第一章

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「うぉぁっ!」 ガタン! と椅子と一緒に床に倒れて。 センの視界いっぱいに無機質に並ぶ鉄の棒が横並びに広がっていた。続いて頬に感じる埃臭くも冷たい感触。あぁ、床だ。あぁ、これ机の脚か。 「……戻れ、た…」 ピピピ ピピピ ピピピ ピピピ ピピピ 同時に机の上から携帯のアラーム音が響く。鳴りやまない電子音の中、センはゆっくりと起き上がって、手探りで画面を何度かタップしてアラームを止めた。 「はっ…はっ…はっ…はっ…」 一定のリズムで吐き出される呼吸は吐く事しかできず。上手く吸えない。あ、これはマズいとセンは口を閉じて。震える気道を無理やり広げて、鼻から大きく息を吸い込んだ。肺が破裂する寸前まで息を吸って、細く細く口から息を吐き出す。 「……ふ…ふ…ふぅ…ふぅぅぅぅぅ」 呼吸のリズムを正常に戻して、戻したは良い物のそこから体が動かない。立ち上がる事も出来ず、センは机の脚に額を当てながら、そっと首筋に手を当てる。指先からどどどどどと濁流の様な振動が伝わってきた。 「…アカン…これマジでアカン」 どうにか戻って来れた事に安堵して。辛うじて戻って来れた奇跡に戦く。 ここまで強いものは初めてかもしれない。引きずり込まれそうだった恐怖に。身体が震える。手を当てた指を見ればしっとりと汗で濡れている。 これ以上は自分の手に負えない。これ以上の調査は不可能だ。 何せ、見られた。本の中にある残留思念、本の中の鬼、本の中に潜むバケモノに。中に潜った自分の姿を見られた。序でに魅せられた。バケモノに目をつけられた。この感覚は少し前に安齋から聞いた話と酷似している。 あぁ、これが憑りつかれたという事なのか。 「安齋は…もう寮か」 独りしかいないはずの教室なのに、誰かにずっと見られている恐怖感。 人間相手に行かなくなった状況に恐怖がせり上がる。あぁ、情けな ≪失礼します。キノさん。呼びました?≫ 誰もいない教室に、柔らかくも芯のある聞き慣れた声が響いた。 「……い、いいんちょ?」 ≪はい。お疲れ様です。キノさん、僕の事呼びました?ってか、大丈夫ですか?具合悪いんですか?≫ ひょっとしてこのずっと見られている様な感覚はこいつだったのか? そう思えた瞬間、どどっとセンの下まぶたから水が零れてきた。 ≪え?きっ、キノさん?どうしたんですか?何かありました?≫ 「あ、あぁ…えっと…ごめん…待って…ちょっと待って…」 ≪はい。大丈夫ですよ≫ 「うん…」 何でよりによってこいつに助けを求めてしまったんだ。 何でよりによって潜ってる最中の声まで聞こえてしまうんだ。 これだから受信が強い奴は。 ≪キノさん、八つ当たりする暇があったら落ち着いて下さい≫ 「…るっせ」 ≪僕しか見えてませんし、誰にも言いませんから≫ 「……ごめん…」 ≪誰か、呼んできましょうか?≫ 「うん…お願い…助けて」 ≪はい。承りました≫ ずずっと鼻を啜って、涙を両手で払い落とす。 漸く平常心が戻ってきたような気がして、 「まだ誰かいるのか?」 「びゃぁっ!」 暢気な声とドアが開く音に、思わずバカみたいな声が零れた。 「…何してんだ?キノ」 「……何でもいいだろ…」 呆れた様な物言いに、思わず出てきた言葉は悪態だった。 「なんかあったか?」 「なんでもない」 「もう下校時間過ぎてるぞ」 「うっさい。今、帰る所」 「おぅ。帰れ帰れ」 委員会の顧問である以上、どう考えても委員長が呼んできたのが彼であるのは明白なのだが。どうしても先程の様な助けの口上が出てこない。いや、こいつを前にするとどうしてもそういう口の利き方になってしまうのがデフォルトなのだが。 それでも、どうしても動けなかった体はスムーズに動く事が出来る。我ながら単純な体だと内心悪態をつきながら立ち上がって鞄を肩にかけ、そのまま机の上にあった本を手に教室を出ようとした。 「…ん?おい、キノ」 「っ!いらうな!」 素通りしようとした委員会顧問がセンの肩を掴み、そのまま引き留めた。触れられた場所からいつもの様に見えそうになって、思わず身を捩って避ける。 「おぉ、すまん。つい…」 「……別に、良いけど…何?まだなんかあんの?」 「その本」 「これが何?」 「持ち出し禁止の奴だろ?」 「は?」 委員会顧問はセンの手から本を取り上げて。思わず反射的に取り返そうとしたセンの右手を払いのけた。 「こーら。お前のじゃないだろ」 「…あぁ、うん」 「どうしたんだ?これ」 「…知らない。机に置いてあった」 「中、見たのか」 「………」 「見たんだろ?」 「…………うん」 そか。 と、小さく声を発するだけで特にお咎めの言葉はなく。 「まだ図書館開いてるから返してこい」 「…図書、館?」 「ここの図書館。分かるか?北棟の4階」 「いや、流石に分かるけど…」 これはここの図書館の本なのか? だけどバーコードに何もなかったはず。 「これは図書委員の仕事だ。図書委員に任せろ」 「……分かった」 そのまま、すっと本を返された。 「ひとりで行けるか?」 「バカにしてんのかてめぇ」 「…いや、行けるんならいいんだ」 「はぁ?」 委員会顧問は少しだけ言いづらそうにあーだのうーだの唸りながら。少し落ちくぼんだ目で真直ぐセンを見下ろして。 「良いか?キノ。起きたこと全部、洗いざらい図書委員に話せ」 「……」 「大丈夫だから」 「…分かった」 大丈夫だから。 そう言って本当に大丈夫だった例はない。 年に1回行くか行かないかの図書館は既に閉館のプレートを提げていた。 「閉まってんじゃねぇか!」 思わずガンッ!とドアを蹴って。 内心ほっとした胸中でさてどうするかと思案に暮れる。 「適当な事言いやがってあの骸骨…」 この本が本当に何の危険もない、本当にただの怪し気な魔導書擬きであれば。返却ボックスにダンクシュートして帰ればいいだけなのだが。あの体験をした後のこれでは簡単に手放しづらい。非常に危険だ。根拠はないがそう感じる。今から芳川を呼び出して押し付けるのもアリか。よし、呼び出そう。 我ながらナイスアイディアと携帯電話を取り出して、電話帳から『芳川陽』の名前を探し出す。ぽんと画面をタップして、そのまま通話口に耳を当てた。 PRRRR PRRRR PRRRR 「……」 PRRRR PRRRR PRRRR 「……」 PRRRR PRRRR PRRRR 「……」 PRRR 「出ろやあんのあかんたれぇ!」 「あの…すいません」 「あぁん!?」 「ヒッ!」 全く出る気配のないコール音に苛立ちながら声をかけられた方向へと振り向けば、高等部1年の男子生徒が何冊も重ねた本を抱えて立っていた。 「…あ。お前、あの時の」 「え?は、はい?」 よく見れば、声をかけてきた彼は2週間ほど前に清生委員会の仕事で関わった事があった男子生徒で。名前は聞いてなかったが、会ったことがある時点で知り合いは確定だろう。センはぽんと画面をタップして通話を切り。そのまま男子生徒の方へと向かった。 「久しぶり。元気してた?」 「はい…?」 「あの後はもう大丈夫?特に何も聞いてないけど」 「はぁ…」 「……ん?」 反応が、薄い。かなり薄い。 薄すぎてほぼ、水だ。 目の前で彼は視線を上下左右にうろうろさせながら生返事を繰り返していて。 その様子に、センの中で1つの確信に至った。 「…ひょっとしてさ」 「はい?」 「私の事、覚えてない?」 「………そん、」 「覚えてねぇのかよ!2週間前のごみ捨てでお前リングノート捨てただろ!針金外さんとそのままで!」 「…あ、あっ!あの」 「そうその時の清生委員、」 「リンゴの皮燃えるごみボックスに捨てた先輩相手にメンチ切ってたヤンキーですか!」 「だぁいせぇかぁぁぁい!!!」 バァン! と、持っていた本を怒りに任せて返却ボックスに叩きつける。その瞬間、彼の視線が本に釘付けとなった。 「……その本」 「あん?あぁ、これ?うん」 「先輩のじゃないですよね?」 「…うん。まぁね」 「……」 「お前、図書委員なの?」 「はい。実は」 「あぁ、そうだったんだ。これ拾ったから、届けに来たんだけど。閉館後でもあり?」 「助かります」 「じゃあ、これ」 「序でに少しお伺いしたいんですけど、お時間よろしいですか?」 「…じゃあ、中に入れて」 「はい。どうぞ」 「………いや、あの」 「どうぞ」 「……」 彼の腰に提げている鍵で。センが彼にドアを開けてやった。
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