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部屋に戻り時間を確認してみると、八時四十五分だった。もうすぐでお目当ての人は現れるだろう。私はサイフォンでコーヒーを沸かし待つことにした。
それからしばらくして扉がノックされた。今度は丁寧で落ち着いたノックだった。どんな人物か、想像に難しくなかった。
扉を開けてみると、お目当ての人がいた。ポーチを腰の高さで両手で持ち、小さな丸い帽子を被り、シルクのスカーフを首もとに巻いていた。
聡明そうな人だが、表情は暗かった。旦那と同じように気に病むことがあるのか、疲れた顔をしている。これは昨日今日のものではなさそうだった。
「お待ちしておりました、どうぞ」
私はお入りくださいと手でジェスチャーした。
夫人はちょこんと頭を下げると、中に足を踏み入れた。私は扉を閉めた。
デスクの前にある依頼人用の椅子に座ってもらうと、私は前に回り自分の椅子に座った。
夫人はポーチを膝に置き、右手を少しだけ入れた。なにを持っているかはすぐに解った。
「安心してください、なにもしやしません。脅そうというわけじゃない」と私は言った。「拳銃を握っている手を離してくださいましたら、ありがたいんですがね」
夫人は驚いたように目を細めた。そして視線をポーチに落とすと、右手を出した。その手には銀色のリボルバーが握られていた。
「正解です。よく解りましたね」夫人はそう言うと、拳銃をポーチにしまった。
「その手の方法で、何度か銃を向けられたことがありましてね。自慢できることではありませんが」
夫人は納得したように何度か頷くと、左腕を優しくさすり出した。
「それで、旦那のことと言うのは……」と夫人は言った。
「非常に言いにくいのですが、実は──」
私は、旦那が殺されたことを教えてやった。殺害方法や、犯人の特徴、警察がまだ遺体の身元を特定できていないこと。コーヒーを入れながら話した。
「それは、本当ですか……」
「はい、お辛いだろうが」
「そうですわね、うそをつく必要はないもの……」
そう言った夫人は、あまり驚いてはいなかった。取り乱してしまうだろうか、という心配は外れた。突然の出来事で、飲み込めていないのかも知れない。
だが段々と顔色は悪くなっていった。疲れたように肩は下がり、目の色は暗くなった。
私がコーヒーに手をつけると、夫人も手を伸ばそうとしたが、引っ込めた。そんな気分にはなれないのだろう。代わりに、また左腕をさすり出した。私はそれを眺めていた。
「いつか、こんな日がくると思っていました……」と夫人はおもむろに言った。
私は訊いた。「どうしてそう思うんです」
「……主人は酒に溺れ、友達もおらず人の悪口ばかり言っておりました。喧嘩もよくしていましたから……いつかはと……。昔はそんな人ではなかったのに」
「なるほど。では、昔はあなたに暴力を振るうような人ではなかったのですね?」
「え」
夫人は驚いて顔を上げた。困惑している様子だった。
私は立ち上がると、夫人の左側に立った。失礼、と一言告げると左腕を掴み、裾をまくった。そこには暴力の痕があった。白い肌の一部は青紫に変色していた。左腕をよくさすっていたのは、このためだった。
私は裾を戻し、左腕を離すと言った。「これは旦那のさんによるものですね。話を聞く限りは、乱暴な人らしいですので」
「……そうです。主人が。ですが、主人も色々と苦しんでいたんです。仕事のことで悩み、辛い思いをしていましたから……、基本的には優しい人なんです」
「だが暴力の理由にはならんでしょう」と私は言った。
夫人は顔を伏せるだけで、なにも言わなかった。私に言われなくても、解ってはいるのだろう。
そこで沈黙が生まれた。夫人はなにか考えている素振りを見せた。私は椅子に座ると、コーヒーを啜った。我ながら出来のいいコーヒーだった。
夫人は顔を上げると、
「今日は、どうもありがとうございました」
「礼には及びません。警察に知らせてやってください」
「あの、お代のほうは」夫人は声をひそめ言った。
「結構です、そんなものはいりません。呼びつけておいて金は取りませんよ」
夫人はもう一度頭を下げると、ありがとうございますと言った。小さな帽子が落ちないか、私は気になった。
「ですが、住所だけは教えていただきませんか。旦那さんのことで、訪ねるかも知れませんので」
「はい、わかりました」
夫人は住所を教えてくれた。そこは金持ちが住まう高級住宅街であった。
私は立ち上がり、扉に向かった。夫人も立ち上がると、私の後ろについてきた。
扉を開けてやると、夫人はお辞儀をして外に出た。そしてもう一度お辞儀をし、歩き出した。
遠ざかる背中を見ていると、私が追い返してしまったもう一人の夫人を思い出した。同じように、疲れきった背中をしていた。
旦那を愛する細君たちの背中は、確実に私の胸に残っていた。
私は静かに扉を閉めた。静かに閉めたつもりだったが、きいきいと音が鳴っていた。思い通りにはならないのは、人生と同じだった。
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