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子供の頃、傘で空を飛ぶ魔法使いの絵本が好きだった。魔法の傘を広げて、自由に空を飛んでみたいと思った。
蒸し暑い、梅雨入り間近の6月。
『傘持ってます?』
会社帰り、駅のプラットホームで、急に背後から声がしてビクッとなった。
振り向くと黒いキャップを深々と被った色白の男が立っていた。顔は帽子でよく見えないが、声や風貌から30才前後だろうか。
こんな晴れた日に傘なんて持っているわけないでしょと思いながら小さな声で応えた。
『持ってません』
男は何も言わずスッーと歩いて行った。
さまざまな人が行き交う駅のホーム、ときたま妙な人と波長が合ってしまい、声を掛けられることもある、気にしないでおこうと思い家路を急いだ。
しかし次の日も、また男は声を掛けてきた。
『傘持ってないですか?』
今日は曇りだが、雨は降りそうにない、傘は持ってこなかった。
『持ってません』
今日は少し大きな声で、キッパリと答えた。
男は同情するような表情を浮かべ、消えて行った。
ふと、駅の張り紙が目に止まった。
「6月3日 0:20頃 当駅で女性が線路に飛び込む人身事故がありました。事故の状況を目撃者された方は、下記まで連絡をお願いします」
と最寄りの警察署名と電話番号が書かれていた。
0:20なら、ちょうど今頃、いつも仕事帰りにこの駅を使う時間だ。一年程前から、職場で退職者が続き、仕事を終わらせて帰るのが終電になっている。帰宅ラッシュにはハマらない時間帯で、確かに乗客は少ないから、目撃者はあまりいないだろうと思った。そう言えば、救急車のサイレンと、乗務員のアナウスを聞いた気がするが、あまり覚えていない、いつ頃だったか記憶が無い。毎日クタクタで帰る日々で、この駅にたどり着いた頃には、疲れでボンヤリしている事も多い。「逃げ出したい」なんて漠然と思う事もあるぐらいだ。
その次の日、またしても、あの男が声を掛けてきた。
『今日は傘持ってますか?』
さすがに、3日も続けておかしな質問を投げ掛けてくる男に、少しきつい口調で答えた。
『持ってますが、何か?』
お気に入りの花柄の傘の柄をギュッと握りしめた。
『そうですか。では今それを開いてください』
男は優しい口調で言った。私は、意味が分からず問いかけた。
『いったい、何なんですか?毎日毎日、傘を持っているのか聞いてきて。何なんですか?』
何故だか怒りが込み上げてきた、私は大声を上げていた。いいことなど一つもない。仕事は理不尽なサービス残業続き、そのせいで彼氏には振られる、毎日クタクタで……。もう、逃げたい‼日々のストレスが一気に爆発した。
なぜか、周りの人は何の反応も無い、まるで聞こえないかのように。
男は言った。
『大丈夫。傘があなたを楽にしてくれます。さあ、開いて。あなたはすでに、亡くなっているのです。気が付いてないようですね。私は、昔からあなたのような人を助けています。さあ、傘を開いて!』
私は、私は、死んでいたの?一瞬、目の前が真っ白になった……。心も体もボロボロの日々。いっそ、線路に飛び込んだら楽になるかも……と思った事もある。あの張り紙……、私だったの……⁉私は……私は……。
次の瞬間
『警察だ!』
駅員や乗客に変装していた警察が、駆け寄ってきたのは分かったが、私は気を失ってしまった。
後に聞いた話では、男は心も体も疲れ果てた終電を待つ人達へ何かを囁き、線路へ飛び込ませる姿が何度も防犯カメラに写っていたらしい。警察は、自殺幇助罪(じさつほうじょざい)で捜索していた。あの日、私が気を失っている間に、男は霧のように消えてしまったらしい。未だ捕まっていない。
私は職場に退職届を提出し、お気に入りの花柄の傘を広げた。どうやら、梅雨入りしたらしい。
『あなた、傘持ってますか?』
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