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一日経ったが、まだ男の身元は特定されていなかった。警察も馬鹿ではないからいずれ割り出すだろうが、少しばかり手助けをしてやろうと思った。夫の帰りを待っているであろう細君のためにも、早く知らせてやった方がいい。
つまり、私はあの男が誰だったのか思い出したのだ。一晩眠り、目も酔いも醒めたところで、ふと顔が出てきた。
ファイルキャビネットを開け、資料を探っていく。この中には、今まで関わってきた仕事の資料をしまっていた。
奥の方を探り、一冊の雑誌を取り出した。数年に発刊された小説雑誌だった。ところどころ痛み、色も薄くなっている。
ペラペラ雑誌をめくっていくと、殺された男の顔写真が載っているページを発見した。
あの男は、それなりに有名は小説家であった。五年前にでた若向けの恋愛小説が売れ、『それなり』になった。私も読んだことがある。内容は間抜けだったが、いくつかの場面は今でも鮮明に覚えていた。良い小説といってもよかった。
だがそれ以降は本を出していなかった。理由は解らない。
彼は数年前に一度だけ、雑誌に写真を載せた。それが手にしているこれだった。
この雑誌が仕事に関わり残しておいて良かった。あるコラムが誰々の盗作ではないかという疑惑があり、身辺調査も含め依頼されたのだ。結局はうやむやになり仕事は終わった。内容のわりにはしょっぱい報酬だった。
よくよく写真を確認してみると、やはり酒を飲む前に殺された男で間違いなかった。
それなりに有名な小説家が殺された。
だが彼は忘れ去られた作家だ。新聞を賑わせるようなことはないのかも知れない。五年という歳月は、あの小説に酔っていた少女も、女になってしまっている。
私はデスクの椅子に座ると、雑誌を机の上に放った。ふわりとホコリが舞う。
机の上に置いてあるシガーレットケースから、一本タバコを取り出した。その横にあるマッチで火をつけた。煙を肺に吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。天井にぐんぐんと立ちのぼっていった。
手助けをしてやるにしても、警察にそのまま教えてやるのもしゃくにさわる。
私は新聞に、小説家先生の夫人宛にメッセージを載せることにした。明日の朝九時、旦那のことで知らせたいことがあるから探偵事務所まで来てくれ、と。
詳しい文章はあとで練るにして、大筋はこんなところだろう。
もし夫人がそのメッセージに気づかなくとも、世話好きの近所の誰かしらが気づき、きっと夫人に教えてくれるだろう。
私は煙を吐き出した。
次の日、私は七時に目を覚ました。朝食は気分でなかったから食べなかった。コーヒーとタバコを呑んだだけだった。
八時半頃、ドアがノックされた。随分と乱暴なノックだった。
扉を開けてみると、三十代くらいの女性がいた。誰かしらの夫人で間違いはないだろうが、お目当ての夫人ではなさそうだった。金を持っている小説家先生の細君にしては、身なりが庶民的だったからだ。
「どうしました」と私は言った。
女性は目を泳がせ、慌てた様子で言った。「あなたがこの事務所の探偵さん? 助けて欲しいの! 夫が帰ってこないんです。夫は薬物をやっていて、そのままどこかへ行ってしまったんです……」
ここにも、夫が消えてしまった哀れな女がいた。まだ若いだろうに、疲れた瞳と顔をしていた。
「すみませんが、これから用事があるんです。だから依頼をお受けすることはできないんです。申し訳ない」
「そ、そんな……」
「代わりに、信用できる探偵事務所をご紹介しますので」
それでも彼女は食い下がろうとしなかったが、とうとう分かりましたと言った。
私はデスクに戻り、紙切れに探偵事務所の住所を書いてやると、もう一度彼女のそばに行き、渡した。
彼女は頭を下げると、肩を落とし立ち去ろうとした。その間際、彼女は呟いた。
やっぱり、だれも相手にしてくれないのね。
私は、去りゆく彼女の小さな背中を見つめていた。旦那を深く愛する素晴らしい人ではあるが、それだけ痛みや苦しみも背負わなければならない哀しき女でもあった。
どうか夫が見つかりますように。私は願った。だが見つかったとしても、ジャンキーであるのに変わりはない。むしろ見つからない方が幸せなのかも知れない。
私は扉を閉じた。
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