前に出来ることなんか一つもない。目を逸らすな、都合のいい自分を見るな『本当の姿』を見ろ』 エリヤが前に手をかざすと虚空から等身大の姿見が現れ––––。 そこには二十代前後の痩せこけた短髪の青年が立ち、スラックスにシャツという仕事帰りの様な姿……焦点が合わない双眸をこちらに向けている。その眼に生気はなく窪んでおり、頬はこけて青白くなった表情はまさに死顔だ。 「誰だ、これは……違う、俺はこんなんじゃない……違う!違う!!」 『それがお前だ、現実を見ろ…許容し、自覚しろ…自分が何処に立っているのか』 混乱し、発狂しそうになりながらも言われるがまま視線を恐る恐る身体へと巡らせると、白いシャツが背中から左腹部にかけて真っ赤に染まり、シャツと皮膚がベッタリと癒着していた。 「これは…血だ––––。た、助けてくれ!?死ぬ、死んでしまう…俺はまだ死にたくない、死にたくない!」 縋り付くように懇願しながら、エリヤに近づいていく。 その身体に触れる手前で、エリヤは最も許容し難い事実を突き付ける。 『お前は死んでいるよ、とうの昔に––––––』  ガバッと着ていたシーツを蹴り飛ばし起き上がる。 「ここは!?……夢?……さっきの夢は」 額に大量の脂汗を浮かべ、状況に追いつけていない頭を揺さ振る。辺りを観察すると、そこは優に二十畳はありそうな、ゆったりとした空間。洗練されていて落ち着いたデザインの家具や装飾が存在を主張し過ぎずに調和を保ち空間をそれでいて豪奢に飾っている。 キングサイズのベッドは全身を優しく包み起き上がる気力をいつまでも起こさせない心地良さ、さながら一流ホテルのスイートルームと言った雰囲気。そして視界の端に捉えたのは黒を基調とした洗練されたデザインのドレッサー、そんな事は気にも止めずドレッサーの鏡面へと駆け寄り自分の顔を確認する。 そこには、夢で見たエリヤと同じ顔が不安そうな面持ちでこちらを覗き返していた。頬に手を当てれば鏡写しに反対側の手を当て、口を開ければ同じく口を開く、紛れもなくそこに写っているのは自分の姿。 「夢か…夢だよな…よかった……やっぱりこの身体は俺のじゃないか…この力も俺だ、俺自身の物だ、俺はエリヤだ……俺の物だ」 微妙に震える身体を押さえつけるように、腕を組み自身に言い聞かせる。 「それより、ここは何処だ……俺は確か、エステルと二人組の男を……ダメだ、記憶が曖昧で思い出せない」 部屋の中央に堂々と佇む革張りの高級そうなソファーへと近寄り腰を下ろす、その表面は柔らかく腰と背中に程よい反発を与え受け入れる。 ソファーの前に置かれた木目のローテーブルに説明文のようなパンフレットのような情報が書かれている紙が何枚かまとめて置いてあるがそれが何を意味しているのか判断する事は出来ない、何故なら初めて見るこのセカイの文字は全く読めるものではなかったからだ。 「言葉は理解できたが……文字は無理か、雰囲気的にホテルみたいな感じだが、一体ここは何処なんだ」 その答えはドアをノックする音と共に訪れる––––––。 「エリヤ様、お目覚めでしょうか?」 ドアの向こうから清楚で澄んだ女性の声がエリヤに問いかける。 「あ、あぁ、今開けるよ」 ドアノブを回しゆっくりと扉を開けると端整な顔立ちでブロンドの髪を丁寧にアップで纏めた女性がクラシカルなメイド服を身に纏い上品な佇まいで手を組み、軽くお辞儀をする。見る限り人間のようで、年齢は恐らく20前後と言った所だ、凛とした翡翠の瞳がその美しさを引き立てている。 「お目覚めになられてよかったです、代表よりエリヤ様のお加減を気に掛けるよう仰せ付かっておりましたので定期的にお部屋の様子を伺いに来させて頂いていました」 「そうか、代表?ちょっと記憶が曖昧なんだ、詳しく説明しろ…ここは何処で……あんたは?」 「申し遅れました、私はこちらのお部屋を担当させて頂いております『リリス』と申します。こちらはハランの宿泊施設『いこいの森』のVIPルームで御座います。代表が昨晩、気を失われたされたエリヤ様を当施設まで運ばれたのです」 エリヤの不躾な物言いにも嫌味のない完璧な笑顔で応えるリリス、その雰囲気は洗練されていてこの施設のレベルの高さが窺える。 「いこいの森?!じゃぁここが『おばちゃん』のやってる宿か?雰囲気が違いすぎるだろう…」 「はい、代表と初めてお会いになる方は皆さん驚かれます。代表は当施設だけでなく商団ユニオン『グリズリー商会』の代表もされていて、ユニオン加盟国における販売シェア率は八割以上を誇っております」 「へぇ、すごいな、おばちゃん。セカイの販売市場ほぼ牛耳っているじゃないか、なんでそんなすげぇおばちゃんが、何で串売ってるんだ?」 「代表は、市場調査や新製品の販売などを直接行われるのがお好きで、色々な国に出向かれては直接現地の方々と交流をされているのです。何より代表は人の繋がりを最も大切にしておられ、エリヤ様のようにご縁を感じられた方への先行投資を惜しみません、私もそんな代表の姿に強く尊敬の念を抱いております」 リリスは翡翠の双眸を輝かせ、雄弁に尊敬する代表『おばちゃん』の事を語るその姿は憧れが嘘偽りでない事が見て取れる。 そして熱く語るリリスの表情からも『おばちゃん』の人望の厚さが窺えた。 「それよりもエリヤ様、お加減が宜しいようでしたらお召替えをなさっては如何でしょうか?お召し物をお預かりさせて頂ければ、すぐに綺麗にしてお持ちいたしますので、その間にご入浴やお食事をなさって下さい」 にこやかに説明し着替える事を促すリリス ふと自分の姿に目をやると、全身に泥や血の跡のような物がこびり付いて小汚い格好になっていた。 「そうだな……ずっと着替えてないから助かる、頼めるか?」 「はい、一時間程お時間を頂ければ仕上がりますので、浴室にセットしてあります室内用のローブをお召しになってお待ちください。仕上がったお召し物とご一緒にお食事をお持ちいたします」 「何も聞かないんだな、これ多分血だぞ?しかも俺のじゃない」 リリスはその表情を崩す事なくエリヤの問いに応える。 「はい、私共はお客様のプライベートには一切干渉しないのがルールですので、それに代表がお連れした方ですから、疑う余地など御座いません」 「なるほど徹底してるな、まぁこっちとしては有難い話だ。じゃぁ頼む」 「畏まりました、ではお待ちしておりますので脱衣所でお着替えになられて下さい」 エリヤは脱衣所に入り、着ていた服を脱ぎ…置いてあった肌触りの良い高級感のあるローブを羽織った。不意に脱衣所に設置してあった鏡にエリヤの姿が映る、夢で見た鏡の自分が蘇りエリヤの表情に暗い影を落としていく。 「あの夢は……あんなの俺じゃない、これが俺の姿だ、俺の力だ」 『そうだ、お前の力だァ』 頭の中に声が響く、今まで聞いたこともない…粘着質でねっとりとした耳元に纏わりつくような、男とも女とも取れる不気味な声。 「誰だ?!」 辺りを見回すが誰もいない。 『誰でもないさァ……お前自身だよ』 「意味のわからない事を言うな、姿を見せろ!」 全身から冷や汗が噴き出してくる、身体中をとてつもない嫌悪感と醜悪な悪意に包まれているようだ。目の前にある鏡がエリヤを映し出し、目線を向けるとその背後に黒く禍々しい靄が纏わりついているように見えた。 エリヤは慌てて背後を振り返るが何も無い。 『力があるんだァ、全てお前の思い通りだろゥ?』 「俺に話しかけるな、お前には関係ない」 粘着質な声が語りかける度に言いようの無い嫌悪感に襲われ、靄を振り払おうと手を振り回すが鏡に映る禍々しい靄はエリヤに纏わりついている。 『お前の好きにィできるんだァ、何も我慢しなくていいじゃ無いかァ』 「うるさい!一体誰なんだ、俺は何も我慢していない!」 『あの女ァ可愛いよなァ、まだ部屋にいるんだろゥ?』 エリヤは一瞬口を噤む、しかし目を血走らせ鏡の自分を睥睨しながら反論を続けた。 「だからなんだ?お前には関係ない、どうでもいい事だ」 『強がるなョ、頭の中はずゥっとあの女の服をひん剥く事でいっぱいだァ…犯したいよなァ、犯したいよなァ?好きにしたら良いじゃないかァ?お前は力があるんだ、邪魔する奴は皆殺しにすればぃィ』 「黙れ!俺はそんな事考えていない!そんな事のために力を使うつもりはない!」 『お前は望んだはずだァ、思い通りに生きる力を、なぜ思い通りにしなィ?さぁ、目の前の女に喰らいつけ、私欲の限り貪り尽くせョ』 「黙れっ!お前の言いなりになんかなってたまるか」 エリヤは思い切り鏡を殴りつけた、エリヤの顔を中心に放射線状の亀裂が入る、破片が辺りに飛び散りその拳を引き裂く。握りしめた拳から血の雫が滴り落ち、陶器の受け皿を赤く染めていく。 「違う、俺は……そんな事考えていない、そんなのは俺の考えじゃない……絶対に違う」 「エリヤ様?!如何なさいましたか?凄い音がしましたが、大丈夫ですか?」 叫び声と物音に異常を感じたリリスが浴室へ続く扉に近づく。 「来るな!大丈夫だ、なんでもない……悪いが出て行ってくれないか」 エリヤの重苦しい雰囲気を察知して逡巡するリリス、しかし彼女は引かなかった。 「エリヤ様お怪我をされたのでは無いですか?代表にくれぐれも無茶をさせないようにと仰せ付かっております!差し出がましい事を言って申し訳ありませんが大切なお客様の大事は見過ごせません、扉をお開けして宜しいですか?」 リリスの仕事に対する熱意と、代表から任された客人に万が一の事があってはならないという責任感。そして現在エリヤの状況は普通では無い、そう判断しリリスはエリヤの安否を確認する為一歩も引かない。 「よせ!俺は大丈夫だから、早く出て行ってくれ」 エリヤは恐れていた、万が一にも『不気味な声』の言う通りになるつもりなど無い。しかしこの掻き乱され不安定になった状態で一度でも『想像してしまった』感情が今リリスを見てしまう事で暴走してしまうのではないか、理性が飛んでしまうのではないかと言う動揺に駆り立てられていた。 「いいえ、そうはいきません…お顔だけでも確認させてください!お加減が悪いなら言って下さらないと困ります」 リリスは扉の前に立ちノブに手を掛ける。 「来るなと言っているだろうが!早く出て行け!!」 エリヤの怒声に一瞬怯み、涙目になるリリス。しかし、このまま状況を確認せずに出て行けば、もしエリヤに何かあった時の対応が遅れてしまう…リリスは覚悟を決めエリヤに声を掛ける。 「わ、私はエリヤ様にもしもの事があったら代表に顔向けできません、せめて事情を説明して下さい…明らかにご様子が先程までと違います!一体如何されたのですか?私でお役に立てる事があれば仰ってください!」 リリスは震える声で懸命に食い下がる、それ程までに彼女はこの仕事を大切に思っているのだろう。 『お前に犯されたいってよォ、ほォら犯せよ、想像してたじゃないかァ、メイド服をズタズタに引き裂いて、ドロドロに汚してやれョ、相手も望んでるんだァ、さぁ、ヤれ』 「うるさい、うるさい!俺に話しかけるな!俺の頭から出て行け!!俺はそんな事しない!無害な相手を傷つけたりしない!」 『はははは、無害かァ……魔獣はゴブリンはお前に何かしたのか?あいつらは温厚な種族だァ、お前は斬ったよなァ?なぜだァ?殺したかった、ただそれだけだろ?今と何が違うんだァ?』 エリヤの中で何かが壊れた気がした、頭の中に正当化する為の言訳がぐるぐると回り続ける、しかしそれは正当化されることは無い。中途半端な正義感を振りかざすには、その事実は余りにも重すぎる。身勝手な自己都合、自己解釈で、平和に生きる無害な種族を惨殺したのだ。しかし今のエリヤにそんな事実と向き合う精神的余裕はない。 「違う、あれは……違う、俺は魔獣を討伐しただけだ、俺は悪くない!ゴブリンは敵だろ?!魔獣は悪だ!!俺は悪くない!」 『あぁ、その通り、魔獣は悪……そんな事、当たり前ェ…誰がァ言った?魔獣は悪だってェははははは、お前が決めた価値観だよなぁそれ?だったら人も一緒だろうゥ?』 「違う…人間と魔獣は…違う生き物だ…」 『そうかァ…なら人間を殺したお前ェは…咎人なわけだァ…どうするんだァ…なァ、なァ、死ぬかァ』 「人を…殺した…俺が……嘘だ、でたらめを言うな……一体誰を……ぁ」 残酷にして残虐な記憶、自身の視点から見る阿鼻叫喚の地獄絵図が蘇り、全身を猛烈な怖気が遅い震えと共にこみ上げてくる吐瀉物をその場で吐く。 「あ…ぁ………あいつらは悪人だったしょうがなかったしょうがなかったんだだってあいつらは悪人だったから俺のことを笑ったし人を傷つけてたからあいつらは…殺した…俺が?殺した、殺した––––––」 ガラガラと音を立て崩れゆく心は為す術もなく崩壊し、その罪悪は精神を自我を自己を喰い荒す。 『だから些細な事ォだよなァ…お前の価値観で判断していいんだよ、目の前の女はァ壊していいってなァ…大丈ぶ、お前ェは悪くないィ…悪いのは世界だセカイだ…環境だァお前ェを不幸にしたァのは人間だァ人だ!』 エリヤは声から逃げるように頭を抱え、現実逃避を続ける。中途半端な正義感が邪魔で、悪に開き直る事も出来ず、何もかもが中途半端な者が力を手に入れ目的もないままその力に呑まれ、都合の良い解釈で自身を守りながら狂気に堕ちていく。 「やめてくれ…やめろ、ヤメロォ!俺は悪くない…ワルクナイ…あいつが俺から何もかも奪ったあいつが悪いんだ…全部あいつのせいだ…俺は悪くない…」 「エリヤ様?!大丈夫ですか?!返事してください!開けますよ?!」 「やめてくれ、来るな…くるな…これ以上…俺を…」 『面倒な奴が、まぁいい…『兄さん』が消え去るのも…時間のォ問題だァ』 『お待ちかねの…ご馳走タイムだァ!堪能しろよォ?はははは––––––』 リリスが浴室の扉を開く、その視界に飛び込んで来たのは割れたガラスの破片、血の滴った跡、そして頭を抱え蹲っているエリヤの姿だった。 咄嗟にリリスはエリヤの前へ駆け寄り、その場にしゃがみこむ。 「エリヤ様?!一体何が……それよりお怪我は大丈夫ですか?!すぐに手当てを––––」 エリヤが不意に伸ばした手でリリスの華奢な腕を掴む、エリヤは濁り、混沌とした視界でリリスの顔を視認すると、腹の底から溢れだすドス黒い欲望が理性を塗りつぶす。 「お前言ったよな…できる事、なんでもしますって……お前ェが悪いんだぞ?」 「出て行けって…行ったァのに…俺を惑わしィた……お前ェのせいだ……俺を助けろよ…なァ」 リリスがヘナっと床に座り込む。身の危険を感じ抵抗を試みるが、エリヤの膂力に抗えず、尋常では無い雰囲気に気圧され、腰を抜かし動けない。 「え、エリヤ…さま…どうされたのですか…怖いです、わたし……そう言うつもりで言ったのでは……」 エリヤはリリスの両肩をゆっくりと掴み、荒い息を吐きながらその怯えた表情を見つめる。 頭の中は眼前の美女を汚して貪る事でいっぱいになっていた、もうそれ以外の事を考えられない、際限の無いドス黒い欲望が溢れ続ける。エリヤはメイド服越しにでもわかる豊満な胸囲から、ふっくらとした薄ピンク色の唇を卑猥な視線で見まわし、歪んだ表情に薄っすらと笑みを浮かべる。 リリスは美人だが真面目な性格で男性経験など今まで一度もない。しかし状況を理解し小刻みに震えながらただ目を瞑る––––––。 初めての体験に思考は停止し、目の前の異常なプレッシャーを放つ男を前に最早声を出す事すら出来ない。 エリヤはリリスの喉元にスッと手をやると、メイド服の襟に手をかけ下腹部まで一気にその布地を引き裂いた、ぶちぶちとボタンが弾け、裂けたメイド服からはほんのり熱を帯び淡く染まった柔肌が露出し、下着越しに露わにされた華奢な身体付きに似合わない豊満な双丘の谷間は男の下卑た欲望をより刺激する。 リリスは羞恥に悶え、悲壮な表情の目元からは僅かに雫が溢れ落ち頬を伝う。 「えりや…さ…ま。おねが……い…やめ…て」 リリスが華奢な身体を小刻みに震わせながら縋るように声を絞り出す。 エリヤは目の前であられもない姿になったリリスを見てその理性は崩壊し、露わになった下着越しの胸を乱暴に鷲掴んで弄ぐる。 「ひぁっ!やめ…んっ…やめて……お願い…します––––」 狂気に満ちた目線でリリスを舐め回すようにじっくりと見つめながら、強引に押し倒そうと力を強めた瞬間。 『それは、お前が決めた事なのか?』 ハッと我に返ったエリヤの目に僅かな光が戻る… 『善だろうが悪だろうが関係ない、決断したならその決意と向き合え、貫け』 曇っていた視界が明瞭になっていく、穏やかさと強さを纏った声色はエリヤの心を掬い上げるように手放しかけた意識が蘇る。 肩を掴んでいた力が緩み、そのままゆっくりとリリスを抱き寄せ、こみ上げる弱さを不甲斐なさを曝け出すように、会って間もない女性の肩口で嗚咽を漏らし溢れ出る涙に溺れながらみっともなく泣き縋る。 「俺は……なんて……事を……すまない、本当にすまない––––––」 「えりや……さま?」 今から起こるであろう事態を想像し絶望に陥りかけていたリリスも予想外の反応と雰囲気の一変したエリヤに一瞬戸惑うしかなった。 『お前は誰も殺しちゃいない…』 声が聞こえた…もっと泣いた。 一頻り泣き喚くエリヤを、リリスは強く抱き返し離さなかった。小さな子供を抱き抱えるようにその表情は慈愛に満ち溢れていて––––––。 「リリス、怖い思いをさせて本当に申し訳なかった、それに…情けない姿を…その…」 エリヤは僅かに自身のやろうとしていた事を想像し恐れ、震えていた。 もう何が何だかわからない、自分はどうしたのか、本当に壊れてしまったのか、やり場のない気持ちを整理できずリリスに縋ってしまった。 通常であれば、今しがた自分を襲おうとした男など突き飛ばし、走り去って助けを呼びに行く所だがリリスはそれをしなかった。 怖い気持ちに変わりは無い、しかし彼女の目に映るエリヤの姿は寧ろ哀れに思えたから、怯えているエリヤを慰めたい…そう感じ、抱きついているエリヤを包む様に華奢な腕で抱き返した。 「エリヤ様?大丈夫ですよ、安心してください……私も腰が抜けちゃって、すぐに動けないから…もう少しこのままで…」 そう言いながらリリスは徐にエリヤの背中を優しく撫でる。 「リリス…俺、こんな酷い事したのに……すまない。言っても信じてもらえないかもしれないが、誰かに操られてるような感覚で、自分でも何がなんだか……」 「そうなのですね、お辛かったでしょう。少し落ちついたら、リラックス出来るハーブティーをお入れ致します、ゆっくりお話しを聞かせて下さい」 「信じてくれるのか?それに俺のこと怖くないのか?」 「はい、エリヤ様は嘘をつく様に思えませんし、寧ろ怖い思いをしたのはエリヤ様も一緒なのかなと……」 あぁ…この子はなんて穏やかで心根の優しい子なんだ、こんな子を傷付けようとしていた自分が許せない。 それからしばらく二人は寄り添いエリヤはリリスの肩口で込み上げて来る言い様のない恐怖や不安をポロポロとさらけ出す、そんなエリヤの頭を優しく撫でながら… リリス自身先程の恐怖が嘘の様に消え、会ったばかりでまだ何もわからない男性が自分に身を寄せ泣いている姿に、不思議と愛おしさの様な感情を抱いていた。 そしてエリヤは思いにふける。 いつぶりだろうか、こんなに弱さをさらけ出したのは、どれくらいぶりだろうか、誰かに抱きしめてもらうなんて……心が暖かい…穏やかで、暖かくて……心地いい­––––––封を切った様に込み上げる愛しさ…『母さん』 何故そう感じたのか…頭の中にボヤけた懐かしい記憶が蘇る、朧げで顔もよく分からない… でも確かにその姿は––––––。 「エリヤ様、少し落ち着きましたか?」 「あぁ、初対面のリリスにとんでもない思いをさせてしまって本当に悪かった」 「あと…様はやめてくれ……そんな人間じゃない」 「フフ、まるで人が変わったみたいですね、ではエリヤさん……私今のエリヤさんは嫌いじゃないですよ?だけど……そろそろ恥ずかしくなってきちゃって…その…格好が…ね?」 二人は現在裸同然の格好で寄り添い合っている、リリスは冷静さを取り戻したが徐々にとても恥ずかしい状態である事を思い出し、心臓が飛び出しそうな程の鼓動を立てている事をエリヤにバレないよう必死に抑えていた。 「あっ!わ、悪い!ちょっと待っててくれ」 エリヤは顔を赤らめるリリスを見て慌てて飛び退き先程まで着ていた外套をリリスにそっと羽織らせ自分もいそいそと服を着る。 「あ、ありがとう……私男の人にこういう風にされるの慣れてなくて、なんか照れちゃうね」 リリスは完全に警戒心を解き、仕事中の凛とした雰囲気が崩れ、年頃の女の子らしく可愛らしい素顔を垣間見せる。 「そ、そんな事普通されないだろう!いや俺が全面的に悪いんだけど……」 「ち、違うよ!上着のこと!もぅエリヤさんのエッチ、フフ、でもありがとう」 エリヤは不意にリリスが見せた素顔に胸が高鳴り、鼓動は経験した事のない速さで脈打つのを感じる、心臓の音がリリスにまで聞こえてしまうのではないかと思うほど強く。アップに纏めていたブロンドの美しい髪が若干乱れて首元とに垂れ下がり妙な色気を醸すリリスにその意識は釘付け状態。 「コート…汚いままで悪い、俺が服ボロボロにしてしまったからな……新しい物を用意するよ」 「もう気にしなくて良いよっ、代わりの制服もあるし、それにこれとっても暖かい……」 自分の外套を着込んでほんのり照れた表情で微笑むリリスを見て思わず心の声が溢れる。 「可愛い…」 思わず漏れた心の声、掛け値無しの素直な心からの言葉だった、そして生まれて初めて女性に抱いた感情。 「えぇ!?えりやさん?!!急にど、ど、どうしたの?!て私普通に喋ってた!なんか急に気が緩んじゃって…ごめんなさい」 突然の一言に動揺し顔を真っ赤にしながらリリスはモジモジと表情を隠す。 「いや、良いんだ。その方が良い……リリスが良ければ、そのまま接してくれないか?それにさっきのは本心だ。俺はリリスの素顔を見て本当に可愛いと思った」 「えりやさん、そんな真っ直ぐ言われたら、私恥ずかしいよぉ、か、かわいいなんて…男の人に言われたの、初めてだもん……私、幼い頃からずっと宿の手伝いで今と似たような仕事をしてきてたから、歳の近い男の人と普通にお話しした事なくて、こんなに素の私を見られるの初めてで……でも今のエリヤさんなんだか凄く安心できる……正直あの時は怖かったけど、嘘みたいに今はなんともないの、だから…その……ありがとぅ」 リリスは照れながらもエリヤの顔を見つめ嬉しそうに話をする、実際リリスはかなりの美人だ、しかし仕事を優先的に仕込まれてきた彼女は、その凛とした佇まいと、非の打ち所もない仕事ぶりから安易に声を掛けさせない雰囲気を纏い、職場においても彼女と仕事の技量で並ぶものは殆どおらず、リリスも知らず知らずのうちに高嶺の花となっていたのだ。 故にエリヤとの時間はリリスの人生観を覆す程の出来事であり、今の自分の感情が胸の高鳴りが全て新鮮だった。リリスにとってエリヤはまさに晴天の霹靂。 「そうか、良かった。俺もリリスと出会えて嬉しいと思う、初めてなんだ、こんなに胸が高鳴るのは…俺は自分の事正直よくわかってないんだけど……リリスの事が…とても……好きだと思う」 今のエリヤに他意は無い、エリヤは混乱する自我の中で『自分』というものを、リリスと交わったことにより急速に取り戻しつつあった。その心根はまるで幼い子供のそれであり…… 「え……ぇぇえええええ?!!えり……やくん?今自分が、な、な、何をさらっと言ってるのかわかってるぅ?わ、私たち会ったばかりだし、ただその割に軽く一線超えた感はあるけど……」 「いやいやいや!あれは事故だもん、うん、事故だよ!嫌ってわけじゃ無いんだよ?ただ、いきなりすぎると言うかなんと言うか…でも、今のえりやくんだったら…あのまま『なし崩し的』にいっちゃっても良かったなぁ~とか……わ、わたし何言っちゃってんだろう?!」 「はっ?!友達として?!て事なのかな?そうだよね?きっと……それはそれで悲しい様な、いや!嬉しんだよ?だけど……もぅ、えりやくんの……バカ」 リリスはとんでもなく動揺していた、もちろん告白などされた事は皆無。敬称がいつの間にか変わっている事に本人すら気づいていない程動揺しまくっていた。 「いや、勿論女性として好きだよ。俺はさっきみたいな状況になってしまう怖さがあって不安定だけど、この気持ちはリリスに対する想いは本物だと思う。まだ会ったばかりだけど、わかるんだ……リリスがとても暖かくて優しい心を持った素敵な女性だって事が」 リリスの首から上が林檎の様に真っ赤になり、エリヤの言葉が彼女の許容量を完全に超え頭からは湯気が上がっている。 「落ちるわっ!こんなとんでもない状況になっても、ちょっと良いなって思えた人にそこまで情熱的に告白されて落ちない女子がいるか!」 リリスはもはや混乱を通り越して半ば壊れかけていた。 しかしエリヤは浮かない表情をして口を開く。 「ただ、俺は君が思う様な人間じゃない……だから今の自分の中に潜む『何か』と向き合ってこれ以上同じ過ちを繰り返さない様にしないといけない……俺は二度と君を傷つけたくない、その為に俺にできる事全部したいんだ……すまない、言ってる事がチグハグだな」 リリスは静かにエリヤの話に耳を傾けていたが、覚悟を決めた表情でエリヤを見つめ返す。 「えりやくん、ずるいよぉ。なんか最初とキャラ全然違うし、いきなりめっちゃ素敵になりすぎだよぉ!もぅ私ドキドキしっぱなしでおかしくなりそうなんだけど!私のキャラもどこ行った~?って感じなんだけど!?」 リリスは冷静に、しかし自身の中に芽生える熱意をゆっくりと噛み締めエリヤを見つめ。 「この気持ちが今だけなのか、よくわからないけど……少なくとも私はもぅ、えりやくんの事忘れられないくらいには傾いちゃってるよ?」 「全くとんでもない日だなぁ、今日は……最初はただのお客様だったのに、たった数時間でこんな気持ちになるなんて、自分でも信じられないけど……」 揺らめく翡翠の双眸は確かに、エリヤの瞳…その奥に混ざり合う『儚さと孤独』をしっかりと見据え、その表情を慈愛に満ち溢れた…今まで誰にも見せた事のない、否、見せる事など出来なかった穏やかな笑顔で––––。 「うん……私も好きだよ、私にもわかる、あの怖いえりやくんは本当の姿じゃ無いって…そしてあの時感じたの。不思議だけど、この人を守りたい…助けてあげたいって強く思えた」 それは、一人で孤高に生きてきたリリスの心をゆっくりと、誰にも開く事の叶わなかったリリスの殻を開く。 「だから決めた、私あなたについて行く」 リリスは少し視線を彷徨わせた後、恥じらいながらも決意した面持ちでエリヤに急展開な提案をする。 「リリス?……ありがとう、ただ俺は君を傷つけたくない。また同じ様になるかもしれない…危険な事に巻き込みたくない…」 エリヤは、意外なリリスの言葉に心の中で歓喜しながらも、その身を案じ…俯き答える。 リリスはそっとエリヤの座るソファーの横に腰を下ろすと、恥らいに赤面しながらも、もじもじと自身の両膝を抱き、エリヤの肩にその体重を預けるように…ちょこんと、もたれ掛かる。 自身の大胆な行動に耳までも真っ赤に染めながら、至近距離でエリヤを見つめ––––。 「また…同じ事になったら…私が……また抱きしめてあげる……何度でも…」 何処か艶っぽく、頬を染めながら小さく紡がれた言葉、直接体に触れる女性特有の柔らかい肌の感触と温もりが余計に感情を高ぶらせ、脈打つ鼓動がやけに響く。「それに」とリリスは続けて。 「…こんな状態でこんな想いにさせられて、ただ待つだけなんて……できないよ」 「だから私はえりやくんについて行く……こう見えても私は昔、冒険者に憧れて密かに魔法の練習もしていたのだぁ!」 「ふ、ふ、ふ、そして何と私は光属性の資質で回復と防御の魔法が得意なんだよ?どう?えりやくんに必要な人材でしょ?」 緊張と恥ずかしさを誤魔化す様に少し戯けた語り口でリリスはエリヤに気持ちを伝え、僅かに憂いを帯びた翡翠の瞳を揺らしエリヤの黒瞳を除き見る。 「リリス、でも俺は––––」 エリヤは逡巡しリリスを見つめ返す、二人だけの時が止まった様に静止して見つめ合う二人…… 恥ずかしさに根を上げたリリスは我に返り、エリヤから僅かに距離をとって透き通る様なブロンドの毛先を指で弄りながら向き直って。 「えりやくんが同じ様になっても私は怖くない……えりやくんなら…いいって言うか……」 「他の人に向けられるのはイヤなの、同じ様になるならそれは、私に向けてほしぃ……」 次第に大胆になって行く自分の態度に何度も赤面しながら、不思議と抑えられない感情に突き動かされリリスは惜しげも無くエリヤに自分の心をぶつけ、その想いを形にしていく。 「もぅ!恥ずかしいんだから言わせないでよねっ!えりやくんが良いなら……ちゃんと責任…とって?」 リリスは全身真っ赤なのではないかと思う、それほど身体が熱を帯びて行くのを感じながら、何故こんなにも自分が大胆になれるのか…何故初対面の彼はこんなにも自分の心を掴んで離さないのか…何故こんなに愛しいと感じてしまうのか…考えても答えは出ない。 ただ、目の前の彼はいきなり自分の前に現れ、命がけで文字通り『生きる』事しかして来なかった…必死に必死に『居場所』を勝ち取ってきたリリスの心に土足で入り込み、散々暴れた後で泣き喚くと言う傍若無人を働き…ただそんな彼に寄り添いたい…側にいてあげたい…いつでも抱き寄せて…慰めてあげたい…他の誰でもない、自分の胸で泣いて欲しい、この人の弱さを受け止めたい。 そして…だから…きっと…彼の前なら…私も弱くいれる気がしたから。 「リリス––––」 リリスを優しく見つめその震える瞳に応えようとした––––––。 刹那、全身をあの嫌悪感が襲い、本能がけたたましく警鐘を鳴らす。 「リリス!危ない––––––」 「キャアッ」 咄嗟にエリヤはリリスを後ろに突き飛ばす、すると直後にエリヤの腹部から禍々しく靄のかかった黒い手が飛び出し、先程までリリスが腰かけていたソファーを穿つ。 『外したねェ、そんな恋愛ごっこはいらなァいなァ、お前ェが受け入れたらァ意味がないよねェ!!』 粘着質なねっとりとした声が今度は部屋全体に聞こえた、そしてエリヤの背中や腹部から無数の黒い手がうねりながら生えてくる。 「リリス!逃げろぉおおお!」 「えりやくん?!嫌!私は逃げない、えりやくんから出て行って!」 リリスはそう叫び詠唱の構えに入る、しかし黒い手はそんな暇を与える筈もなくリリスの身体を鞭打つ様に真横から薙いだ。 「っ––––––!」 リリスはわき腹を咄嗟に腕でガードしたがミシッと言う鈍い音と共に真横に弾かれ壁に打ち付けられる。 「リリス!!んのやろぉぉお!!」 エリヤは刀を鞘から抜き、自身の身体から伸びる禍々しい黒い手を斬りつける、黒い手がエリヤの一閃により床に落ち消滅するも、切り口から新しい手が生えてくる。 しかしそれよりも問題はエリヤが黒い手を斬り落とす度、自身も腕を切り落とされたかの様な感覚と尋常ではない激痛が走る。 あまりの痛みに思わず刀を落としそうになるが、奥歯を噛み締め痛みを堪えながら黒い手を切り落とし続けた。 「俺は、この子を傷つけたくないんだ!やめろぉ!やめてくれぇ」 「えりや…くん、だい…じょうぶ、あなたには誰も傷つけさせない……」 「顕現せよ、聖なる加護ホーリープロテクト––––」 リリスは吹き飛ばされ腕と肋骨を骨折しながらも、その詠唱を止める事なく続けていた。 リリスが行使した魔法は光属性の中級魔法で対象を光の障壁で包み込み攻撃から守るが上級者になると対象の魔法を包み込んで封殺する事も出来る。 「えりやくん…ゴメンね、こんな…ことくらいしか……出来なくて」 障壁はエリヤを中心に発生し、黒い手の動きを封じた。 しかしその猛攻は更に苛烈さを増し、障壁を砕かんと攻撃を続けている。 「リリス、本当にすまない、俺なんかの為に俺と会ったばかりにそんな怪我まで負って、本当にすまない!」 エリヤは障壁が機能している間にリリスから距離を取るべく身を翻し、部屋の窓に向かって駆け出す。 「えりやくん、待って!ここは三階だょ!怪我しちゃう、それに…おいていかないで……待って––––」 エリヤやは一瞬リリスの今にも泣き出しそうな表情と満身創痍な状態を見て、唇を噛み締めその身を案じる。 しかし今は自身が離れることがリリスを守る最適解と確信して窓を大きく開けはなち––––。 「リリス、ありがとう。早く手当を受けて、巻き混んで本当にすまなかった、でも君に会えてよかった…」 そう言い残し窓から勢いよく飛び降りる。 「えりやくん!!ちがうの私、私、えりやくん…待って、待ってょ……私をおいていかないで…」 先程までの喧騒が嘘の様に静けさを取り戻す空間、開いた窓からは風が吹き上げカーテンを揺らしている。 なんとか窓際まで身体を引きずりながらたどり着くとリリスは顔を出して下を見下ろす、しかしそこにエリヤの姿は既に無く。 「こんな…怪我、すぐ治して追いかけないと、えりやくんがまた一人ぼっちになっちゃう…」 「あなたがいないと……私も…一人ぼっちなんだよ?」 そして痛みに悶えながらも立ち上がり、自身に簡易的な治癒魔法を施してその足を進める。 リリスは幼少の頃実の両親を事故で亡くしていた。そして宿を営んでいた親戚に育てられその働き振りが代表こと『おばちゃん』の目に留まり現在に至る。 リリスにとっての幼少期は過酷な日々。とにかく働き、役に立つ事でしか自分の居場所を確立できない。その環境ではそれ以外リリスが生きていく術はなかった、仕事において無能と見なされればその家に居場所はない。それほど厳しい環境でまさに死にものぐるいで生にしがみ付いてきた。 僅か8歳の少女にはあまりに過酷な環境––––––。 しかしリリスは完璧にこなした、笑顔を絶やす事なく要望を満たし続ける事で生きてきた。故に彼女が抱える孤独を知る者は少ない。 リリスの、笑顔という殻を破り手を差し伸べる者など今までいなかった。 しかし、その腕でエリヤを抱いた時…リリスの中に彼の悲しみ…そして途方も無い孤独が流れ込んで来たのだ、そしてエリヤの心に触れ、人生で初めて誰かと共有し分かち合う事が出来たような気がしたリリスはエリヤに愛情にも似た感覚を覚えた。故にエリヤの言葉や自分に対する想いがとても嬉しく思え…彼の本質に心惹かれた。 リリスは動ける程度に治癒を終えると、着替える事もせずただ羽織っていたエリヤの外套を前だけ閉め、彼の後を追うべくその場を後にする。普通では無いリリスの様相に同僚が数名「何事かと」声をかけるが、今の彼女にそんな言葉は入ってこない。 今まで見た事もない彼女の表情に只事ではないと辺りが騒ぎ始めるが…どこ吹く風といった感じで颯爽と正面玄関へと向かい––––––。 そこに恰幅の良い赤毛の女性がリリスの前に立ちはだかる。 「リリス」 その女性は咎めるでもなく、事情を聞く訳でもなく静かに優しい声色で名前を呼んだ。 「代表、私は私があるべき居場所を見つけました、今からそこに行きます」 「そうかい、落ち着いたら連絡よこすんだよ?エリヤの所だろ、しっかり支えておやり」 女性は全てを悟ったような口調でリリスに語りかけた、その眼差しは娘を想う母の様で。 リリスはその言葉に目を見開き一瞬で美しい翡翠色の双眸から真珠の様な涙がボロボロと溢れ落ちる、しかし今は泣いている場合じゃないと力強く目元を拭い、言葉を返す。 「代表、今まで大変お世話になりました。私の我儘を許してくださり、感謝致します!行ってきます」 「まちな、これをあの子に渡しとくれ、それと表に人を待たせてある、会うと驚くかもしれないけどね…きっとあんたを導いてくれるはずだ。リリス……あんたはいつまでもウチの職員だよ、何かあったら頼っておいで」 「はい!ありがとうございます」 リリスは小包を受け取ると正面玄関を開きその場を去った。 数少ない言葉、側から見れば何の事か意味がわからないだろう。しかし二人にはそれで充分通じ合える、リリスは代表にとって最も信頼の置ける部下の一人、しかし同時に彼女の生き方に不憫さを感じていた。 いつか自分の為だけに生きて欲しい。リリスの素顔を晒せる環境に巡り合って欲しい。そう願いリリスの行く末を案じていたのだ。エリヤの専属にリリスを指名したのは偶然ではあったが、何か感じる物があったのかもしれない。 「まったく、跡取りはあの子しかいないと思っていたんだけどねぇ。とんだ先行投資になっちまったよ…」 「行っておいで、幸せになるんだよ」 『おばちゃん』の目頭から不意に熱いものが溢れる。 この後エリヤに貸した部屋の惨状を見て『おばちゃん』が更に頭を抱える事になるのはまた別の話。 勢いよく飛び出したリリスの目の前には3人の男女、その中の一人と目が合い、リリスは口元を両手で覆い叫んだ。 「えりやくん?……とそっくり?あなたはどちら様ですか?!」 目の前の男性は顔だけならエリヤそのもの、しかし纏っている雰囲気や外見がまったく正反対であった。 エリヤから刺々しさを取り去ったような、穏やかで柔らかい印象にエリヤの色彩を反転させたような姿。 しかしリリスは一瞬動揺するも、瞬時に別人と断じる。理由は一つ、『全くタイプではなかった』 顔は同じなのだが、リリスは祐真に対して全く反応しない。むしろ「若干苦手かなぁ」くらいの印象だ。 「驚かせてゴメンね、俺はエリヤじゃなくて紅月祐真。エリヤとは少し複雑な関係でね。彼の気配を俺は感知出来ていたのだけど…ここに来てその気配が消えてしまい困っていたんだ」 祐真はリリスの出で立ちに疑問を抱きつつも柔らかい口調で説明する。リリスは説明を聞き終えると訝しんだ表情を祐真に向け口を開いた。 「目的はどの様な事ですか?事と次第によってはご協力出来かねます」 リリスは真剣な眼差しを祐真に向け問いかける、その表情には並々ならぬ決意の色が浮かんでいた。 祐真はリリスの問いに逡巡するが、嘘偽りない気持ちを彼女に告げる。 「俺はあいつをエリヤを『助けてやりたい』と思っている、だから何か知っているなら教えてくれないか?」 真剣な面持ちで応える祐真を見てホッと肩の力を抜くリリス、その表情に僅かな安堵の色が浮かび。 「わかりました、今なら私の魔法がえりやくんに掛かっているので大体の居場所は感覚的にわかります…その代わり私も同行させて下さい!」 リリスの回答に祐真の疑問はさらに深まる、エリヤの外套を羽織ったボロボロの美女。 首元から僅かに見える服は明らかに破れており、彼女の身に異常な事態が起きた事は想像に難くない。 そして祐真の脳裏に最悪の光景が浮かぶ、エリヤが目の前の女性を傷付けてしまったのではないか、そう考え祐真は僅かに震える唇を噛み、リリスに問いかけた。 「君は、エリヤと何があったんだい?彼と君は一体……」 彼女はその質問に俯き小刻みに震えているように見えた、祐真は拳を強く握りしめ、覚悟をを決めて彼女の返答を待つ。 「私は…え、えりやくんの……恋人ですぅ…キャッ……言っちゃった」 リリスはゆっくり顔を上げると林檎の様に赤く染まった表情で視線を泳がせながらモジモジと応えてみせた。 「「『はぁあ!?』」」 リリスはクネクネしながら両手で顔を覆い、恥ずかしさに肩を震わせている。 「とりあえず、エリヤさんぶっ飛ばす流れでいいですよね?」 予想外のメンバーを迎え、祐真一行はエリヤの元を目指す。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!