自転車

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自転車

初めて自転車に乗ったのは、五歳の時。 父が自転車を買ってきて、私を後ろに乗せた。 自転車で、家の近くにあった大きな公園を走った。夏の暑い日の事。被った麦わら帽子の隙間、両脇の道に生える木々の葉の合間に溢れる眩しい太陽の光が見えた。 向かい風と一緒に流れていく土と緑と水と青い空の混ざりあった風景が、絵巻物を眺めているように移ろっていくのが綺麗で、いつもとは違う世界の中にいる気がした。 でも、景色の移り変わりが気に入ったわけじゃない。 目の前に見える大きな背中を眺めているのが好きだったから。 乗っている間の会話はあまりなかったけれど、お互いの気持ちはきっと伝わっていた。少ない会話の中で、ふと父に“楽しい?“と聞かれて、“楽しい“と私は答えた。 それから、父の自転車に乗せて貰うようになった。 私が楽しいと答えたからなのか、よく休みの日や夜になると、自転車で散歩に連れていってくれた。 一人では家から出られなかった私を自転車の後ろに乗せて、夜の街の景色や昼とは違う風の温度、黒い空の広さ、星の数、知らない裏通りの道を教えてくれた。 幼い私に、世界にはこんなに知らないことがいっぱいあるんだと、父の背中が教えてくれた機会でもあった。 どんなに疲れていた仕事の後でも、私が自転車に乗りたいと言うと、文句を言うこともなく連れていってくれた。 “楽しいか?“ “うん“ どこまでも行きたい所へ。自転車をこいでいる大きくて、傷だらけで、強くて、誰よりも頑丈で壊れないあの広い背中を眺めていた。 私が望めば、何処までも連れていってくれた。自転車の先にある物から私を守ってくれていたあの背中を。 ずっと、眺めていたかった。 _____なのに、なんで? 走り続けていた自転車はブレーキ音を微かに鳴らして止まる。 振り向かず、前だけを向いていた背中が動いて顔が少しだけこっちを向いた。表情までは見えなかった。でも、辛うじて見えた口が何かを呟いた。 __“パパ“ 聞こえない。聞こえないよ。声が聞こえない。何か言っている口の動きから言葉を導きだそうとじっと見ても、何も分からない。鋭い太陽の光が、父の顔を黒く焼いた。周りをもやもやとした陽炎が、じわじわと揺れて境界線を作り出す。 何を言ってるの?“パパ?“ ボゥと思考回路が止まったままの私、父が自転車をゆっくりと降りて停めた。 豪腕の大きくがっしりとした腕と手が、五歳の胴体に回され持ち上げられる。 抵抗することもなく、私は白いアスファルトの上に降ろされた。 浮いていた足がくっついて、大きな父をただ眺めた。 “パパ?“ 父は私を降ろし、五秒ほど向かいあった後に再び自転車を停めていたスタンドを蹴ってサドルに乗った。私を置いて一人で動き始める。ゆっくりとチェーンがタイヤの間を回って私から離れていく。 ___“パパ“何処に行くの? ペダルを漕ぐごとに、チェーンは永遠とタイヤとタイヤの間を回り続ける。重たい大きなハサミで断ち切らない限り、回転運動は止まることなく加速する。 ずっとずっと同じところを回り続け、やがて私の前から消えていく。 留まることも、追いかける事も出来ない。ずっと回り続ける。 いつかは降りなければいけないことくらい分かっていた。ずっとチャイルドシートには乗れない程大きくなるってことを。…だけど。 ___“パパ“ 降ろすだけじゃなかった。 “パパ“は私を置いて消えた。 私は一人ぼっちで取り残された。 追いかける事も、戻る事も、許されない。 何にもないこの場所に、一人ぼっちにされた。 望んでもいない、望んでなかったこんな場所に一人ぼっち。 __“パパ“ 自転車の去って行った道の先を見て、一人茫然と涙が溢れた。 __なんで、私一人ぼっちでここに降ろしたの?何処に行ったの? これじゃ、何処にも行けないよ。だってここには、誰も自転車も何もないんだもの。 希望も夢も潰えて、培った全てが無意味になった。 こんなのが、私の世界じゃない。 シロク何もない。望んでもいなかった世界に勝手に連れてこられ、取り残されて、見えない鎖に縛られて、履いていた靴は鉛のように重くなった。 私の自転車はない。 回り続ける事も、一度止まって走ることも抜け出すことも戻ることさえも、出来ない。永遠と、止まり続けたまま、取り残される。 一人ぼっちのこの世界で。 静かに流れる涙を流し続けながら、自らの時を止めた。 取り残されたこの世界が、壊れるその時まで。
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