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「私、知ってるよ。その噂」
その話を聞いたのは、雨の降りしきる六月の、何だかむしむしする学生食堂でだった。
「噂?」
そう、と頷くのは、大学に入って新しく出来た友達、K林さん。
「此処の二階のトイレにある鏡の事でしょ?」
そう尋ねられ、私は頷く。その事を何となく話題に出したのは、他ならぬ私だった。
「……ねえ、あそこの鏡さあ」
「ん?」
同じ教職を目指す新しく出来た四人の友達に、学生食堂の円卓のテーブルで私は何の気なしに話を持ち出した。
「何であそこ、合わせ鏡なんだろうね」
「合わせ鏡?」
そういう怖いものには疎いのか、私の隣に座っていたM山さんはきょとんとした表情で首を傾げる。
入学してまだふた月程だが、初めてそのトイレを使った時から不思議に思っていた。
学生食堂の二階の女子トイレは、手洗い場の正面に鏡が付いている。まあ、これは当然であろう。ところが問題は、その後ろにも向かい合うように鏡が付けられているという事だ。
手を洗ってふと顔を上げた時、初めはとても驚いた。奥へ奥へ、無限に続く鏡の世界。後ろを振り返ったが、そこに水道は取り付けられていない。ただ、鏡が取り付けられているだけだ。
私の通うS大学は、平成の時代に入って建った、当時ではまだまだ新しい大学だったと思う。学校内も綺麗だし、図書館なんかは、なんでも有名建築家が設計したそうで、先生方は事ある毎にその話を持ち出していたものだ。
しかし、そこの鏡だけはあまりにも異様だった。たとえそういった怪奇現象的なものを信じていなかったとしても、普通こういうものは避けるもんじゃないのか? そんな話を、何となく零したのだ。
ところが、そんなどうでもいい話に食いついてきたのは、意外にも、いつも真面目そうなK林さんだった。
「何で合わせ鏡なのか、私サークルの先輩に聞いた事あるよ」
彼女の口調に、私は、おっ、と思った。もしやこれは、と内心わくわくしたのだ。
私は小さい頃から、お化けや怪奇現象の類が大好きだった。小学一年生の時、初めて図書館に行って借りてきた本が怪談本だったくらい、無類の心霊好きだ。今も尚。
だから勿論、この手の話は幾らでも知っていた。合わせ鏡に映った自分の顔の十三番目が自分の死に顔だとか(実践したが、そもそもそこまで見えないし、何処まで数えたか分からなくなる)、「紫の鏡」と二十歳になるまで覚えていると死ぬとか(反対に「白い水晶」や「ピンクの鏡」と覚えておくと、幸せになれるらしい)、鏡にいない筈の女性が映りこんで、その事を話しに行ったら「そこに鏡なんかないだろう」と言われた、などなど……しかしそういう話を読んだり聞いたりしている内に、どれもそういった話をベースに作り上げているものばかりで、最近では心底ぞっとするような話に出会えず、退屈していた頃だった。
K林さんはいつもとは違う口調で、ひっそりと話し始めた。
「あのね、あそこは、霊道なんだよ」
「レイドウ?」
「霊が通る道の事だよ」
私がそう答えると、首を傾げていたM山さんは、へえ、と頷いた。
「丁度、あの鏡がある所が霊道なんだって」
「でも、あんな所に鏡があったら、お化けの邪魔にならない?」
少し笑って、揶揄するように言ったN谷さん。私も正直そう思った。本来、合わせ鏡というのは、気を跳ね返す、という力があり、それでその鏡の間に挟まれた空間は良くないものになってしまうという。
しかし、K林さんは口調を変えずに話し続ける。
「この大学を建てた後、あそこのトイレでは怪奇現象が絶えなかったんだって。いない筈の女の人が映る、とか、ふと顔を上げるとよぼよぼのお婆さんが映ってて、実はそれは自分の死に顔だったとか……」
はい、出た出た。これも、よくある話をこの大学の噂風にアレンジしたって事か。私は少しがっかりして、小さく溜息をついた。
「でも、何でそれで合わせ鏡にする必要があるの? それじゃあ逆効果じゃない?」
今まで興味なさげに話を聞いていたH野さんが、漸く口を開いた。その言葉に、そこが重要なの、とK林さんは言う。
「困り果てた大学側は、対策を講じる事にしたの」
「待って待って。先生達、信じてくれたの?」
「信じるも何も、先生の中にも見た人が沢山いたんだよ」
えらいこっちゃだな、そりゃ。私は黙ってK林さんとN谷さんのやり取りを眺める。話の腰を折られて、K林さんは何だか不満そうだ。
で! と、気を取り直すようにK林さんは手を叩いた。
「その対策っていうのが、あそこを合わせ鏡にする事だったの!」
聞いていた私達四人の目は、見事に点と化した。
「いやいや……どゆ事?」
「合わせ鏡にしたら、余計に霊があそこに集まっちゃうんじゃないの?」
H野さんや私の言葉に、K林さんは首を横に振る。私達はますます分からなくなって、互いの顔を見合わせた。
「対策っていうのは、何も霊をそこから追い出す事じゃないの」
追い出す事じゃない? だとしたら、何をする心算なんだ?
私の疑問を読み取ったのか、K林さんは勝ち誇ったように微笑んで言った。
「そこへ来た霊を、強制的に成仏させるのよ」
「強制的に……成仏?」
きょとんとした表情で、M山さんはK林さんの言葉を繰り返す。鳥みたいにきょろきょろ目を動かしながら、これが本当のオウム返し。
「そう、合わせ鏡にする事で、その空間が跳ね返されて、そこは普通とは違う空間になる。すると霊は、この世に留まれずにその異空間に吸い込まれていくんだって」
おお、流石教員を目指すだけはある。流暢に喋るので、言ってる事が実にそれっぽい。だけど、いまいちしっくり来ない。
「それじゃあ、その異空間で手を洗ってる私達は大丈夫なの?」
N谷さんの言葉に、K林さんはいつもの調子を取り戻して、さあ、と首を傾げた。
「生きてる人間には、或る程度耐性みたいなのがあるんじゃない?」
急に雑。私達四人は、なんだあ、と破顔させた。急にいつもの雰囲気に戻る。その様子におどおどしていたのは、K林さんだった。
「ちょっと! まだ話終わってないんだけど!」
「え? それ以上何があるの?」
またN谷さんがからかうように言うと、K林さんはむっとして、じゃあいいよ、と口を閉じてしまった。私は少し困り、笑いながらも彼女を宥めた。
「ごめんごめん。続き、話してよ」
K林さんは、仕方ないなあ、と言うように、また話し始めた。
「ちょっとした、おまじないがあるんだよ」
すると、今まで笑っていた他三人は、すっと黙ってK林さんを見つめた。やはり幾つになっても女の子。おまじないの類には興味があるのだろう。
「さっき、合わせ鏡は、霊道を通る霊を異空間に吸い込ませる力があるって言ったでしょ。じゃあ、その力をその鏡から失わせるには、どうしたらいいと思う?」
また自分の中の教員魂が疼いたのだろうか。K林さんは、今度は私達に問い掛けて来た。……いや、まだ教員ではないのだが。
「うーん、鏡を取り外す、とか?」
M山さんがそう言うと、K林さんは、惜しい! と笑った。楽しんでいるのだろうか。
「でもね、考え方は合ってるよ」
「もう、焦らさないで言えばいいじゃん」
H野さんが指でテーブルを叩きながら言う。あまり考える事は好きでないのだろう。彼女は呆れたようにK林さんを見ていた。
「答えは、片方の鏡に口紅で横に赤い線を引く、でした!」
「分かる訳ないじゃん!」
N谷さんの叫びに、私もうんうんと頷く。ヒントが足りなすぎる。口紅の件は随分急だ。
「鏡に赤い線を引く事で、鏡の効力が無くなるって訳よ。だから、惜しいって言ったの」
全然惜しくない。
すると、H野さんが先を促した。
「で? おまじないって何なの?」
「あ、それね。……鏡の効力が無くなると、霊道を通る霊が、合わせ鏡になる前と同じように出て来るようになるでしょ? その霊を使って、自分の願いを叶えてもらうの」
ただ……と、K林さんは突然黙り込んだ。私達は不思議に思って、K林さんの俯いた顔を覗き込む。
「……ただ、何?」
K林さんは、少々言いづらそうにしながらも、ぽつりぽつりと話し出した。
「……やっちゃいけない事なのよ。このおまじないは」
「どうして?」
「だって……人を呪うおまじないだから」
その言葉がやけにはっきり聞こえて、私は思わずぞっとした。むしむししていたこの空間が、急に肌寒く感じた。
“おまじない” は、漢字で書けば “お呪い” となる。納得のいかない説明ではない。
「誰々と両思いになりたいとか、成績が良くなりたいとか、そういう、誰かが幸せになる事は願えない。あそこの霊道を通るのは、この世に深い恨みがあって成仏出来ない霊ばかりだから」
「……じゃあ、願えるのは」
「酷い目に遭って欲しい、そういうものだけ」
大怪我を負って欲しい、病気になって一生苦しんで欲しい、はたまた……死んで欲しい。そういう願いを、女子トイレの鏡は叶えてくれるのだそうだ。
急に雰囲気は重くなり、私達は黙り込んだ。その様子に、K林さんはまたおどおどし始める。
「いや、でも! ただの噂話だし! それに、そのおまじないをやるには条件があるのよ」
彼女の言う条件は、至って単純なものであった。
「先ず、時間帯は午前三時。ね? 無理な時間でしょ? 大体この学校、夜九時から朝八時まで開いてないし。それと……勿論、ただで願いを叶えてくれる訳じゃないの。ちゃんとそれに相当した対価を支払う必要があるのよ」
「へー、幾ら?」
私は場の雰囲気を明るくする為に、そんな冗談を言って見せた。元々この話をし始めたのは私である。何となく罪悪感があった。
そんな私を察したのか、K林さんも、お金じゃないの! と、態とらしく笑いながら怒ってくれた。
「でも……それは分かんないのよね。自分で決められる訳無いし……きっと、叶えてくれた霊が決めるんじゃないかな」
ふうん……まあ「人を呪わば穴二つ」と言うもんな。多少の不幸は自分に返って来るのだろう。
「ごめんね! 何か、変な話して!」
K林さんが困ったように笑いながらそう言って、この話は終わった。
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