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「恵美ちゃんは、何か住みやすくなるようなことって考えたりする」
「そうですねえ…」
そう言って彼女は目を閉じて考え始めた。アイラインが綺麗にひかれてた。
俺は周りの客を見たが、みんなせかせかと丼をかき込んでいる。急いでいるのか、味に興味がないのか、慌ただしい。
「結局のところ我々の存在は、常に不安定で、唯心論も唯物論も現在の我々を証明するに至らず、19世紀におこった自然科学文明の発達は、我々をともすれば唯物史観へと…」
俺は目を見開き、彼女に手を振って話をさえぎった。
「ああ、そうやんな、うん、恵美ちゃん。俺もそう思うわ。お腹いっぱい、なったらなんか眠くなってくるなあ」
「そうですね…」
「草枕は詩とか絵とかが、世の中を住みやすくするって書いてあるみたいやけど」
彼女はまた目を閉じた。背筋を伸ばし、こんどは右斜め上を見るような姿勢になった。
脳の中で多くの引き出しが開けられている。音が聞こえてきそうだ。沢山の言葉が詰まってるに違いない。
「大衆文化としての絵画や詩は、20世紀に入ってからのもので、それまでは主に貴族や王などのブルジョワジーを対象とした、特殊な文化だったと思います。大衆は常に被支配者階級としてそういった文化に触れる機会はなく、したがって近代化そのものが、大衆の啓蒙活動と結びつき…」
俺は大げさに何度もうなずき、再び彼女に手を振った。
「うん、うん。まったく、ようでけてると思うわ。啓蒙活動。それ。ええわあ…」
「啓蒙活動…いいですか?」
「そうや。バッチリや」
彼女が俺をじっとみつめる。俺は目をそらしたい衝動を、グッと押さえ込み、目尻のはねたアイラインに焦点を合わせ続けた。
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