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こちらに顔を向けると、
「昨日はどうもありがとうございました。おかげさまで主人と会うことができました」
私は首を左右に振った。「礼には及びません。警察はなにかを掴んだようでしたか?」
「いえ、これといったものは、まだらしいです」
「そうですか」
私はそう言うと、コーヒーを手に取り口にふくんでいった。できるだけ音を立てずに、二度啜った。どうやら、砂糖は一つだけでも入れるべきだった。
コーヒーを置くと、足を組んだ。すると夫人は私の目を見ながら言った。
「それで今日はどうなさいました……?」
「個人的に、この事件を調べたいと思いましてね。警察はいい顔をしないだろうが。ご迷惑ですかね?」
「いえ、そんなことは。ですが、よろしいのですか?」
私は膝の上に、両手を置いた。「構いません。もちろん、報酬なんて要求しませんのでご安心ください」
夫人は少し笑った。私も笑ってみせた。
「それで、お訊ねしたいことがあるんですがね──」私はそこまで言うと、ポケットからシガーレットケースを取り出した。蓋にはお洒落な字体で、『LongGoodbye』と書かれていた。
「すいません、タバコは遠慮していだだけませんか」と夫人は言った。「私も主人もタバコが嫌いで、この家は禁煙にしているんです。申し訳ありません」
「それは失敬。失礼しました」確かに小説家先生の持ち物を探ったとき、煙の類はなかった。
「すいません」と夫人は言った。
「謝られることじゃありませんよ」
私は開けかけた蓋を閉めた。蓋には、これみよがしに、『LongGoodbye』と刻まれていた。
だが、長いお別れではなく、外に出るまでのほんの少しのお別れである。残念なことに禁煙にまでは至らない。
ポケットにしまい込むと、
「それでお訊ねしたいことというのはですね、旦那さんのことなんです。あなたに暴力を振るい、人の悪口もよく言っていたようですが、昔はそうではなかったんですね?」
「はい、その通りです」と夫人は頷いた。「でも、ここ数年は自堕落な生活を送っていました。苦しみや悲しみを酒で紛らわせようとし、自分に余裕がないから他の人を傷つけていました……。先日言ったように、いつかこんな日がくるんじゃないかと……、昔は優しい人だったのに……」
「しかし変わってしまった。それは遺作となった本を発刊した五年前から?」
「はい、その通りです……。よろしければ、ひと通りお話しますわ」
「お願いします」と私は言った。
夫人は小さく息つくと、話し出した。
「主人とは、小説家になる前の若い頃からの付き合いでした。その時はまだ、結婚はしていませんでした。
彼は絵に書いたような好青年で、とても熱意のある人でした。とても、とても。私も、彼のために一生懸命に尽くしていました。なかなか芽が出ず、苦しんでいる時は支え、二人三脚で進んで行きましたわ。
彼も私のために色々と工夫して、楽しませてくれました。お金がないからなにも上げることはできないけどと言って、私を主人公にした小説を書いてくれました。彼は、とても恥ずかしそうに笑っていましたが、私は嬉しくて、涙を流しそうになりました。読んでみますと、それはもう赤面してしまうような内容でしたけど、彼からの愛がたくさん詰まっていました。ああ、こんなにも私を愛してくれているんだなと。それが、嬉しかったんです。その時にもらった小説は、今でも保管してあります。
贅沢はできなかったけど、あの時は街を歩いているだけで楽しかった。家に帰ると、彼の夢の話を聞きながら、レモンを搾ったライウイスキーを二人で飲みました。その酒は、ことある事に二人で飲んでいました。主人も私も大好きで、夜中のロウソクの灯りしかない部屋で、その酒を飲みながら夢と私への愛を熱く語ってくれるのです。それが一番楽しい時間でした。
あの頃は、お互い無我夢中でした。私もパン屋で働きながら、料理の勉強に勤しんでいました。あの人に美味しいものを食べてもらい、元気になってもらいたかったから。彼が料理を食べて、なんだかいいものが書けそうだよなんて言ってくれると、私は無垢な少女のように喜びました。実際、あの頃は若かった……。
ある日、私がキッチンで料理をしていると、彼が大はしゃぎしながらやって来ました。腕をぶんぶんと振り、やった! やった! と私に言ってきます。どうしたのと訊くと、彼は、とある出版社に送った小説が気に入られ、掲載されると言いました。
私も思わずびっくりしてしまい、包丁を足元に落としてしまいました。彼が抱きついてくると、私も彼を抱きしめてあげました。私と彼の夢が一つ、叶ったのです。私は涙を流しました。泣いている私を見て、あの人は笑っていました。でも、嬉しかったんです。
その日、私たちはレモンを搾ったライウイスキーを飲みました。やはり、夜中のロウソクの灯りしかない部屋で、これからの夢を語りながら。
それから、私たちは結婚しました。もともと、小説家になれたら結婚しようと言われておりました。まだまだ収入はなかったけど、若さもあって二人とも怖いものはありませんでした。結婚指輪は、身の丈にあっていないダイヤの指輪を送ってくれました。とても高価なものですが、これが僕の本当の気持ちだからと、彼は言いました。こんな指輪くらい、いくらでもプレゼントできるようになってみせると。
主人はそれからも必死になって物語を書いていきました。自分が面白いと思う作品を、どんどん出していきました。ですが、なかなか収入は増えていきません。つまり、あまり売れなかったのです。主人は段々と怒りっぽくなり、酒もそれまで以上に飲むようになりました。けど、私はそんなこともあるよねと理解していました。辛い思いをしているのを、知っているからです。
そして、若向けに書いた恋愛小説がたいへん売れました。五年前に出したあの本です。主人はその作品で、いちやく有名になりました。お金も、かなりの額が入りましたわ。
でもその代わりに、主人の自信はなくなってしまいました。その小説は書きたくて書いたわけじゃなく、編集者に言われて仕方なく書いた産物でした。本人は、クソみたいな小説だと評していました。ですが、それが世に受けたんです。編集者からは、その手の小説書いてくれと言われ、自分が書きたいものを書かせてもらえなくなりました。
それを切っ掛けに、主人は変わってしまった。小説を書くこともなくなり、酒ばかりの日々になってしまいました。
主人は病んでしまったんです。生きがいであった小説が書けなくなったという理由もあるでしょう。本人も気分を変えようと思い、こんな豪華な家に住み、使用人も雇ってみましたが、駄目でした。主人はますます酒に溺れ、他の女性にも手を出すようになりました。酒場では素朴な振る舞いをして、友達もいなくなりました。私にも暴力を振るうように。大好きだったライウイスキーも、一緒に飲まなくなりました。
主人はいつか、自殺してしまうんじゃないかと私は思いました。夜中、一人で声を押し殺し泣いていることもありました。私に弱いとこを見せまいとしているんです。そんな主人を見ていると、暴力なんてほんの些細なことだと思えました。妻として、主人を支えようと。
ですが主人は、数日前に殺されました。悲しいけど、もしかしたらこれで、主人は救われたのかも知れません。全てから解き放たれたのです」
夫人は話し終えると、また空虚を見つめた。全てに疲れ果てた様子だった。
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