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次の日、新聞には遺体の身元が割れたと書かれていた。小説家先生の名前も夫人の名前も、あの刑事の名前も掲載されていた。私の名前はどこにもなかった。名前が売れれば食うに困らなくはなるが、忙しいのもごめんだった。だからこれで良かった。
記事を読み進めていったが、それ以上、事件は進展をみせていなかった。
私はデスクでタバコをくゆらせながら、殺された先生の小説を読んでいた。『それなり』になった五年前の作品を。遺作となってしまったそれなりの作品を。
しかしながら、内容は頭に入ていなかった。文字を読んでいてもするすると抜け落ちていった。タバコもくゆらせるだけで、煙を呑むことはなかった。
私の脳裏には、疲れきった夫人の顔が浮かんでいた。
そしてあの背中も──
私は本を閉じ、机に置いた。くわえているタバコを摘み、灰皿に押し付けた。フィルターから灰が溢れ出た。
引き出しからリボルバーを取り出すと、シリンダーを横に出し弾が入っているか確認した。ちゃんと六発装填されていた。
シリンダーを戻すと、手に持ったまま寝室に向かった。クローゼットを開けホルスターを取り出すと、ふところにつけた。そこにリボルバーを差し込むと、次に上衣を取り出し羽織った。ふわりと体に馴染むようだった。
デスクに戻り、帽子たてにあるソフト帽を被ると外に出た。
私を乗せた辻馬車は、高級住宅街を走っていた。車内はガタガタと揺れ、車輪の音が聞こえていた。
私は窓から外の景色を眺めた。
どこの家も真新しくて大きく、手入れが行き届いた芝生の前庭を持っていた。家の周りには柵すらもなかった。
街の中はゴミひとつなく緑に溢れ、とても静かだった。ここだけ緩やかな時間が流れているようだった。
次に視線を上げ、空を見てみる。水色の中に、渦巻くような雲が浮かんでいた。いつもより、ゆっくりゆっくりと流れていた。
その空模様は、とてもこの街と合っていた。金持ちが住みたがるわけが解った。
私が向かっている先は、夫人の家だった。
それから少しして、老齢の馭者が着きましたよと言った。
扉を開け馬車から降りると、私は馭者に金を渡した。金を受け取った馭者の手は、皺だらけだった。これまでの苦労を語っているようだった。
私は自分の手を見つめた。
まだまだであった。
馭者は縄をしならせ、馬車を走らせた。どこに向かうのかは、解らない。
私は向けを変え、夫人宅を見た。白の外壁で、屋根はオレンジと焦げ茶のタイルだった。一部の壁にはツタが伝っていた。是非、一度は住んでみたい家だった。我が探偵事務所とは大きな違いである。
前庭の石畳を歩いていく。隣の家の窓から、子供が覗いていた。目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。
石の階段を三段上がり、扉をノックした。
それから七秒後、扉の向こうから足音が聞こえ、扉が開いた。
若い黒髪の執事が顔を見せた。胸には片眼鏡を下げていた。
どちら様です? と訊ねられ、職業と名を名乗った。
「ああ、あなたが奥さまがおっしゃっていた……」と執事は言った。
「おそらく私のことだろう。そうそう知り合いに探偵はいまい。約束はしていないが、会えないだろうか?」
執事は少々お待ちくださいと言うと、頭を下げ扉を閉めた。三十秒ほどして、ふたたび執事は戻ってきた。申し訳なさそうな顔は浮かべていなかった。なので通してくれるのだろう。
予想は当たり、執事はお入りくださいと言ってくれた。
私は礼を言い、中に入った。そして執事の全身に目を向けると、私は彼の腕を触った。
顔色を変えることなく、執事は言った。「どうなさいました」
「──いや、随分と鍛えられていると思ってね」
「それほどではありませんよ」
執事はそう言うと、こちらですと廊下に手を向けた。
廊下を歩いていると、洗濯カゴを持ったメイドとすれ違った。メイドは愛らしく少し頭を下げた。私は帽子に手をやり挨拶した。
「こちらでお待ちください」と執事は言い、扉を開けてくれた。
私は礼を言い、部屋の中に入った。
部屋の中は家の外壁と同じく白く、床はフローリングだった。
左手にはカウンターテーブルがあり、真ん中には横長のガラステーブルが置かれ、ソファが並んでいた。正面の壁はガラス戸で、陽の光が差し込んでいた。部屋の隅には、観葉植物やトーテムポールが飾られている。
「コーヒーをお持ちします」と執事は言った。
「ありがとう。砂糖は入れなくていい」
「かしこまりました」
執事は頭を下げると、扉を閉めた。礼儀もあり人柄の良さもある正しき執事であった。彼みたいな執事を一人、事務所に欲しいところではあったが、そうすると私が食っていけなくなってしまう。
私はソファに腰掛けると、帽子を脱ぎ膝に置いた。
私は思った。コーヒーと夫人、さてどちらの方が早くやってくるだろうか。
答えは、同時にだった。夫人が扉を開け中に入ってくると、その後ろにはコーヒーを持ったメイドがいた。
夫人はお辞儀をすると、ソファに座った。メイドもお辞儀をすると、テーブルにコーヒーを置いていった。夫人のぶんはなかった。コーヒーカップからは、天井に向かってゆらゆらと湯気が揺れていた。
夫人は空虚を見つめ、遊び疲れて静かになった子供のような表情をしていた。
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